第70話「ライオンがドアにいるかのよう」
インフゥの勝ちを安心して聞けた者と、そうでない者とを比べると、安心して聞けた方が少数派だった。
――この世の摂理に、弱肉強食なんてものはない。
その言葉から始まったインフゥの喝破に含まれるのは、戦国の否定。
――そうでなきゃ、戦争はずっと続いてた。平和な時代なんてなかった。
即ち、この場に大公が大帝位を争うと信じて集まった者の否定だ。
――だから剣士が、そうじゃない人を踏み付ける時代が続くはずがないんだ。
特に
戦乱の世をもう一度、もたらす事を覚悟している、つまり弱肉強食を是としている。
「とんでもない者が現れたな……」
誰からともなく、そんな言葉が出てくる。歓迎できない勝者というのは、皆、共通して思っているくらい。
そんな貴族の言葉を耳にしながらでも、大公はインフゥの技を侍従に問いかけていた。
「どうなっている?」
踏み込みも剣を振るうのも、明らかにインフゥが遅かった。これは大公が見てもハッキリしていたのだから、剣士から見れば致命的な遅さだったはずだ。
「は……」
しかし侍従も、そのカラクリは分かっていない。剣術の経験が圧倒的に不足していた。
これは流石に居心地が悪い、と大公が
「恐れながら」
ヴィーである。剣士として控えの場にいたのだが、半数の試合が終わったところで戻ってきた。
「剣は身体の重心よりも下へ向かうずつ威力を失います。殺傷力を持つのは、精々、脳天から股下まででしょう。インフゥは、その更に下へ身を屈めたため、皮を切れても肉を断てず、骨になど尚、届かなかったのでしょう」
そんな体勢で活きた刃を振るえたのは、インフゥの持つバウンティドッグのスキルであり、精剣を宿すホッホの感覚をフィードバックさせたがため。
――
ファンでも使えない技だとヴィーは舌を巻いくのだから、大公も
「なるほど……」
が、
「しかし、あのスキルでは取るに足らない。一対一では
精剣スキルが大規模攻撃でなかった事、また使える状況が限定されている事は、精剣を兵器、戦力として見ている貴族としてはつまらない。
「……」
ヴィーは視線が向きそうになるのを堪えた。非難がましい視線を向けるのは筋違いであるし、何よりもヴィーも大公が選出した出場剣士。無作法は大公の恥になる。
「恐れながら大公殿下」
そんな視線を貴族へ向けない代わりに、ヴィーは大公へ一歩、近寄った。
「立て続けの二戦で、皆様、お疲れでしょう。この辺りで一度、休憩としては?」
期待通りか、それとも期待外れかは分からないが、確かに丁度いい時間である。
「おぉ、そうだな。昼食を用意しておる」
大公から貴族へ声が掛けられた。
用意してあるという昼食も、この温暖なシュティレンヒューゲルで収穫できるありとあらゆるものを使った贅沢なもの。
揃えられた魚、野菜、果物も、それを扱う料理人も一流だ。
「これは豪勢な」
「流石はシュティレンヒューゲル」
貴族は口々に誉めるのだが、さて大公の気持ちはといえば、その真逆。
――それ程でもない。
それもそのはず、この料理に手をつけるのは、大公が最初ではない。
当然、毒味をされた後であり、それが大公が美味しいと感じられない原因だ。作られてから毒味だなんだとあるのだから、大公の元へ出されるまで時間がかかる。
――冷えた料理が、
思い出すのは、戦国の世を治めた
――お祖父様も、大帝位に就かれる前は質素倹約を
冷めた食事は例外なく
そして祖父と同時に、伯父の事も思い出す。
始世大帝の次男は武勇に優れ、早世してしまった事は大帝家の悲劇として扱われているくらいの
その伯父は、自分の食べるものは全て自分で作っていたという。
――毒殺される心配がないから……というのは、底の浅い答えだ。
周囲は毒殺を防ぐ合理的な手段だというが、決してそうではない事を大公は知っている。
――主人が自ら方々へ足を伸ばして材料を集め、自ら調理するから、
伯父がそういっていた事を聞いていた。
そして伯父の言葉で、最もよく覚えているのが、今、旨いと思えない料理に関する回答だ。
――料理は、少しくらい味が悪くても、温かい料理を、皆で囲めば旨い!
伯父は鍋料理をよく作っていた。何人前も入るような巨大な鍋に山盛りの野菜や魚を入れ、皆が思い思いに食べる。
――あれは旨かった。
温かい料理というだけでなく、その場が温かかったのだ。
それに対し、今、自分の周囲を見渡せば、鍋といっても一人用の小さな鍋が、一人分の膳に載っているだけ。
――冷めた料理を、温かいとは言えない輪の中で食べる……旨いはずがないではないか。
大公の意識が向くのは、ヴィーが紹介してくれたファン一行ではなかった。ファンが温かい弁当を用意している事くらい想像に易いし、何より精剣を宿す女性としっかりとした信頼関係を結んでいる。
大公が気にしたのは、ファンたち赤方ではなく、黒方だ。
ファンはこの場で出されるものは、茶一杯、手を付けたくないといっていたが、黒方はそこも対照的だ。
次に出てくるファル・ジャルは、大公が用意した昼食を
毒殺を怖れていない豪胆さを持っているのか、それとも気にも止めない程も鈍感なのか、ファル・ジャルはがっつきながら、ミョンへとインフゥが投げかけた言葉に嘲笑を繰り返していた。
「適者生存?」
「今の適者とは、強者の事だ」
偉そうにいうなとファル・ジャルは鼻先で笑った。
「弱肉強食は、適者生存と相反する事ではない。その程度の読み解きもできない剣士とは、同情する」
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