Chapter 5

 壁はない。

 彼女は見えない。

 

 それはすべてが回収された後の世界のこと。〈レ・ミゼラブル〉は目を覚ます。

 目を開いたところで、見えるのは乳白色だけで、何も入力はされない。奇しくも、それは今の世界のありようと同じだったので、目が見えても見えなくても変わりはないということもできる。

 何も聞こえないのも同様だ。雨も風もないのだから、音は発生することがない。

「わたしは」

 こうすれば音が生まれる。自らの頭蓋骨を通して音がする。音を声として認識して、意味を理解する。

 

 〈レ・ミゼラブル〉はひびを認識する。空間に、乳白色を破って光景がある。その方向に歩く。歩いたところで、実際に座標が移動しているわけではない。これはすべてを失った空間、位置や高さでさえも、すでに失われている。にもかかわらず、〈レ・ミゼラブル〉が歩いていくと、ひびが知覚に認識されるように鳴る。中では何かが動いているので、覗き込む。

 彼女がいる。

 あの日見た水の中の、あの彼女だ。一瞬の交錯のみがあった、瞳の中にはてしなさを見た、あの彼女だ。

 彼女と目が合う前に、そのひびは閉じていく。待って、と言いたかったのに、その語彙はここにない。頼んだところで、願いを叶えてくれる保証なんてないのだが。

 石があれば、投げただろう。拳を握って叩くことができるならば、そうしただろう。

 「なにもない」の中に自分がいるのが不思議であった。見えもしない自分が。下を見たって、身体なんて存在しない。触ってみると、肌のようなものがある。記憶よりもずっとぶよぶよした皮だ。右手も左手もある。両手を合わせると、てのひらに浅い傷があるのがわかる。痛みはなく、流れ出るものもない。手で目を塞いでみる。視界は暗くならない。

「わたしは」

 そのあとに続くべき言葉は失われていた。

 

 白い花だ。そのほかのすべてを占める白よりも更に白く、しかしながら消しゴムで消したあとの紙の色でもない。茎の緑とのコントラストが、乳白色の中ではまばゆく輝く。ひとつの茎にひとつの花がついている、五枚の花弁を持つ、細身の花だ。〈レ・ミゼラブル〉はしゃがみこんで、茎を掴む。やわらかさが伝わる。引っ張ると、それまでなんの属性も持たなかった地面に、亀裂が入った。先程の空間へのひびとは違う。この植物は根を持つようだ。地面が引っ張られ、土のテクスチャが現れる。もう少し力を入れてみる。

 果たしてその花は〈レ・ミゼラブル〉の手中に収まった。植物が生えていた地面は露出して、土が顔を出している。

「わたしは」

 この花をどうするべきなのだろうか。花を持っている右手が見えることに気付く。左手に持ち替えると、左手も見えるようになる。花弁の白が身体を照らすように、〈レ・ミゼラブル〉は視覚によって身体を認知する。花をかざすと、世界の様態を感じられるようになった。地面に近づける。破られた地面に、土がある。亀裂に更に手を入れると、土は更に出てきて、真っ白だった大地を徐々に茶色に染めていく。

 そうしてこの世界には白と、植物と、土と、〈レ・ミゼラブル〉が存在することとなった。

 

 〈レ・ミゼラブル〉は、見通しの立ち始めた空間に対して、宣言する。

「わたしは」

 わたしは彼女を記述したい。彼女の存在しない世界でさえも。ここには道具はない。聞いてくれるものもなにもいない。そこで語ることに、なにか意味はあるのだろうか。

 記憶ならたしかにそこにある。だが何にも触れてはいない。記述する前に、ほかのものに永遠を知らせる前に、まずは彼女が存在しなければ、話にならない。物語は存在しないものを語ることができる。物語として語られることによって、存在でも非存在でもなくなるといったほうが正しいだろうか。

 〈レ・ミゼラブル〉はずっと、彼女を記述したかった。それは、もう一度出会いたかったからだ。あのときに。記述と存在を秤にかけたなら、後者を取るのが道理だろう。探し続けた瞬間は身の中にあるのだから。

 しかしこの世界はどうだ。花と、身体以外の、なにもかもが存在しない。あることがらを述べるには、区分けが必要だ。AはBであるということ。あるいはAはBでないということ。そうやって、弁別していかなければ、わたしはわたしとそうでないものの区別をつけることができないはずだ。

 本はもうない。わたしが〈レ・ミゼラブル〉なのかどうか、わからない。誰もそう呼ばないならば、すでに名前はないのかもしれない。だからといって、わたしはわたしであることを諦めてはならないのだ。わたしであるということは、彼女を追い求めたいと願うことだ。そういったものとして、〈レ・ミゼラブル〉は自らを定義する。

 

 ひとりきりでは彼女に出会えない。

 わたしはわたしの右手と手をつなぐことはできない。

 彼女は土を手に取る。小さな壁を作る。壁をつなげていけば、いずれ空間は切り取られるであろう。

 その果てに、出会うことを信じている。

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She For Me(あるいは純粋読者のための葬列) @matsuri269

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