一番ノ魔女

 探偵はむつかしい顔つきで仮契約書を眺め、溜息をつくと、さっと知恵の輪をひらめかせて、あっというまにそれを眼鏡に変えてしまった。


 ラビは苦もなく錬金術を操るさまを初めて目の当たりにした。

 魔術とは違い、錬金術は往々にして時間がかかるものと相場は決まっているものだからだ。



 魔術とは、己の魂に満ちる魔力――これは生命力と言い換えてもいい――を発現したい魔術の公式を描く紋様に流して、それを組成して展開させるもの。

 基(もとい)となる魔力を操り紋章を思うとおり描かないといけないため、ある意味では構想力と絵心が必要となるのだが、これについてラビは幾何と数学の応用だと思っている。


 式の配置の仕方は魔術師それぞれに好みとその個性があり、たとえ式が同様であっても紋章に描かれる構文の配置しだいでは魔術の毛色は丸きり異なるものとなる。たとえ主題が同じでも、携わる画家や作家によって細大その表現はてんでん別物、それと一緒だ。


 打って変わって錬金術とは、己の魔力によって、ある物質をまったく異なる物質に編み直して新たに生まれ変わらせるもの。その規格は統一されがちで、どちらかといえば理に重きを置く、根気よくことに当たる職能の技術めいたものだ。魔術とは根っこのところ、向かうところの論理と力の制約そのものが違う。


 魔術は天真爛漫に自由の風を求めるおしゃべりの風来坊。

 錬金術はその生涯をかける頑固一徹、とんと口数の少ない親方堅気。

 以上このふたつに関していえば、上記のように擬人化してざっくり覚えておけば、いくたりかは理解の助けになるだろう。



 探偵は縁なし眼鏡をかけ、書面をじっくり睨んだ。


「見づらいけど、辛うじて……読めなくはない。この文字の踊りかた、のたくりようからすると……たぶん半日くらいは持つかも……」

「まあ、謎という謎でもなかったし」

「笑いごとじゃないよ」


 ふてくされる探偵の肩を気安く叩き、アルルはラビに説明する。


「リドル兄さまはね、とある魔女に呪いをかけられているんだ。――なにか謎を解かないと文字が読めなくなる呪いをね。

 どんなに謎を解いても、おおよそ十日後には必ず文盲(ぶんもう)になってしまう。どこの国の言葉や記号であろうとも、とうに意味の失われたいにしえの祖語でさえ形がとろけて見えるそうで。手話の動きさえあらかたわからなくなるみたいだから、どうも目から伝わる言葉は基本だめみたいだね」


「一番ノ魔女」


 探偵は忌まわしそうに告げた。


「ぼくはそいつを探している。草の根を分けてでも見つけ出して必ずこの呪いを解かせてやる。そのためなら……あの迷宮を滅ぼしてやってもいい」


 街の新参者であるラビのためにアルルが補足した。


「一番とは、ミナミの迷宮に振られた便宜上の番号のことさ。地上から底の見えない縦穴に螺旋状にぐるりと階層が降りていく、そのもっとも上にある横穴が通称一番。そこから十進法で連番に続いていくんだけど、一番てっぺんの迷宮に現れた女魔術師をこの街では愛をこめて〈一番ノ魔女〉と呼んでいるんだ」


「……いちばんのまじょ」


 おそらく通り名だろう。真名を呼ばない、呼べないのは物忌みを避けるためか。


「一番の迷宮には、ミナミの迷宮すべての愛がこめられている」


 アルルが改めて強調すると、ユアンがおかしそうに吹き出した。


「兄ちゃんはその魔女にしてやられたってわけ。……理由はなんというか、しょうもないことだから聞かないであげて」

「ただの八つ当たりさ。ぼくとは関係がないところで起きたことを……」


 苦笑するアルルとは裏腹にぼやき節の探偵はとことん苦り切った顔、大手を広げてあまたの本で埋め尽くされるこの広い書庫を示してみせた。


「ここで暮らすうえで文字が読めなくなるなんて……まるで拷問だよ」


 ラビにもその気持ちはよくわかる。


 幼少のころ、お気に入りの本を失くしてしまったことがあった。

 いつでも枕元にあったもの、読みたいときに読めたもの、それが手元から忽然と消えてしまった。


 いつも持ち歩いていたから、たぶん森の中にでも置き忘れてきたのだろう。母からまた買ってあげるからとなぐさめられて、同じ本を新しく買ってもらったけれど、それはもう前の本とはまるっきり別物になっていた。


 あれは確か、古い児童書だったはずだ。本の名前はもう忘れてしまった。


 そのことを思い出して、それを忘れていたことに気づかされて、ラビはちょっぴりと涙ぐみそうになった。……故郷を離れてからというもの、どうも感傷に流されやすくなっている。やはりまだ心細いのかもしれない。

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