第68話「ハートのジャックがケーキを盗んで」

 精剣せいけんとて刃引はびきではない。れっきとした刃物であり、突けば刺さる、触れれば切れる代物だ。ファンが振るう非時ときじくは、名剣に相応しい切れ味、威力を発揮する。


 だが刃物として使用する者はまれだ。


 希な理由は無論、剣術が廃れたのが理由なのだが、希で留まっているにも理由はある。



 ――バフっていうスキルか!



 衝突する寸前、インフゥが気付いた。


 磨き上げるという意味を持つカテゴリー名「バフ」は、剣士の肉体、あるいは精剣そのものに作用し、攻撃力や防御力を上げる効果を持つ。


 踏み込みから制止へと移るインフゥに対し、ミョンは黙って視線を突き刺す。


 その横顔を照らすのは、ミョンの精剣を覆った炎だ。


「!」


 火は最も身近な破壊を象徴するものであるから、インフゥの原始的な恐怖心を刺激した。


 気持ちはどうしようもなく四肢を支配する。


 ――耐えろ!


 そうは思うインフゥだが、何もすがるものがなければ耐えられなかった。


 インフゥがすがったのは、今、自分が身に着けている技術を与えてくれたファンである。


 ――敵を憎むな。憎むなら、怖じ気づく自分の心を憎め。


 今、インフゥを覆い尽くそうとする感情を自らのものにする事がスタート地点にあった。


 ――自らの両足に込める何かを持て。自分の立ついしずえだ。


 あるはずだと必死に歯を食い縛るインフゥへ、ミョンは剣を振り上げる。


「シャアアッ!」


 猛獣を思わせる掛け声と共に放たれるミョンの打ち下ろし。


 それが斬ったものが宙だけだったのは、インフゥの身体に宿っているものがインフゥの意地だけではなかったからだ。


 インフゥが手にしているバウンティドッグは、ホッホの感覚をフィードバックする。



 ファンの教示と、ホッホのインフゥを想う力が切っ先をかわす紙一重の空間を作り出した。



 そしてインフゥの両足に宿った礎は、不用意な追撃に移ろうとする衝動も抑え込む。剣を振り回しているのだから、ミョンは正式な剣術など修めていない。だがインフゥとて、ファンから習ったのは飽くまでも基本的な動きだけ。


 追撃は成功する確率が高くとも、絶対・・ではなかった。


 それをミョンがどう思ったか?


「怖じ気づいたな!」


 ミョンの言葉は根拠のない自信に部類されるが、挑発的な言葉に乗ってしまえばインフゥとて間抜けといわれていた。


「退けば弱るぞ」


 ミョンが挑発を重ねた。


「この世は弱肉強食。弱者の肉を強者が喰らう。弱い者は、強い者の糧として生きるのは義務、責務だ。ならば糧になれない弱者は、存在する価値がない」


 燃えさかる精剣を構えたミョンが、その刃越しにインフゥを見遣る。長身とは言えないミョンだが、少年のインフゥよりは背が高い。


 見下ろすミョンは、その態度でも、インフゥを威圧しようとしていた。


「弱肉強食……」


 その言葉こそが、ミョンをこの場へ連れてきた原動力である。



「この世の摂理だ」



 分かるだろう、とミョンは言外にいう。


「強い者が生き、弱い者は死ぬ。摂理は絶対だ。逆らう事は無駄な努力、徒労」


 ミョンは大公や陪観ばいかんしている貴族へも声を向けていた。


 最早、懐かしいといえる戦乱の世は、そんな摂理が最も強く輝いていた時代だと投げかける事で、自分の理想を伝えようとしている。


 大公は目を細めるのみ。


 ――弱肉強食か……。


 見る者によれば、ミョンの語る摂理を理想として持っていると思う仕草だった。


 大公を盗み見るように横目で見るミョンには、少なくともそう思えたのだが、インフゥの声がミョンの意識と視線を引き戻す。


「そんな事ない」


 そんなミョンへ向けるインフゥの視線は、刃越しではなく、見下ろすようなものでもなかった。


「あん?」


 ミョンが戻した視線は冷ややかなままだ。


「犬を連れてるんだから、自然の摂理くらいわかるだろ」


 冷ややかな視線に嘲笑が混じる。


「感情か? 頭で理解できても、感情で理解できねェか」


 バウンティドッグのスキルが、精剣を宿した女の感覚を剣士にフィードバックするものである事を知ってか知らずか、ミョンは嘲笑を繰り返した。


 だがインフゥは、フィードバックしているホッホの感覚を否定してるのではない。


「この世の摂理に、弱肉強食なんてものはない」


 ホッホの感覚を得ているからこそ、ミョンのいう「摂理」など存在しないと知っているし、詭弁きべんであると分かっている。



適者生存・・・・



 強い者が弱い者を貪るのではなく、世に適した者が常に生き残る事こそが世の摂理だ。


 戦う牙ばかりを研ぐ者は滅ぶしかないのだ、という言葉は、それこそ大公が望む世を肯定している。


「そうでなきゃ、戦争はずっと続いてた。平和な時代なんてなかった」


 ただ、そこから先の言葉は、インフゥの感情が含まれている。


「だから剣士が、そうじゃない人を踏み付ける時代が続くはずがないんだ」


 戦う事しかできない者が、世に適しているはずがないのだと怒鳴ったインフゥに、ミョンは眉尻を吊り上げた。

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