乗りかけた船

「ヒースか。いいところだよね。見晴るかす緑の丘に羊がいっぱいで、牧草をそよがす風がとっても心地いいんだ。息苦しい都会よりよっぽど住みやすい場所だよ」


 潤みがちの瞳でラビが探偵を見つめると、


「結局のところ、ヒトの心の本質は〈ないものねだり〉ってことかな」


 そういって探偵は軽やかに肩をすくめてみせた。


「都会には乗りかけた船という言葉もあるけれど……むぐ」


 アルルの口をふさぎ、ユアンは目顔でたしなめる。

 アルルはこの子を気に入っているのだろう。勧誘したい気持ちはわかる。でも先ほどのいきさつを聞くには――この子は都会に、自由を得にやってきたのだ。


 そうはいっても、心配なところもある。


「おねえさん、お金はあるの?」


 ラビはちょっと下を向いた。……実はあんまり手持ちがないのだ。底を突くというほどではないが、できれば明日からでも住み込みで働きたい。今日はもう遅いから紹介された仕事先にいまから伺うことも難しい。


 アルルはふんと鼻を鳴らした。


「まあ、躊躇するのも無理はないさ。あのお役所サマでうちの悪い噂をさんざん聞かされたんだろうからね」

「アルルの出禁が多いことは確かだよね」

「おい、それ、ユアンがいえることじゃないだろ。この女たらしが!」


 ラビは拳を口に当てて笑った。

 仕事の内容はともかく、この賑々しい人たちに囲まれていれば寂しくはなりづらいかもしれない。少なくとも人恋しくはならないだろう。ラビは決意した。


「ここって住み込みはできるのですか」


 アルルとユアン、ふたり揃ってラビに向き直り、ついで館の主をせっついた。


「どういう仕事かわかっているの……」

「はい、探偵の助手と伺いました」

「体力に自信は……」

「あります」

「やくざの商売だから割と危ない目に遭うかも」


 ラビはちょっと間をおいてから、きゅっとくちびるを結んだ。


「自分の身を守るくらいならできます」

「そう。アルルの眼鏡に適っているなら、ぼくに異存はないけれど。最後にひとつだけ。きみは回復系の魔術が扱えるようだけど、蘇生系は使える?」


「死後の魂呼び(たまよび)ですか」

「うん」

「主の肉体が腐らない限りは、心臓が止まって三日以内なら、たぶんなんとか。二日以内なら失敗したことはありませんが、そこまで回数をこなしたわけではないので……やはり間違いが少ないのは一日以内の施術だと思います」


 ひゅうとアルルは口笛を吹いた。


 古くは死霊術と呼ばれた、一般に知られる蘇生系の魔術において、成功例の平均限界はおおよそ死後一日までだ。――やはり、この子は手堅い。己の分相応に対して厳しい客観をすでに持っており、その見立てが辛い。過信がないといったところか。


「けれども蘇生系の典例に則ったしっかりとした対価がないと……おそらく魔術の確度を保てません」

「それは気にしなくていい。あの地下牢の中でなら」


 どういう意味だろう。


 対価を払わず蘇生が叶うなど絶対にありえないことだ。よもやイケニエを捧げる原始式を組むわけでもあるまい。いまの主流としては海抜の高い上高地にしか生えない生命力の強い木の樹液を煮詰めたものを対価とすることが多いのだが。学校で教えられた限りではたとえミナミの迷宮でも、対価を払わずには生き返らないはずだ。


 ラビが小首をかしげていると、アルルが鼻歌まじりに仮契約書を隣室から携えてきた。それを館の主に手渡すと、


「そういや兄さま、多少なりとも呪いは和らいだのかい」

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