真実に呪われた本

「真実に呪われた本なんて使わないほうがいい」


 ぽつりとつぶやく、リドルの顔つきこそ書物を焼く苦悩に満ちていて、ラビはなんと声をかければよいものか咄嗟には思いつかなかった。占う前のリドルのあの神妙に考えこむ様子、そして辞書に祈りを捧げていたのはきっと、この業のためなのだろう。


 どういう理由であれ、書を燃やす、この恥ずべき所業を濯ぐ謂われはない。この探偵はそれを身に負うことを己にしかと弁えているのだ。


「ぼくが煙を謎解きに用いるのは、それがすぐに消えるから……」


 辞書の灰を館の庭にまいたあと、リドルは応接間にラビを招いた。ひどく物憂い探偵は赤く火の灯る煙草を指に挟んだまま吹かそうとはしない。なかなか目を合わせてくれないのは、ラビのまなざしを避けているからだろうか。


 探偵はそれきり口ごもると煙草をくわえ、知恵の輪をかちゃかちゃと動かした。


「今日はアルルと連れ立って街に顔見せにいっておいで。ここで暮らすうえで揃えるものもあるだろうし、リンディスさんが地下牢にもぐるときの備えも必要だ」


 アルルはにんまり笑い、ラビの手を恭しく取った。


「きみとは日がな一日の逢引きだ。――ただ、先立つモノがねえとなあ」


 リドルは知恵の輪を解くと、その形が奇妙の片割れをアルルに放って寄越した。

 鈍い合金はアルルの手にすっぽり収まるころには小ぶりの黄金に変わっていた。ずしりと手応えのある純金を横合いに手渡され、ラビは呆気に取られるほかない。


「当面の資金源にするといい。賃金の前借……雇用主の立場からすると前貸かな?……ということで。銀貨にでも替えて工面を」

「……錬金術による貴金属の組み換えは事前に届出を出さないと法に」

「ばれなきゃ、だいじょうぶ……」


 リドルがあくびまじりにいえば、アルルはうんうんと同意している。


「なぜ、それを禁じているか。貴金属の価を担保するその稀少性が薄まれば値が暴落して市場が混乱を来たす、ひいては通貨全体の信用が揺らぐから秩序をいっときだけ保てなくなる。さらに翻ってみれば鉱山の労働者、鉱物を扱う商人連、それに関わる卸問屋、ぴかぴか光るそれをしこたま貯えている一部の分限者が困るということ。

 自然界の調和を乱すだとか、錬金術の乱用を防ぐだとか、もっともらしい御上の弁明はあくまでも副次の産物、短兵急の御意見番による方便はともすると見目の麗しい皿に盛りつけたがる連中のおためごかしに……」


 いい募る途中でリドルは再三のあくびを噛んだ。


「……眠たい。もうだめ」


 煙草を灰皿にぎゅっと押し潰して、


「きみには詭弁に聞こえるだろうけど、こうすれば秤はとんとん……」


 机の抽斗から一枚の金貨を出すと、親指できんと真上に弾く。

 回転するそれがリドルの手のひらに落ちてきたころには、見覚えのある知恵の輪に変わっていた。


「……勇ある無法者はミナミの迷宮にもぐり宝を探したがる、いわんや、無法を黙認して迷宮の通行税を取りたがるミナミの役人においてをや」


 どうも煙に巻かれている。

 ラビは釈然としなかったけれど、さあ、おでかけだ、とアルルは新人の腕をぐいぐいと引っ張って応接間を出ていこうとする。その背に向けて、仮契約書に署名をしたかどうか、リドルが尋ねてきた。


「実はまだ読めていなくて」


 昨夜は湯浴みを終えて自室に戻り、ああ、あれを読まなくちゃ、と思いながらも寝具に倒れてからの記憶がない。ぬくい湯船にゆるんで、久しぶりの柔らかい寝具にくるまれ、あっという間に眠りに落ちてしまった。

 そう答えると、先輩ふたりはどうしたものかと顔を見合わせた。


「契約といっても〈仮〉だから、そう気にすることも」

「雇用主としては本当は読んでほしんだけどなあ」


 帰ってきてからでもいいか、そういうと探偵は肘かけ椅子に深く沈みこみ、よれよれの帽子を顔に置く。たちまち寝息を立ててしまった。

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