素晴らしいトイレ
胤田一成
素晴らしいトイレ
春の陽気な陽射しがイド市長の瞼の裏を照らし、オルゴールをかたどった目覚まし時計が穏やかに静寂を破った。すると豪奢な氏の部屋に備え付けられた機械たちが、どこからともなく飛び出してきて、滞りなく毎朝の準備をし始めた。キッチンから淹れたての珈琲の香りが鼻腔をくすぐる頃になると、イド市長はベッドの中で猫のように大きく伸びをした。
イド市長はしばらく春の朝の心地良い微睡みを楽しんだ後、お気に入りのスリッパを履くとテーブルの上に広げられた新聞紙を一瞥すると、珈琲を一口啜った。新聞は定時になると自動的に部屋に備え付けられたパイプを通ってテーブルの上に広げられるようになっている。今朝の新聞紙の第一面にはイド市長のこんにちまでの偉大なる事業とその成功を讃える言葉の数々が踊っていた。イド市長は心の内でにんまりと笑った。今日はイド市長がこのS市の長に任命されて三十年を迎える記念日であった。
イド市長は若い時分から、この世に何かを残したいという欲求の強い人であった。飽くなきまでの飢餓精神―それは時には若きイド市長を苦しめたこともあった。しかし、それも今日で報われる。多くの民衆がイド市長を賛美し、拍手と笑顔で迎えるだろう。午前十時にはイド市長就任三十周年とS市の公共施設総機械化事業の成功を祝うパレードが開催される予定でもある。
イド市長は珈琲と新聞を一通り堪能すると、浮足立つような心持ちで、この日をさらに至高のものにしようと、真っ直ぐトイレへと足を運んだ。これまでに数々の偉大なる事業に、果敢にも挑戦してきた氏の最高傑作がそこにはあった。
イド市長は無類のトイレ愛好家である。氏は幼い頃から思索に耽るとき、必ずと言っていいほどトイレへと駆け込む癖があった。狭く、全てのものが自分の手の届く範囲にあり、しかも他者から絶対に妨害されることのないトイレという自由な空間。実業家としてのイド市長を久しく支えてきたのはトイレといっても差し支えないだろう。例えば、新しい雄大な事業の構想を練る時、或いは氏を市長という座から引きずり落そうとする好敵手が現れた時、イド市長は必ずトイレへと駆け込んだ。一度、便所の戸を閉めてしまえば氏の周りには敵は消え失せ、自ずと問題の解決策が湧いて出てくるのである。トイレの中ではイド市長は無敵であった。氏は長きに渡ってこの都市のオートメイション化事業を拡大するためにもーまたそれは己自身をより高尚な人物に昇華させるためにも、この最新式全自動トイレの開発に苦心を重ねてきた。実のところ、氏がS市の市長に立候補したのもこの最先端の技術をふんだんに施した素晴らしいトイレを開発することが目的であったのかもしれない。それくらい、イド市長はトイレと共に生き、トイレを愛していた。「文明の高さを示す基準はトイレにある」、これが氏のモットーであった。
それほどまでに開発に励んできただけあって、イド市長の考案したトイレは驚くほどスマートである。まず、第一にこの最新式全自動トイレには紙を必要としない。大便や小便は全て適切な温度を保った水力で完璧にこそげ落とされる。立小便などという前時代的な作法はとうの昔に過ぎ去った遺物であり、利用者はただ、便座にゆったりと腰掛けていればよい。最新式のオートチューブ機能が性器を探知し、尿の排出を優しく、しかも的確に手伝ってくれる。
次に消臭機能である。バラ、ユリ、レモン等あらゆる香りが用意されており、その数は百種をゆうに越える。最先端の自動消臭機能を備えたこのトイレは糞尿の臭いを嗅ぎつけるや否や、すぐさまに花の香りで悪臭を打ち消す効力を持っている。勿論、消音効果も素晴らしい。排泄音を機能が聞き取ると、便座に腰掛けた個人の好みに合った自然音で排泄音を打ち消す能力も備えている。
お次は健康状態をサーチする機能である。糞尿のデータを便器が察知し、その人の身体に欠乏している栄養素を内蔵されたコンピュータが割り出すようになっている。トイレから出るときには小さなカプセルに入った栄養剤を機械が自動的にテーブルの上に配送してくれるサービスまで行き届いている。
このように、イド市長が完成させたトイレの機能を数え上げれば枚挙に暇がない。それほどまでにイド市長のトイレは完璧であり、万全の性能を備えていた。
イド市長が朝の快便を終えた頃、初老の男性が氏の部屋のインターフォンを鳴らした。イド市長はモニターで男性の顔を確認するとため息をついた。この初老の男性はケイ博士といって、長年に渡り、氏の提案する公共施設総機械化運動に反対してきた団体の筆頭であり、イド市長の長年の悩みの種でもあった。
イド市長はこれから行われるパレードの事を考えると、この男と今さら膝を交えて対談する気も起きなかったが、長年の好敵手が訪問してきただけに、自身の成功を見せつけてやりたいという気持ちも全くないわけでもなく、しばらく爪を噛みながら迷った末にケイ博士を自室に招き入れることにした。ケイ博士とイド市長は同窓生でもあり、学生時代から幾度となく議論を交わしてきた旧知の仲でもある。
ケイ博士はイド市長の部屋に入ると祝辞もほどほどにして、いきなり断りもなく最新式の揺り椅子に倒れ込むようにしてその小さな身体を委ねた。二人は犬猿の仲ではあったが、学生時代から同じ釜の飯を食う仲でもあり、遠慮や配慮といったものはとうの昔に振り切ってしまった間柄であった。イド市長はケイ博士のいかにも疲れたといった様子に少々ばかり面食らいながらも、この同窓生にして好敵手であった男に、自身の事業の成功を披露したくて堪らない気分であった。
「やあ、それにしてもずいぶんと疲れた様子じゃないか、とりあえず珈琲でもいかがかな?」
イド市長はこれ見よがしに指を鳴らした。するとキッチンの方から新しい珈琲を煎る音が聞こえ始めるとともに、新鮮な豆の香りが部屋に漂う。むっつりと黙ったままのケイ博士の様子を見て、イド市長はこれならどうだ、という気分で尋ねた。
「砂糖とミルクはいるかね?」
イド市長がまたもや指を軽快に鳴らした。すると家政婦型ロボットが砂糖とミルクが乗った盆を持ってやって来る。イド市長は得意げに指を鳴らし、自分の事業の成功を次々と披露してみせたが、ケイ博士にとってそのどれもが眼中に無いといった様子で、静かに揺り椅子に腰掛けたまま身を任せている。イド市長の活力に満ちた気色に反して、ケイ博士の顔色は悪い。イド市長は幾分、白けた気分になりながらもケイ博士に語り掛けた。
「ねえ、君。君との付き合いもずいぶん長くなったが、ここら辺で手を取り合おうじゃないか。時代は変わったんだよ。今にあらゆる地方都市が我がS市の技術を取り入れ、人類史は発展していくだろう。今回ばかりは私の勝利というわけだ。私も君の科学者としての手腕は評価してきたつもりだ。お互い大人なんだし、なにもそんなに拗ねることないじゃないか」
ところが、ケイ博士はこのイド市長の言葉を聞くと、とうとう揺り椅子の中で頭を抱えてしまった。イド市長はますますわけが分からなくなってしまった。それほどケイ博士のふさぎ込みようは異様なものであった。これまで幾度となく議論を交わし、展開してきた仲であったが、人目もはばからず頭を抱え、赤子のように小さくなって、呻き声をあげるケイ博士は見たことがない。イド市長の胸中を不穏なものが過った。
「どうしたんだい。具合でも悪いのか。それとも今回のことがそれほど不満なのかい?」
ケイ博士は呻くようにして返答した。
「いいや、違う。実は君の行ってきた事業に決定的な綻びを発見してしまったのだ。人類はもう取り返しのつかないところまで来てしまったのかもしれないのだ…。私は今日、君にそれを告げに来たのだ」
イド市長の表情が変わった。私の事業に綻びがある。そんな馬鹿なことがあるか。事実、民衆は皆、私の事業を支持してきたじゃないか。万に一つでも失敗は在り得ない。しかし、イド市長はケイ博士の優秀さも身に染みて知っていた。彼が言うからには何らかの欠陥があったのかもしれない。イド市長はケイ博士の肩を掴むと揺さぶるようにして詰問した。
「私の計画は絶対なはずだ。君の発見した綻びとは何なのだ?」
「いいや、違う。君はよくやった。しかし、たった一つだけ盲点があったのだ。私は昨晩その盲点を発見してしまったのだ」
イド市長が混乱する中、ケイ博士はゆっくりと氏の部屋に備え付けられた素晴らしいトイレを指さし、言い聞かせるようにゆっくりと話し始めた。
「君の事業の失敗はあのスマートなトイレだよ。あのトイレは悪魔的なまでに完璧だ。人が手をつけずとも全て機械が手解きをしてくれる。だが、それが駄目なのだ。
いいかい。まず私は昨晩、君の開発した最新式全自動トイレに腰掛けながら、この紙を全く必要としない優れたウォシュレット式機能について考えてみた。そして気が付いてしまった。急いで研究室に駆け込んで統計を紐解いてみると、人類は既に糞尿を垂れるとき、ほとんどの者が紙を利用しない状況に陥っていた。一見すると合理的に見えるが実のところ、それが問題なのだ。このままいくと人類は性器に触れる機会を全くと言っていいほど失ってしまうのだ。人類の性欲は性器に触れるところから始まる。機械任せの性器への刺激は人類の人口激減に繋がりかねない。
次に幼少期のアナルトレーニングへの機会の激減だ。フロイトの理論でいくと、このままでは自身の欲求を制御できない成人が続出するだろう。欲望に打ち勝つための能力を欠いた人間が出来上がってしまうのだ。刺激に弱いもの、ギャンブルやアルコールに依存してしまう者が激増するであろうことは歴然だ。また、そういったトイレに備えられた機能のあまりの居心地の良さから排泄欲に性欲が負けてしまうという可能性も考えられる。
いずれにせよ、君のトイレは人類を機能不全にしてしまう可能性をふんだんに孕んでいる。しかし、どう抗ってももう遅い。もはや民衆は私の言葉に耳を傾けないだろう。君の勝利だ」
イド市長はケイ博士の持論が次々へと展開されていくのを震えながら聞いていた。まさか、自分の発明がこのような懸念を孕んでいたとは。偉大なるイド市長の事業が全て水泡へと帰した瞬間であった。それも氏の愛してきたトイレによって。窓の外でパレードが開催される合図である祝砲が轟いた。
素晴らしいトイレ 胤田一成 @gonchunagon
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