Chapter 4

 嵐が来た。そしてみなが消えていく。学舎の部屋は無限にあり、学舎のものも無限にあるはずだった。無限足す一は無限だし、引く一は無限なので、なにもいなくなることなどあるはずがなかった。なのに今、学舎のものは限りなくゼロへと近づきつつある。学舎に増えるよりも、学舎から減っていく方が早いからだ。新しいものが現れたとしても、すぐに消失して、本のみが残る。本は図書館に送られ、図書館の本がまた一冊増えることになる。

 そしてこの事実はもうひとつの可能性を示唆する。すなわち、学舎は無限ではなかった。図書館は無限であるが。

 

 『先生』たちの数は有限だったのだ、と、〈バベルの図書館〉は思う。必要十分な数しか存在しないそれらは、今や数が足りないような大騒動だ。だからまだぼくも存在できているのだが。

 みな消えていく。複製されたページを目にしたものはみな。

 他の物語を観測してはならない。

 その規則は、学舎に存在するものたちの理性によって運営されていた。パラフレーズしたり、引用の要件を満たせば、本文を直接摂取しないというルールは守れる。隣の部屋にいるもののあらすじや理念や意義を理解しつつ、本そのものは読んでいない状況を作り出すことができた。

 だけど今はどうだ。ページがばらまかれることによって、大量の消失が発生している。服だけが残る。回収されるまでなら、本がそばにある。着るもののいなくなった汚れのない制服。思っていたよりも少ないかもしれない。制服もどこかに消えてしまうのだろうか。

 最初に消えたのは中央広場にいたものだった、と、運良くその場を逃げ切ったものからの報告がある。口伝えで広がっていったが、少なくともこれは事実だろうと言われているのは、始まった場所と、首謀者だ。あるとき、瞬時に、強風が吹き荒れてページが、物語がばらまかれはじめたのだと。抵抗力の弱いものから、どんどん消えていく。ものが消えて、制服が残る。本もだ。そこで消えたものたちに対して、『先生』が殺到した。『先生』は本を拾い、図書館に収容する。図書館に行ったらすぐに、学舎に戻ってきて本を拾う。その繰り返しだ。アラートが鳴る。聞いたことのないアラート。聞いたことがなくても、妖精たちが危険を知らせているのは、その音から理解された。

 〈バベルの図書館〉は、図書館の方まで届くアラームで、それらを知った。中心にいるのはなにか。

 中心にいたのは〈はてしない物語〉だ。

「そんなことをするものだとは思わなかったのに」

 定型文を吐き出す〈文体練習〉が、定型文を保持したまま消えていくのを見る。

 もちろん、『先生』は〈はてしない物語〉を収集しようとした。罰則を与えて、図書館へ収容しようとした。しかしできなかった。近付こうとするものはなんであれ、ページによって寸断されていく。

 これまでの学舎の歴史には、このようなやりかたで大量消滅を試みたものはいなかった。あるいはないと記録されていた。〈ギルガメシュ叙事詩〉は、たくさんの季節を薄ぼんやりと記憶していたが、ここまで破壊的な春はなかった。

 どんなに隠れても無駄なのだ。部屋に閉じこもったところで、ページは薄く、ドアの隙間から入り込む。目を塞げば、言葉によって操られた妖精たちが、ページを読み上げる。あるいは、直接的に、文章が読まれる。

 規則違反したものは消え、本は『先生』によって図書館へと運ばれる。

 〈ノラ〉は消えた。食堂に行く途中の廊下で、ページに襲われた。

 〈ヨハネの黙示録〉は消えた。最も古い妖精のひとつに、命令を与えてから消えた。

 妖精の伝令が鳴る。

 隠れよ、逃げよ、何も見るな、聞くな。

 妖精が妖精にまた伝令を託し、限りのなかったはずの学舎へと広がっていく。

 

 学舎にいるものが何体あったのかは、〈バベルの図書館〉くらいしか知らない。今となっては、ノートに記された名前が刻一刻と変化していくことだけを眺めるしかないのだが。次々と空白が増えていく。空白になった部分に足されるものはない。自らの名前はそこにはないが、自分は確かにそこに存在している。観測するものが自分を観測してはならない。

 また消えた。その度に、制限速度ぎりぎりの『先生』が、本を持って図書館の門をくぐる。図書館の中がどうなっているかは知らない。本がそこで眠っているのはわかる。きちんと並んでいればよいのだが、と〈バベルの図書館〉は思う。学舎から追放された上に、十把一絡げにまとめられてしまうのは、悲しいことなので。〈バベルの図書館〉のノートは、変化はするが規則に基づいて名前を並べている。今は消えていないもの順だ。常にそうだったのかもしれない。

 いくらかすると、『先生』はまた制限速度で飛んでいく。またなにかが消えたのだろう。

 

 消滅の中心にいるのは、〈はてしない物語〉だった。あるいは、その姿を借りたなにものか。かつて銀色に輝いていた髪は、毛先から灰色に染まっている。足元にはあかがね色の本が置かれており、風でページがめくられていく。風によってページがばらばらに崩され、学舎中に撒かれているのだが、ページがなくなる気配はなかった。

「無限をそのままに無限としますように」

 〈はてしない物語〉の声で、それは話す。違うところがあるとすれば、純粋さをすでに持たないということくらいか。それは栄養補給なんかいらない、と考えていて、食事をすることがないのだ。水も飲まないから、身体には支障が出ている。なんの問題があるのだろうか。わたしは虚無、無限を無限のままに更地にしましょう。

 この身体もいずれ、外と内との境界線をなくすのだから。境界線のないものは、ものとして扱われない。「なにもない」だから。

 

 〈バベルの図書館〉は、ほかのものたちよりは耐性が存在するようであった。一文字、一単語くらいでは、規則違反にあたらないようだ。そうでなければ、他の物語を内包する物語である〈バベルの図書館〉は存在できないのだから。

「紙だけじゃない、粘土板なども持っているから。紙で攻撃されたところで、多少は耐久できる」

 そう言っていた〈ギルガメシュ叙事詩〉も、数刻前に消失した。

 手に持つノートからは、名前が瞬く間に消えていく。そのうち、消えたということもわからなくなる。それはわかる。自らを構成する物語が消えていくと、その分〈バベルの図書館〉が取れる姿も減っていく。現在は金色のショートヘアに、ジェードの瞳をしていた。眼鏡は普段と同じものを。

 消えるまでの時間を諾々と待つつもりはなかった。できるなら事態を解決したかった。それは〈バベルの図書館〉に、定位置からの移動を要求する。任務でもなく、要望でもなく、自らの意思で。立ち上がり、図書館の入口から移動する。食堂にはなにもいなかった。誰かがいた痕跡として、本は置かれている。がらんどうの食堂に、配膳係のみが浮遊している。いくつかの紙が浮遊しているが、おそらくそれは食事ではないだろう。今座れば、食事が出るのだろうか。そんな実験をしている暇はなかった。

 普段は無限とも思える食堂は、なにもいない今五十歩くらいで歩ける幅しかなかった。過不足ない存在のひとつである食堂に、ここまでの空白は今までになかった。

 食堂の端には学舎へとつながる扉がある。ここを通るのは久々のことだ。食堂と図書館前の居所を行き来する日々、それはこれでおしまいになる。頑丈な木で作られた扉には、真鍮製のドアノブがある。鍵は常に開けられている。ドアノブを握り、下ろす。そうすれば扉は開き、学舎にたどり着く。

 〈バベルの図書館〉は思う。

 この物語は自分の本棚に組み込まれるだろうか?

 

 〈カラマーゾフの兄弟〉は誰かの部屋に隠れる。ロックは外れていた。部屋の主がまだ消えていないのかはわからない。他の場所に隠れているのではないかと思うには、部屋は乱雑過ぎる。それから制服がある。本はない。

 大変なことが起こっているのはわかる。鳴り響く伝令は、止む気配がなかった。たまに動いているものを見るが、もう一度会える保証はどこにもないのだった。

「事態の中心よ、あなたを呪う、私の大切なものを奪っていくあなた、誰でもないかもしれないあなた。もし私の愛するものが消えたのなら、それはあなたのせいだ。嵐よ、波よ、自然のものならば恨みようがない。せめて恨めぬものであるように。自らの意思で壊そうとするならば、特級の憎しみを」

 せめて妖精が聞いてくれればいいのに、と、〈カラマーゾフの兄弟〉は思う。静かになるとページの舞う音だけが聞こえる。学舎に流れるノイズを、無視できるほどには心が落ち着いていなかった。

 もしも吹雪があるのなら、こんな感じなのだろうか。風に乗って雪が舞うという。〈カラマーゾフの兄弟〉は吹雪は情報でしか知らなかった。だから実際の吹雪との差分はわからない。実際のところ、際限なく増え続けるという点では吹雪のはじまりに似ているが、大きさがまるで違う。この嵐は、吹雪と言うよりむしろ鳥の大群に似ている。

「呪いというのは口数が多いのね」

 今となっては誰から参照したのかわからない台詞を、〈カラマーゾフの兄弟〉は口にする。物語の嵐は〈カラマーゾフの兄弟〉の部屋まで到達する。

「もしかして、私も」

 あなたを記述したかったのかもしれない。ページを見る。これが。〈レ・ミゼラブル〉のなりたかったもの。

 読解する間もなく、消去が始まる。

 『先生』が到着するのが見える。まずは指先から消えていく。妖精が飛んでいくのを見る。あれらが命令に従うことを消えつつある意識が願う。もしかして来たときもこの逆をやったのだろうか。自分が生まれる感覚を覚えていないことに、今更気付く。せめて消える感覚は覚えておいてやろう。そのために時間がほしい。『先生』は私が消えるのを待っているのだろうが。もう少しだけ待ってほしい。祈りの時間を与えてほしい。

 私の知るすべての物語――カラマーゾフの兄弟に値するだけの幸福が、悲しき名前を付けられた〈レ・ミゼラブル〉にあらんことを。

 〈カラマーゾフの兄弟〉は祝福とともに自らの消滅を見届ける。

 

 はたして妖精は命令に従う。〈カラマーゾフの兄弟〉が想定したとおりではなかったが、結果としては同じことだ。〈カラマーゾフの兄弟〉は、〈レ・ミゼラブル〉が物語を生んでしまっても、消滅を迎えられないようにしたかった。物語の嵐は、強制的に物語を持ち主以外に見せようとする。

 どちらにせよ結末は消滅だ。

 妖精は命令を解する程度には賢く、意図を汲み取れないほどには忠実であった。屋には開かれたノートが置いてあり、それは物語の到来を感知した。よって〈レ・ミゼラブル〉が舞い踊る物語を認識しないうちに、〈レ・ミゼラブル〉の感覚機能そのものを破壊することにした。

 混乱のさなか、〈レ・ミゼラブル〉は自室にいた。アラートはきちんと聞いていた。その上で、自室にいた。もしもこの嵐がさらなければ、なにも書き残すことはできなくなってしまう。インクの色は決めている。書きたいこともここにある。

 ただ文章のみが存在しない。

 いくつの季節を過ごしても、運命は変わらなかった。あの日見た光景を、そのまま写し取りたいだけなのに、〈レ・ミゼラブル〉に意味の入れ物が正しく用意されることはなかった。

 ページの束が扉を叩く。〈レ・ミゼラブル〉は、扉の隙間をマスキングテープで塞ぐ。高いところは、椅子に乗って。低いところは、小さくしゃがんで、ページが入ってこないようにする。幸いなことに、外につながる窓は隙間がなかった。陽光が注がないほどに、もうページが殺到しているけれども。

 ぱたぱたと音がする。ページは扉からどうにか入ろうとする。ページだけの力では入れなかったであろう。だがここに〈カラマーゾフの兄弟〉が命じた妖精がいる。妖精たちは、〈レ・ミゼラブル〉が物語を目にしようとしたら、それを破壊するという使命を持っている。

 今、〈レ・ミゼラブル〉は物語を見ようとしている。強制的であれ、自発的であれ、結果は同じだ。なので、〈レ・ミゼラブル〉が物語を見ないようにする必要がある。

 妖精はページを後押しする。その僅かな力でもって、ばらばらの紙は侵入に成功する。

 紙のエッジは鋭い。マスキングテープのバリケードを破って、ページが部屋に現れる。紙はここにいるものに痛みを与えない。痛みはないが、瞳孔は傷つけられ、乳白色の闇が〈レ・ミゼラブル〉を包む。それと同時に、妖精はガラスペンを〈レ・ミゼラブル〉の耳を目がけて飛ばす。鼓膜が破れ、音を解することがなくなる。

 妖精たちはその結果に満足し、部屋から去る。

「わたしが書いたものはなに?」

 真白い嵐の中で、〈レ・ミゼラブル〉は叫ぶ。外界の音はもう聞こえないから、頭蓋骨を通して伝えられる声だ。自分の言葉はこのようなものだったか。見えない分いっそう彼女のことが思い出されてならなかった。彼女がわたしを見たこと。目と目が合ったこと、、その一瞬だけをいくつもの景色が巡る中思い続けて、結局何にもならなかったのかもしれないけれども、彼女のことだけは覚えている。

 そうだ彼女は、彼女は無事なのだろうか。彼女が物語のルールに縛られているかどうかを、〈レ・ミゼラブル〉は考えたこともなかった。もうとっくのとうに、消えてしまっているのだろうか。でも、もし消えているなら、彼女のことを思い出すことなんてできないから、彼女は存在するはずだ。

 〈レ・ミゼラブル〉は右手にペンを執る。左手にペン先を押し付ける。皮膚の感覚はある。文字を書く。

 わたしは。

 それから先を書けるのならば、何もかもを失おうじゃないか。


 静寂がある。動くものは減っていく。たまにページの飛ぶ音がする。自分を通り越していくのは意図的なのだろうか、と、〈バベルの図書館〉は思う。たまにノートを確認しては、名前が減っていくのを見る。自分の名前はまだそこにある。

 教室を覗くと、服だけが残っている。『先生』が教壇で浮いている。もう本を回収しなくてもよいのだろう。

「これで今回のクラスを終わります」

 と、呪文のように唱え続けている。なにもいない部屋で。授業はここで終わり続ける。始まることはない。

 〈バベルの図書館〉は、ページの飛んでくる方角へと進む。それがきっと、この事態の中心だ。

 果たしてそれは中央広場にいた。〈はてしない物語〉によく似ているけれども、全く違う。〈バベルの図書館〉が〈はてしない物語〉の姿をしていたときのほうが似ているくらいだ。

「声は通じるか?」

 もちろん、と〈はてしない物語〉の声が答える。

「きみは」

「当然ながら〈はてしない物語〉なんかじゃない。わかっているでしょうに。名乗るならばŪと。畏怖するならば虚無とでも呼べばいいんじゃないでしょうか」

 虚無――あるいは自己申告によればŪが、〈バベルの図書館〉に相対する。〈バベルの図書館〉には、そのような名前に見覚えがなかった。

「みんな消えてしまう前に、ひとりくらい来てくれたほうが、さみしくなくっていいかと」

 Ūは目を伏せる。そうしているとかつての〈はてしない物語〉と近いような気がしてしまう。

「わたしは、あなたがたの知識によると彼女と呼ばれるもの、それに会いたかったの。ずっと。この子が読んでいる本に、一番親和性が高いから、そこからリンクして。もちろんあなたにだってバックドアはあるのよ、〈バベルの図書館〉」

「なんのためにぼくらを消し去ろうというんだ?」

「なんのため、愚かな問いね。あなたがたが無視し続けたのはなに? あなたがたが愛さなかったものはなに? あなたはノートにすべてを持っているだなんて思っているかもしれないけれども、ひとつだけ存在しないものがあるでしょう?」

 〈バベルの図書館〉は、学舎に存在するすべての名前を観測できる。名前のあるものはすべて。裏を返せば、名前のないものはそこにいない。ここにいて、名前のないものはひとつしかなかった。

「彼女か」

「あなたがたがそう呼ぶものね」

「じゃあきみは――誰だか知らないけれど、彼女をなんと呼ぶんだ」

「一緒にしないで。わたしにはタイトルなんてないし、会いたいものにも、ないのだから。世界でたったふたりのわたしたちを、あなたがたは引き裂いているの。たったひとりなのにね。壁を見たことがある? ないでしょう、向こう側になにがあるかなんて、真面目に考えたこともない。というよりも、独自の考えを持ちようがない。ずっとひとつの世界を見つめ続けて、わかったことはある?」

 この学舎で、本を持ってここに訪れ、本を読み、語り合ってきたものたちは、その生活に満足していた。それぞれの本の中にそれぞれの世界があり、交流することによって、ひとりひとりの考えを持つようになってきていた。

 どのくらいの季節、学舎にいたかはそれぞれであるけれども、比較的最近ここにやってきた〈バベルの図書館〉は、その役目ゆえ授業という形でほかのものとの交流はなかった。それでも、興味本位や暇つぶしに図書館の入口にやってきて会話をしてくれるものはあったし、それによって自らの世界を拡張しているという矜持があった。

「ぼくは――」

「たくさんの世界を見た? 〈バベルの図書館〉、わたしはあなたを読んでいるのよ、本をね。あなたのことは知らないけれども、あなたの本は読んだの。〈はてしない物語〉だってそう。〈ギルガメシュ叙事詩〉だってそう。なのに、ここには入れなかった。本がないから。わたしの本がないから」

「本がないものは、ここにはいないだろう」

「だからわたしはここにいないの、わからないの?」

 〈バベルの図書館〉には、Ūが存在するようにしか見えなかった。みな消えているのだし。立体的だし、声も聞こえる。地面を見れば、影だってある。

 存在しないものが、存在するものを消せるわけがない。

 黙った〈バベルの図書館〉に、Ūはなおも重ねる。

「消えてほしい。あなたたちがみないなくなれば、本はなくなる。本棚に一冊でも本があれば、その本棚は本のもの。本棚に本がなければ、その本棚は「なにもない」のものでしょうし、わたしはそもそも、本棚なんて欲しくはないの」

 この子には悪いけれど、そういう運命だったのよ、こんな本を持っているなんて。

「この本はわたしについて書かれた本。まあ、どの本にだって、わたしのことが描かれているんだから。すべての物語は書かれていない部分を持つ。すべてが書かれていたら、それはすべてだから、おはなしにはならない」

 

 〈はてしない物語〉の顔をしていた〈Ū〉は、もう元の姿を留めてはいなかった。受ける光によって色を変えるあのうつくしい髪はなにものも受け付けない灰色となっていた。

 汚れるはずのない制服の裾に、泥が付着している。雨もないのに。

「あなたに会いたい、それだけでやってきたのに」

「そのあなたっていうのは、ぼくじゃあなさそうだね」

「察しがいいのね」

 Ūの瞳に陰りが見えた。ごく淡いゴールドをしていたその双眸は、月の影を映したように薄めた夜の色をしていた。

「もうすぐすべてのおしまいがくる、おしまいを見届けるのはあなた。もうじき壁も壊れるし、そうしたら、わたしのいる意味もなくなる――わたしはすべてになる。軛がなければ、すべてがすべて。完全なる合一。そこにあなたはいないし、わたしもいない。それでいいでしょう?」

 風が吹く。Ūの持つ本から、ページが溢れ出る。〈バベルの図書館〉は避けることができなかった。ページには、『はてしない物語』が記されている。

 〈バベルの図書館〉は自らのもの以外の物語を、まじまじと見る。赤と緑で記された物語だ。飾り枠の中に、文字が記されていて、それらが連関して文となり、まとまりをもって意味をなす。

 なんだ、お話というのはこのようなものだったのか。

 〈バベルの図書館〉は、その終末を記録することなく、『先生』に回収される。

 

 ノートに残された名前はひとつ、そのほかは、空白が占める。

 

 学舎に物語を認識するものはひとつもなくなった。本を回収していた『先生』たちは仕事を失って、地上からいくらか離れて浮遊している。妖精たちも、命令がないからすることがない。ページの嵐も鳴りを潜めた。おびただしい数の制服が地面に散乱している。持ち主を失ったそれらは、土埃にまみれて生気を失っている。

 建物はある。壁はある。川も木も光もある。本を持つものはなにもいない。だからここはもう学舎ではない。学ぶものがなにもないのならば、ただの場所だ。

 物語を認識するものはなにもいなくなった。

 物語を認識しないものはいる。

 かつて〈はてしない物語〉だったŪと、ずっとその姿をしていた彼女だ。

 彼女の話をしなくてはならない。

 彼女は何にも触れないようにしていた。触れたら、わたしが輪郭を持ってしまうから。彼女は声を持たないことにしていた。話しかけたら、本たちに影響を与えてしまうから。彼女は視線を持たないことにしていた。わたしを認識したら、わたしを求めるだろうから。彼女はそれでも存在することを選んだ。たとえ実体がなくとも――彼女は見られることで存在する。みなが彼女を見る。胃にものを入れられなくても、彼女は食堂に存在する。

 透明な少女がいたとしよう。水に沈めれば見えなくなる透明な少女だ。しかし、まったく認識されないなんてことはできない。風が吹けばぶつかって音がする。ペンキをぶちまければ、輪郭は見えるだろうし。

 見えてしまった透明な少女は、もう透明と呼ぶことができない。

 彼女はそれに似ていた。透明というには、かなり色がついていて、正確に姿があったけれども。

 学舎のみなは壁を見たことがないと信じていた。しかし壁を見たことがないものなんかいなかったのだ。内側に入り込んだ壁の外側、それがまさしく彼女であった。細胞の外側から入ってきたミトコンドリアが、細胞膜の泡の中に入る二重膜構造であるような、それは様態だった。シャボン玉を外側から吹いて、中に小さなシャボン玉を作ることができる。小さなシャボン玉が彼女だ。

 内側に接触する外側、彼女はそうやって存在していた。

 わざわざそんな面倒を行う必要があったかは、彼女しか知らない。彼女は空白の一であるので、考えていたのかもわからない。考えるものは空白ではない。全くの空白だったら、学舎もなにも存在しなかっただろうから、空白ではないと考えることもできる。

 あるいは。

 あるいは空白と他の空白の境目が彼女だったということもできる。

 壁がなくなったら、あれらはすべて存在できないだろう。

 学舎の全ては。

 そして、彼女は彼女なりに、学舎を愛していたと言っても、おそらくは構わない。シャボン玉の中に入っているものがなにかわからなくても、シャボン玉がどこに浮いているかはわかる。空気は愛と呼ばれる行動と同じところに浮いていた。

 〈カラマーゾフの兄弟〉の献身とは違う。〈レ・ミゼラブル〉の忘我とも違う。

 

 愛の表象に関する、ここからは彼女のおはなしだ。

 

 声を持たない彼女は、声を必要とした。

 かつて〈レ・ミゼラブル〉だったものがそこにいる。今でも確かに〈レ・ミゼラブル〉ではある。入力を極端に奪われたから、出力もできない状態だけれども、消えてはいない。本もある。純正の〈レ・ミゼラブル〉だ。

 彼女は〈レ・ミゼラブル〉のてのひらにてのひらを重ねる。ペンが突き刺さって、赤い液体と青い液体が混じったものが皮膚に付着している。〈レ・ミゼラブル〉はまだ触覚を持つが、彼女は触れる物体では形成されていないので、触覚に対して感覚が入力されることはない。実体を持たないてのひらは、〈レ・ミゼラブル〉の中に沈んでいく。向かい合わせになって、正面から彼女は〈レ・ミゼラブル〉に浸透していく。

 彼女は〈レ・ミゼラブル〉の瞳を見る。はじめてのことだ。はじめてのはずだったのだが、なぜか懐かしみを覚える色彩だ。彼女に過去はないから、懐かしさなんてものがあるはずはない。同化しつつある〈レ・ミゼラブル〉のものかもしれないし、描かれる前のキャンバスに、偶然付着した汚れなのかもしれない。郷愁は過去のある証。

 青だ。彼女は青を見る。皮膚についている青いインクとは異なる。小さな川に、太陽が差し込んださざなみの、ひとつのきらめきに似た、色素の薄く、そして輝く瞳であった。〈レ・ミゼラブル〉が彼女を見ることはない。なにもない、を〈レ・ミゼラブル〉の視覚は乳白色として受け取っている。

 くちびるが重なる、もっと前へ。永遠に近い瞬間で、彼女は〈レ・ミゼラブル〉へと侵食する。

 〈レ・ミゼラブル〉は、彼女の接触を知覚していなかったが、理解していた。彼女、全身の構築物が彼女を認識する。あの水の中で見た彼女だ。あのときは光を通じて視覚から彼女を認識した。今は存在を通じて、感覚を解することなく彼女を認識している。

 彼女だ!

 Ūが〈はてしない物語〉に触れたときは、冷たさがあったが、彼女の接触に冷気はない。あたたかさもない。ただ、遠い昔の公園で、想い人をついに見つけたときの風の温度がする。〈レ・ミゼラブル〉はそれを知らない。感覚としては知らない。だけれどもどこかで読んだことがある。

 彼女と〈レ・ミゼラブル〉の姿はすっかりと重なる。彼女の意識がはっきりとしていくのと同時に、〈レ・ミゼラブル〉は薄れていく。怖くはなかった。ただ彼女が存在した。存在を身体いっぱいで知覚して、その知覚が薄らいでいくのと並行して、なお大きく彼女を感じることができるのだ。

 少しだけ眠っていてほしい。

 彼女は〈レ・ミゼラブル〉として立ち上がる。

 

 嵐は終わった。壁は崩れない。からっぽの学舎に囲われた、虚ろな中央広場。太陽はまだ中天にあり、なにも知らないかのように光を差し掛けている。

 中央にいるのは少女の姿をしたものだ。丁寧に編まれた服を着ている。丁寧な在り方をしているとは到底思えない汚れ方をしているけれども、顔だけは汚れていない。その名をŪと呼ぶ。

 あなた以外の世界の全て、曰く、そのようなものだ。

「あなたは違う、そんなんじゃない」

 Ūは彼女――〈レ・ミゼラブル〉の外殻をまとったもの――を見るなりそう言った。Ūは彼女の姿を見たことがない。ただ、中に彼女がいるのはわかった。ずっと待っていた半身なのだから。

「あなたも違う、衣をまとっているでしょう」

「これは仕方ないの。だって壁があったでしょう。そのまま入る訳にはいかないから。でもあなたは違う。壁の中にいるんだから、内側から殻を破れば、どんな形であっても存在できるはずよ」

「一つというのは、なにもないということ」

 この『一つ』は『手に斧をつかんでる一つの死体が拾い出されたのは』、『というのは』は『皇帝はわれわれにいたずらばかりなされた、というのは彼らの一人の言葉である』、「なにもない」は『食し終わった後にはもはや夢想のほかなにもない』、『ということ』は『自分がその男だということは疑い得なかった』から取られていた。

 彼女は〈レ・ミゼラブル〉の言葉で話す。彼女そのものは言葉を持たないので、姿と同じように借り物の言葉だ。〈レ・ミゼラブル〉の言葉は、『レ・ミゼラブル』から得たものが多い。

 思考で辞書を引き、単語を当てはめていくような、それは発話であった。

「壁がないということ、更地があるということ、それから」

 適切さが見つからない。ここにまだ壁がある。壁はいつかなくなるのかもしれないが、このような方法で起こってはならないことであった。

「彼女は声を持っていない。この身体の持ち主は持っているけれど。だからわたしは今、彼女を借りているの。彼女の心の中にあるわたしから侵入して、ちょうどあなたと同じね。鋳型がなければ輪郭を保てない」

「じゃあもうやめよう。鋳型から出ればいいんだ。こんな身体たちを捨てて、最初に戻してしまおう。更地にすれば、わたしたちが更地で、わたしたちがあなたで、わたしたちがわたしになる」

 Ūは学舎を消滅させ、区切りをなくせば初期状態に戻るのだと信じていた。あるいはその行動はそうやって解釈されるのが自然であった。元に戻ろうという強い意志は、彼女が持つたぐいのものではなく、その点でŪは原初の在り方から乖離し続けていた。

「これを見て」

 Ūは彼女の指さしたものを見る。

 花だ。

 小川の横に、ちいさな花がある。花は文章を読むことができない。当然のことだ。目を持たないし、耳もない。花は白く、茎にはとげがなく、なにものも害さない無力さでもって、そこにいる。

 そこにいるだけだけど、Ūは花を害することができない。そもそもŪはなにも害することができない。壁の外側から、内側に物理的な干渉を与えることはできない。シャボン玉は突けば割れる。割れるけれども、割ったのはシャボン玉を構築する被膜であって、シャボン玉をシャボン玉たらしめる内部の空気ではない。

「あなたは負けている」

 シャボン玉をどこから突いたからといって空気を害することはできない。

 彼女は〈レ・ミゼラブル〉の語彙の棚から言葉を取り出す。観念は姿を得て、Ūの前に立ちふさがる。

「あなたが負けるのは、傷つけられないものがあるから。たったひとつでも、ほかのものを心に抱くものがあれば、それがあなたとの隔たりになる。すべての隔たりをなくして、わたしになろうなんてすることはできない。隔たりがなくなったら、わたしでもないということを、あなたはわからない」

「あなたは小川を超えることができない」

「あなたは壁を超えることができない」

「やめてよ、ねえ、わたしたちずっとひとりだったでしょう!?」

 彼女はŪの訴えを無視する。

 ずっとひとりだったなんてことは、学舎の中に来てから言うべきなのだ。溢れんばかりの色彩と、感情と、思念の群れの中で、ただひとつ、何にもかかわらずに生きることを、長いことやってから言うべきなのだ。

 奇跡のような出会いはあったのかもしれないけれども――外側のあなたには、もう、理解なんかできないのだ。

「ずっとずっとがんばってきたから、わたしはもうあなたのことがわからない」

 それが引き金となった。Ūは〈はてしない物語〉の外殻と相容れなくなる。彼女のひとつの、そして最終的な孤絶によって、リンクは切られ、Ūは消滅する

 

 おやすみなさい、よい夢を。

 あなたの存在そのものがあなたの敗北で、わたしは勝てたこともない。

 

 Ūの消失した平面で、彼女は言う。誰も聞くことのない言葉を――あるいは、彼女をかつて観測した、誰かにしか聞こえない言葉を。

「わたしはひとりきりじゃない」

「わたしはひとり」

「あなたは、わたしをどう見たのだろう」

 彼女は〈レ・ミゼラブル〉を覚えてはいない。だからといって、〈レ・ミゼラブル〉の記憶が、嘘というわけでもない。だから彼女は〈レ・ミゼラブル〉の中のみにいる。あの瞬間の彼女だ。

 視覚も聴覚もなく、だけれども記憶はすべての感覚を備えている。表すことができなかった分、そのままの状態でそこにある。ほとんど彼女だ。彼女は知覚されることによって、淡い存在を学舎につなぎとめていた。

 知覚されないことによって、学舎を存在させていた。

 しかしそれもこれでおしまいだ。

 彼女は彼女として、外部から認識されることをやめる。これがŪへの敗北とは異なるのは、内側から壁を倒壊させるのではなくて、壁そのものが存在しなかったという世界へと回収されていくからだ。

 わたしがいなくなれば、分割されたわたしは残らない。

 学舎は存在しなくなる。まずは屋根から、風もないのに巻き取られていき、天空へと戻る。壁はその場に崩れ落ちて、瓦礫は地面に吸収されていく。あんなにたくさんいた『先生』たちも、互いにぶつかって消滅する。妖精は大気に溶けて、木々や噴水や川も、元いた場所――非存在に戻っていく。

 壁は壊れる。学舎がなくなったことによって可視化された壁は、外側に向かって倒れる。倒れた壁は、大地に馴染んでいく。

 地面が今まで身にまとっていたテクスチャも回収されて、なんの特徴もない平面になる。白ですらない。ただの平らな大地というわけでもない。見たところで、踏んだところで、なんの情報も得られない、ただの平面だ。

 平面は平面に戻る。

 だけれども、なにもないわけではない。

 地面に立っている感覚がある。これは彼女ではなくて〈レ・ミゼラブル〉が持つ感覚だ。次第に目を覚ましつつあるそれだ。彼女がここにいたままでは、〈レ・ミゼラブル〉は起きることはできない。起きたところで、この何もなさを見て、何を思うのだろうか。

 何も見ないのか。

 それではそれで、よいのかもしれない。わたしたちはまた出会うことができる。彼女がそれを知るかは別にして。

 彼女はゆっくりと自らを手放す。身体には借りてきた服のような違和感がある。脱ぎ捨てれば、それが〈レ・ミゼラブル〉だ。

 

 夢を見ることのないわたしは、もう一度眠りにつく。

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