第2話「僕の大好きな信号ラッパ」
果たして誰かと、皆の顔が入り口へ向けられる。
その先では、
食堂の中が緊張感に包まれるのだから、絹服の男がどのような出自、身分であるかは明白である。
「あいつ……!」
店主の甥が歯軋りした。
高がそれだけの行動でも、剣士は少年を睨みつける。
「あの……!」
粗末な服を着た女が、恐る恐る声をかけた。
「……」
その姿は食堂内の空気がいちいち揺らせる。この女は食堂にいる誰かの母であり、妻なのだ。
そんな女へ剣士は笑みを返す。
「斬らんよ」
不敵な笑みを作って見せる剣士の言葉からは、主語が抜けている。
斬らないとは、誰を斬らないというのか?
それが分かっているだけに女の顔に安堵はなく、故に剣士は
「ここにいるのは大切な臣民だ。傷つけたりはしない。領主様の許可もなく……なぁ? 斬るはずがないじゃないか」
どんな会話があり、どんな考えを持つ者がいるのか分かった上であっても、剣士はの優越感が揺るがない。負け犬の遠吠えくらいに思っているが、
「ただし――」
見せしめは必要だ。
「旅芸人、お前は別だ」
村人ではないのだから、無礼打ちする事に躊躇う必要などはない。
「お待ちください!」
慌ててエルが立ち上がり、ファンと剣士の間に立つ。
「お調子者が、ただ調子に乗って――」
「勘違いするな」
剣士の大声がエルの言葉を遮った。
「お前も旅芸人だろうが」
怒声。
「斬り捨てるのは二人に決まっているだろう!」
剣を寄越せと女に目を向ける。
「我が半身、炎の精剣プロミネンスを!」
剣士の声に、木綿の服を着た女が自分で自分の肩を抱く。
女は既に
意識の上へ何者かがやってきて、女の嫌いな色に塗りつぶしていくような感覚が襲いかかってくる。
当然、不愉快な感覚だ。眩暈がし、吐き気がする。本能が拒否しようとするが、塗りつぶされた心の割合が大きくなるにつれ、肉体には快楽が宿っていく。
女は声を奪われ、それを始めに感覚が消えていく。
その全てが自分の意のままにならなくなった時、自分は精剣へと姿を変えるのだと思うと、言い知れぬ恐怖が――いや、恐怖すら消えてしまう。
女のあらゆるものを塗りつぶしていく快楽が高まり――、
「剣士様、お待ちを」
フミの声が、それらを断つ。
声だけならば止まらなかったかも知れないが、フミが言葉と共に伸ばした手に載せられていたものには、精剣を抜く意識を奪うものがあったのだ。
金貨や銀貨の類いではない。
コインの大きさではないのだから、メダル、あるいはビスケットと呼ばれる高額貨幣か。
「売れば、それ相応の代価が貰えるでしょう。少なくとも、剣の錆落としに研ぎ師を呼ぶよりも有益のはずです」
「……」
剣士の視線が掌と顔とに行き来した。
「は……ふ、フン」
何やら奇妙な声に聞こえてしまうが、剣士は鼻を鳴らしてメダルを上着の内側へ滑り込ませる。
「旅芸人の命に比べれば、相当、多いが……まぁ、いい」
その一言が、フミが支払った代償が相当な大きさであった事を示していた。
「帰るぞ」
剣士は踵を返し、女を一瞥する。
「は、はい」
ホッと胸を撫で下ろした女は、事を荒立てずに治めてくれたフミに一礼した。そのため剣士よりもかなり遅れる目事になり、
「早くしろ!」
食堂の前に乗り付けている馬車からだろうか、剣士の怒鳴り声が聞こえてきた。
「はい!」
女は慌てた声で返事をし、もう一度、フミに「ありがとうございました」と告げ、出て行く。
ややあって馬車の音が遠ざかると、ファンの頭を後ろからエルが押した。
「頭、下げてください」
フミによって救われたのは、何よりも自分たちが第一である。
「ありがとうございました」
エルはファンの頭を押さえつけ、お辞儀させながら言った。
「ありがとうございます」
ファンが言うと、フミは思わず吹き出してしまう。エルは「ございました」と過去形、ファンは「ございます」と現在形だったからだ。やらされているのではない、と言うささやかな抵抗なのかも知れない。
「ありがとうございました」
そんなフミの笑みに対し、横合いから少年の言葉がかけられた。
「ん?」
フミが顔を向けると、少年はファンやエルよりも恐縮した顔をみせていて、
「あいつが簡単に引き下がったって事は、高価なものだったんでしょう? 大切なものだったんじゃないんですか?」
「それなりに高価なのは間違いないけど……気にする事はありませんよ」
フミは笑みを苦笑いに変え、気にする事はないと少年の頭をひとなで。
「生きていれば、また戻ってくる事もあります。大切なのは、諦めたり、希望を捨てたりしない事です」
そういいながらフミが視線を食堂の中へ巡らせた。
「そう……何事も、ですよ」
その言葉には、連れ去られていった女たちも含められているのかも知れない。
「……全く……」
店主はフッと笑いながら、冷めてしまったチキンを下げた。
「温め直そう」
「ありがとうございます」
フミが軽く片手を上げた。何ともありがとうが乱発される日である。
「ところで、ファンさん、エルさん。命を救われたとお思いなら、何か明るい曲をお願いできませんか? 楽器も演奏できるのでしょう?」
「お安いご用ッス!」
飛び跳ねるように席を立つファンは、馬車に積んである道具箱からラッパを取り出してくる。
「折角、明るい雰囲気になったッスからね」
心が弾む曲を――とファンが目配せすると、エルも食堂の片隅にあるスタンドピアノを指した。
「ピアノ、お借りしていいですか?」
店主の返事は決まっている。
「ああ、いいとも」
温め直したチキンをフミへと振る舞う店主は、「飛び切り明るい曲を頼む」といってくれた。
「はい」
いうが早いか、エルはピアノの鍵盤を2オクターブ程、流すように指を滑らせる。
それを合図にファンのラッパが響く。
笑顔も同様だ。
そんな中、フミは主役は皆だとでも言うように下がり、チキンにナイフを入れながら板壁一枚向こうへ意識だけを向ける。
「十分だろう。明日にでも動こう」
食堂の中にいる者には決して聞こえない小声だったが、壁の向こうにいた者へは十分、届いた。
――すべからく。
壁から誰かが離れる気配がする。
「待て。最後に、全員に念を押しておけ」
フミの言葉に気配が止まった。
「私が合図をするまで動くな、と」
――すべからく。
今度こそ気配は完全に消えた。
「これでいい、これでこそ……」
笑みを浮かべた口元へ、フミはチキンを運んだ。
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