化かす狐と演じる女

久世 空気

化かす狐と演じる女

 尾山黎火おやま れいかはシャワーを浴びた後、バスローブのままソファに体を預け、備え付けのミニバーから出した缶ビールを開けて一口、喉を鳴らせて飲んだ。その姿がまるで映画のワンシーンのようで、冴原さえはらはベッドからうっとりと眺めていた。黎火は今年40才も中ごろのはずだが、バスローブから覗く生足はつややかでみずみずしい。

「何を見ているの?」

 クスリと笑い黎火は冴原に微笑んだ。その表情はテレビや映画で見るのより少し幼く見える。これがもともとの黎火なのだろうか。

「黎火さん、明日は初上映の舞台挨拶ですよ。お酒飲んで大丈夫ですか?」

 黎火が意外と酒に弱いことは付き合い始めて知った。あまり共演者と密に関わらないから、業界関係者もあまり知らないことだろう。

「そうなんだけどね、私、ちょっと緊張しているみたい」

「え? 黎火さんが?」

 高校を卒業してから芸能界入りをした20代の冴原と違って、黎火は子役からずっとこの業界で活躍しすでにキャリアが30年を超えている。今更初上映でナーバスになることなんかないと思っていた。そんな弱さを見せてくれるのも自分だけなんだろうと思い、冴原を思わず顔が緩んだ。黎火はそれを嘲笑ととったのか、少しむっとした顔をしてそっぽを向いた。

「この映画は私にとっては特別なのよ。そうなることだってあるわ」

「ごめん、違うんだ。黎火さん。俺と同じ気持ちだったって、ちょっと嬉しかったんだよ」

 冴原は慌ててベッドから起き上がり弁明をした。その様子がおかしかったのか、黎火は表情を和らげる。

「そう、あなたは初主演ですもの。でも、私が緊張しているのはそういうことじゃないのよ。この映画が無事、上映されるかどうかっていう心配」

「えっと、どういうことですか?」

 黎火の言っている意味が分からなくて冴原は素直に聞いた。黎火はふと視線を下に降ろし、何か思いめぐらせるかのような表情をした。そしてぽつりぽつりと話し始めた。

「もしかしたら、信じてもらえないかもしれないけど……」


『おさん狐』――この映画は人間の若侍とおさん狐の禁断の恋の物語だ。一言で言ってしまえば安っぽいが、ただの化け狐ではなくもっと繊細で優しい心を持ったおさん狐は魅力的で、おさん狐役に選ばれたとき、黎火はとても楽しみだった。しかし脚本を深く読み込んでいくうちに黎火は徐々に不安になってきた。おさん狐は人を化かす。時には若い町娘、時には艶っぽい年増。そのどちらも黎火はその演技力でカバーすることが出来た。実際監督にも絶賛され、『尾山黎火が特殊メイク無しで化ける!』と前評判もなかなか良い。ただ、うまく演技すればするほど、黎火の不安は増していった。いったい何の不安なのか。これまでの女優人生でこんな気持ちになったのは初めてだった。昔なら演出家の父や、元歌劇女優の母に相談できたのだが、すでに黎火自身ベテランと言われているのに、それをするのは憚られた。だから自分で何とかするしかない。撮影が本格的になる前に、黎火は一人、おさん狐の地、広島市の江波に向かった。


「行ったんですか? 一人で?」

 冴原は驚いて聞き返した。

「ええそうよ」

 こともなげに黎火はうなずく。しかし大女優が単身、東京から広島までただ「おさん狐」を知るために向かう姿を、本人を目の前にしても冴原は想像できなかった。そんな冴原を置いて、黎火は続きを語り始めた。


 広島電鉄の江波電停で降りる。すぐそこにおさん狐の像があると調べて知っていた。詳しい場所は知らなかったが、それほど探さずに見つけることが出来た。細長い体を二本足で支える女狐の像。どこか愛嬌があって、地元で愛されているということが感じ取れた。おさん狐の子供に餌をやって可愛がっていたという話はそれほど昔ではない、昭和のことだそうだ。この後は丸手山不動院というところにおさん狐が祀られた祠があるので徒歩で向かうつもりだった。

 しかし、おさん狐の像を見上げているとぽんと肩を叩かれた。振り返ると細い目の女がすぐそばに立っていた。

「迷わず来れまして?」

 女はまるで黎火と約束をしていたかのように言った。あっけに取られていると、黙って黎火の手を取りぐんぐんと手を引いて歩き始めた。そして趣のある旅館に連れ込まれた。一方的に手を引かれている妙な客にも関わらず、迎えてくれた仲居は「ようこそ」とニコニコしている。そのまま黎火は奥の座敷に通された。

「まあ、そう緊張なさらず」

 細めの女は座卓を挟んで向かいに座った。細い体に上品な花柄のワンピース。黒い髪は長く垂らしてあるが野暮ったく見えないのはなぜだろう。

 黎火が答えないでいると、どんどんと料理と酒が運ばれてきた。狐につままれたような気持ちでそれをみていると、ふとこれは本当に狐ではないだろうかと黎火は思い至った。何しろ目の前の女が見れば見るほどに狐顔なのだ。

「今度の映画の話、聞いてみたくてね」

 女は細い目をさらに細くして微笑み、黎火の胸が高まる。

 おさん狐。彼女が、そうなんだ。

 ではこの料理も、運んでくれた仲居も、この旅館ですら、狐が見せた幻覚なんだ。恐怖はなかった。たとえ注がれた清酒が実は泥水だとわかっても、黎火はときめかずにはいられなかっただろう。わざわざおさん狐本人が迎えてくれたのだ。映画に興味を持って、微笑みかけてくれたのだ。

 黎火は喜びを隠すこともできず、映画について話し始めた。ストーリー、登場人物、監督と脚本家、その他のキャスト、スタッフについても。外にはまだ出ていない情報もあった。しかし、どれだけ期待のできる、すばらし作品かを目の前の女性に知ってもらいたい。喜んでもらいたい。その一心で、まるで小学校に行き始めたばかりの子供のように話続けた。

 だが、始めこそ興味深げに聞いていたおさん狐も、何故か徐々に笑顔をなくし、生返事をしながら手酌し始めたのだ。

 何が悪かったんだろう。黎火は焦った。黎火は必死だった。どうすればこの映画の良さを彼女にわかってもらえるのか……。

「もう、いいわ」

 そう言われたとき、絶望で全身の血が引くのを感じた。

「あの、撮影もまだ始まってませんし、もし、何か気に入らないものがあれば」

 自分でも気持ち悪くなるくらい卑屈な言葉が漏れ、口をつぐんだ。おさん狐はそんな黎火を見て、不敵に微笑んだ。そしてススス、と黎火のすぐ傍まで寄ってきた。

「そうじゃないのよ。私が気に入らないのは」

 ふーっと強い酒の香りがする息を黎火に吹きかける。

「あ・な・た」

 ガツンと頭を殴られるような感覚がして、一瞬黎火は眩暈を起こし、目をつむった。そして目を開けるとそこは


「おさん狐の像の前だったの」

 そこで黎火は缶に残ったビールを飲みほした。冴原はその様子を呆然と眺めていたが、黎火はそれ以上口を開こうとしない。

「えっと、それで?」

「それだけよ、すぐに東京にとんぼ返りした」

 これもまた、なんでもないように言う。

「狐に化かされたって話ですよね」

「まあ、そうなるわね」

「それなら、そんなに不安になることはないんじゃないですか?」

 話の内容は突拍子もないが、本当なら面白いし、嫌な話ではない。おさん狐が「おさん狐」役の女優にコンタクトをとったのだ。

「気に入らないっていうのも、からかってるだけじゃないんですか。狐だし」

「そうじゃないのよ」

 黎火は空になった缶のふちを指で撫でながら物憂げにつぶやく。

「彼女が私を気に入らない理由がわかるのよ、なんとなく」

 黎火は冴原を見ようとしない。伏せた瞳に長いまつげがかかり、黎火が泣いてしまうんじゃないかと冴原は思わず座りなおす。

「『おさん狐』は魅力的よね。人をたぶらかすくらい美しく化けれて、でも見た目だけじゃない、愛嬌もある。悪さをするけど、憎めない。彼女自身も人間を嫌ってはいない。むしろ関わろうとしている。狐と人間の間を、器用に渡り歩いてる」

 逆にね、と黎火は言う。

「逆に私は何もないのよ。子供の頃からいろんな役をこなして、こうすれば上手く演じられる、こうすれば人に見てもらえる。そういう風に育てられてきて、当たり前のように女優をしてきた。でも演じてない自分のことは実はよくわかっていないの。まるで自分のことのように話す私生活も、どうすれば尾山黎火のイメージに沿った生活なのか考えながら生きているから、それも自分が望んだことなのかどうか、わからない。そんな空っぽの私に、彼女は気づいたのよ」

 気に入らないのは、うわべだけを上手にまねようとする空っぽの私。黎火はそう言いたいのだろう。冴原はかぶりをふった。

「俺は黎火さんが空っぽだとは思いません。一緒に仕事をしているときも、こうやって二人で会ってくれる時も、楽しいし、上手く言えませんが、満たされます」

 黎火が視線を上げる。その瞳は黒く、弱弱しく見えた。

「かいかぶり過ぎよ」

 その言葉も、彼女のせい一杯の強がりのように思えて冴原は両手を伸ばして黎火を引き寄せ抱きしめた。黎火は一瞬体をこわばらせたが、すぐに冴原の胸に体を預けた。

「もし、おさん狐が映画の上映を邪魔しに来ても、俺が絶対に守ります」

 黎火は黙ったまま胸の中で何度もうなずいた。ひょっとしたら泣いていたのかもしれない。

 冴原にも実は不安なことがあった。黎火との関係が、映画の撮影の間だけではないかということだ。黎火とは何度もデートをしたが、将来の話などは一切してない。ひょっとしてこれまでも黎火はそうやって一時の関係を続けて空っぽだと思っている自分自身を埋めていたのかもしれない。そうでもないと、これまで独身だという理由がない。

「これからも、俺がずっと守ります」

 やっぱり黎火は答えなかったが、冴原には彼女の体温が熱く思えた。


 翌朝、二人バラバラにホテルから出て、会場に向かう。冴原が先に部屋を出るとき黎火は少女のように微笑んで小さく手を振った。彼女はあとからタクシーで来ることになっていた。

 会場に¥につくとすでにスタッフが働いていて、楽屋も整っていた。監督や助監督に挨拶し、後から来た他の俳優たちと今日の段取りを軽く打ち合わせる。そこに黎火が楽屋のドアから顔を出した。

「おはようございます、遅刻かしら?」

「大丈夫ですよ。初主演の冴原さんの緊張を解いてただけですから」

 冴原とほぼ同期の若手女優がからかい半分に言う。黎火はその言葉ににこりと花のように微笑み、先に化粧直してきます、と楽屋を出た。

 それから30分ほどして、そろそろスタンバイを、とスタッフが言いだしたときに冴原は黎火がいないことに気付いた。

「尾山さん、まだ戻ってきてませんね」

「ああ、そう言えば1回しか見てないね」

 監督は太い首を傾げて他のスタッフに声を掛ける。やはり誰も見ていないという。女性スタッフがパタパタと走り寄ってきた。

「お手洗いにもいません」

「荷物は?」

「……ないですね」

 にわかに騒然となった。しかし会場に来たのは皆見ている。会場の外に出たのかとも考えたが、会場の周りには舞台挨拶を見に来た観客や、報道関係の人間も到着しているだろう。そんな軽率なことをする女優ではない。

 その時、一人の女性が楽屋に駆け込んできた。黎火のマネージャーだ。何度か現場に来ていたのを見たから顔ぐらいは知っていたが、今日は髪を振り乱し、真っ青で、肩で息をしてただならぬ雰囲気だった。

「どうしました?」

 と監督が彼女を支えるように手を伸ばす。マネージャーはその場で踏ん張り震える声で叫んだ。

「う、うちの尾山が、今、警察から電話があって……」

 警察? その場にいた全員が息を飲んだ。

「今朝、保護されたと」

「え? 保護? なに、どうなってるんだ? 黎火は?」

 監督が矢継ぎ早に質問をする。冴原も同じ気持ちだった。何があったのか。さっきまで黎火はそこにいた。なんなら今朝まで一緒に……。

「今朝? 今、今朝って言いましたか?」

 思わず冴原が二人に割って入った。

「いつです? だってほんの30分くらい前に、到着してたんですよ?」

 マネージャーは泣きそうな顔でぶんぶんと頭を横に振った。

「私も判らないんです! 広島県警から、道で倒れている黎火が病院に運ばれたって」

「広島? 何かの間違いじゃないのか?」

「私、話したんです、電話で、黎火と!」

 マネージャーの声はだんだん悲鳴のように高くなっていった。

「今日は舞台挨拶なのになんでそんな所にいるのって言ったら、そんなの知らないって、なんで『おさん狐』が完成しているのって、映画の撮影はまだ始まってないはずって、話すことが数か月前なんです」

 さっきまで、そこにいたはずの黎火が広島にいて、映画の完成を知らない。

すると監督もまた叫ぶように言った。

「いや、彼女とは今朝まで一緒にいたんだよ。どういうことだよ!」

 冴原は驚いて監督を見る。同じように共演の俳優も助監督も驚愕の表情で見ていた。

「か、彼女と一緒に、朝までいたのは、俺です」

 冴原はなんとかそれだけ言った。

「俺も、昨晩は一緒に」

「僕も……」

 その場にいた男全員が同じことを主張し始めた。一様に震える声で。

「どういうことですか?」

 若手女優が細い自分の方を守るように抱きしめて、誰ともなく尋ねた。

「私たちは、誰と共演していたんですか? この映画に映っている尾山黎火は誰なんですか?」

 それに答える者はいなかった。冴原も何も言えなかった。ただ、昨夜、自分の胸で泣いていた女は誰だったのか。生々しい体温だけが腕の中に残っていた。


 当然、舞台挨拶は中止になり、尾山黎火ではない『尾山黎火』が出演していた映画はお蔵入りとなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

化かす狐と演じる女 久世 空気 @kuze-kuuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ