辞書にだってきっと男と女がいる
「きみが与る〈星の器〉をぼくが鑑定する。そのために、この辞書にきみのことを調べてもらうんだ。古老の辞書ほど世の言葉どもを知悉している」
困惑するラビの肩をアルルが叩いた。
「いわば占いみたいなもんだ。走査線の魔力が全身くまなく流れるから、ちょっと気味が悪いんだけどね」
我が身を抱きしめるようにラビが後ずさりすると、探偵は他意はないというふうに諸手を上げてみせた。
「勘違いしないでほしいのは、ぼくが知りたがりではないということ。辞書がきみの心を読んでいるあいだ、その真実は見えないよう、ぼくは目をつぶっている。どうしても嫌というのなら無理強いはしないよ。
ぼくがなぜ、きみの器を鑑定したいかというと、きみという生命そのものの個性、己を知るひとつの指針としてほしいから。魔物が棲みつくあの地下牢を探るとなれば、たとえ些細のことでも命取りになりかねないんだ。
こちらとしてもラビ・リンディスがどういう魔術師なのか、あらかじめその得手不得手を知ることができれば、心構えも多少は取りやすいんだけど……」
アルルは肩をすくめる。
「そうはいっても見ず知らずの野郎からいきなり、きみのことを隅々まで知りたいんだと迫られても、うんとうなずく女なんていやしない」
「ごもっともだけど……それをする役目は辞書であって、ぼくではない……」
「気持ちの問題だろ」
ばっさりと探偵をやりこめてから、アルルは不安がるラビに向き直った。
「本当ならあたしが代わりにやりたいくらいだけど、これはリドル兄さまにしかできないこと、真実を知りうる力あってこその鑑定だから。せめてきみを見てもらう辞書くらいはきみが選べばいい。辞書にだってきっと男と女がいるだろうサ」
――女は度胸、論ずるより実践だ、とアルルはラビの背中をどんと押す。
卓には何冊かの辞書が並んでいる。どれを選ぼうかと目移りするまでもなく、気がつくとラビはその古ぼけた小本を手にしていた。函もなく表紙がぼろぼろに煤けた古典基礎語の辞典である。
「うじうじとしていた割に決断が早い。目が合ったのかい」
ラビは首をかしげて、
「おばあさんが微笑んでくれたような」
「そりゃよかった。助平ジジイに心を読まれるよりはマシだね」
ラビの選んだ辞書の表紙に、リドルは祈りをこめるように手を置いた。
「図書の魂に安らぎを」
そう告げるとリドルはラビの左手を取り、捧げ持つようにして己の額に当てた。
「まずは御手を拝借。……ちと冷たい。緊張している?」
「ちょっとだけ」
「きみはぼくと手をつなぐだけ。気分は楽に。反対の手は辞書の背を持って。そう。それでいい。あとはぼくが〈いい〉というまで手を離しちゃだめ」
「……離すとどうなるのですか」
「真実に呪われるかも」
ラビのつなぐ手にぎゅっと力がこもった。
アルルはもう笑いをこらえるのに必死である。意地悪に脅されて、ぱっと手を離すのではなく、いわれたとおり離さないよう手を握りしめるとは。――すなおな子だ。アルルはいっそうラビのことが気に入った。
「冗談はさておき、走る魔術が途中でこけちゃうから気をつけて」
「はい」
真面目くさったラビのうべないに、リドルは片目をつむって返すと、余る左手を辞書の背に添える。手をつなぐふたり、辞書を挟んで円環の形となる。
リドルの魔力がその紋章を虚空に描くと、ラビの手のひらに清明たる魔力が流れてくるのがわかった。
なんだか身体がもぞもぞしてくる。気持ちが悪いというよりも、妙にくすぐったくて、ちょっと変な気分になりそう。整っているものが乱されていく感覚だ。心と身体を魔力に尋ねられているからだろうが、なんというか身体じゅうに連なる分水嶺の上をどちらにも滑り落ちないように水が流れていくみたいだった。
敏いところをめくり、そこはかとなく見透かされる。それが色好く繰り返される。
(……これが真実の呪い)
辞書は強い風にあおられる風車のように次々と頁がめくられ、その言葉に満ちる一葉に時折の蛍が淡く灯るように項がいくつも輝いていく。あの言葉のひとつひとつが自分の心のひとひらなのだろうか。
隣に目線を投げかければ、リドルは殊勝にもきちんと目をつむっている。
その魔術は確かにほんの一瞬の出来事だったはず、それが久闊の友にたまさか出会えたかのように、そこに至る時は久しく感じられた。ラビは我を忘れていた。
「これでおしまい。もう手を離してもいいよ」
リドルに手を握り返され、ラビは弾かれるように身を離した。
その手を胸にかき抱き、熱がる吐息を整える。早鐘を打つ胸、ぞくりと身震いが走って膝が笑う。――腰砕けだ。ラビは長椅子にかけて膝を抱え、その赤面が隠れるようにうずくまった。
ふうと深呼吸をしていると、アルルが苦笑まじりに隣に腰かけてきた。
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