ヘルメス・リドル
「時間があるときに、わたしもここの本を読んでもいいですか」
探偵はうなずいた。
「本来なら本は読まれるためにあるべき。本の価値は読む個人によりけり、有無を問わずその軽重があるけれども、読むことは語りを知りうるための手段のひとつ、まことしやかの真贋を糺すものではない。本の魂は読まずとも、そこにある。
読まれて困る本はこの世に存在するはずがない。そこに思惑を隠すモノが困るだけだ。文物に貴賤があると思うだけでその価値が変わるとするならば、それは思潮という手綱を握りたがる斯界に限ってのこと。
迷わず食べたくなるくらい本を愛しちゃえばいい。その毒で読者を殺さない本はきっと将来の糧になるだろう。本はたぶん、その魂に気づかれずに宿るものだから。読むモノの薬になればそれでいいんだ」
大真面目にうそぶく探偵をアルルが茶化した。
「薬になり毒になり、そしてときには圧しひしぎ、書を読まんと志すもの、あたわずして潰されて、殺されかけることもある」
探偵は照れるように、ぼさぼさ頭をかいた。
「アルルが買ってきてくれたあの唐揚げがおいしくってさ……作りかたの秘訣を調べようとして南方料理の専門書を書架から抜き出そうとしたら、あのざまだよ。棚が崩れて梯子もろとも落っこちて、あとは目の前がまっくら」
「字が読めないくせに。あたしを待っときゃよかったんだ」
「帰ってきたらすぐに読み聞かせてもらおうと思ってね。失敗したな。もうちょっと書架を本でぴっちり詰めていればね。なまじ隙間を空けておくとだめだ。これは教訓だよ。このあいだ……古書店に割愛しなきゃよかった」
「また増やす気か。この活字中毒は……本当に」
アルルはおでこを押さえ、あふあふと探偵はあくびをした。
「今夜はもう遅いし……この街と仕事のことは追々、きみに説明してあげよう。寝る前にでもこれ、とっくり読んでおいてね」
雇用主である探偵は仮契約書をラビに渡した。
「部屋はたくさん余っているから好きなところを選ぶといいよ……アルル、この子を案内してあげて。ぼくは読める限りはここで本を読んでいるから……」
不束者ですが、なにとぞ明日からよしなに、とラビが深々と頭を下げる。アルルが探偵の肩を小突いた。
「ほら所長さん、新人に自己紹介しとけって」
「名乗ってなかったっけ」
探偵はふらふらと立ち上がり、どこからともなくよれよれの帽子を出すと、それを胸に当ててかしこまってみせた。
「僕はリドル、ヘルメス・リドル。――真実を占う鑑定士だ」
アルルとユアンが隣であれという顔をした。
「兄ちゃんてば、肩書は探偵じゃないの」
「元々は錬金術師」
「いっときは作家だったよね」
「いまでもそう。呪われてからは遅筆のだけで」
「迷宮の牢名主でもあるような」
「……茶々を入れないでよ。せっかくかっこつけたのに。変に肩書が多いとなんだか詐欺師みたいじゃないか」
リドルが肩を落とすと、ラビはくすくす笑った。
「いまでは探偵なんだか錬金術師なんだか、自分でも肩書がよくわからないけど。まあ、気軽にリドルと呼んでくれたら嬉しい。ヘルメスという家柄は嫌いなんだ!」
まだ本調子ではないのだろう、リドルは頭を押さえながら長椅子に倒れこむように座ると、
「明日はきみが与る〈星の器〉を鑑定してあげるから、詳しくはまた明日の朝にでも」
探偵は力なく手を振った。
「おやすみ」
たがいに挨拶を返す。館のあれやこれや案内までに先導するアルルは同性の仕事仲間が増えて嬉しそうだった。――小鬼どもが息をひそめ、闇うごめく館の奥にラビは自らの意志で踏み入ったのである。
こうして明日からラビは憧れの都会での暮らしをはじめる。謎めくミナミの迷宮にまつわる一筋縄ではいかない探偵の助手、その苦難の幕が開けるのだった。
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