ぼくの呪いを解くために

「……誰が殺したって?」


 むっくりと起きようとして額の手巾が腹に落ちる。急に頭を動かしたものだから目眩に襲われているのだろう、探偵は額を押さえてうずくまる。

 アルルから水をもらって一気にあおると、探偵は呻いて背もたれに深く沈み、しばらく書斎の天井を眺めた。


「リドル兄さま、気分は落ち着いたかい」

「……アルル、いつからきみはぼくの妹になったんだ」

「さあ?」


 アルルは楽しそうだ。くつくつ笑う。


「頭を打って記憶が濁っているようだね。ユアンはきちんと弟に見えるかい」

「ユアンは……昔からぼくの弟だ。まぎれもなく母上が産んだ、ぼくの弟だ。……でも、きみは違う……きみは……ああ、ちくしょう!」


 ――読めない! 


 そう呻いて手のひらで顔をこすり、よれよれの上着をまさぐって吸いさしの短い紙煙草を取り出すと、探偵は口にくわえた。火を点けず、なおも天井を見向いたままだったが、たったいま思い出したかのように正面に座るラビを見据える。


「きみは誰だ」


 向かい合うその男は無精ヒゲだらけ、落ちくぼむ目はどんよりと淀んでいる。ぼさぼさの髪をきちんと整えて身づくろいをすれば、弟の美少年と顔つきが似ているくらいだから見てくれは立つだろうに、どうも荒んだ感が拭えない。


 客人に誰何する、そうしたちぐはぐの言動にラビが戸惑っていると探偵はくわえ煙草のまま懐から知恵の輪を出して、かちゃかちゃと手持ち無沙汰のように動かした。それでも探偵の言問い顔はラビからはずれなかった。


「ほら、例の〈入試〉に受かった」


 アルルが横槍を入れると、探偵はああ、と得心がいったふうだ。


「しかも本に埋もれた兄さまを助け出して介抱してくれた」

「それは……親切にありがとう、ええと」


 思えばまだ名乗っていなかった。ラビはすっくと姿勢を正した。


「わたしはラビ・リンディスと申します」

「きみはヒース高原の出身だったっけ。じゃあ、家名がリンディスか。僕のとは姓名の名乗り順があべこべで、こんがらがってしまいそうだよ」

「――ちょっと待って」


 ラビは勢いよく挙手をした。してしまった。学生のころの癖が抜けていない。そろそろと手を引っ込めながら赤面しそうになる。


「なんでヒースの出だと……」

「それはおかしい、違うの……」

「それはその、本当ですけど……」ど田舎だから口に出すのが恥ずかしいのだ。

「リンディスさん、きみは裏社会で有名になっている」

「はい?」


 すっとんきょうの声が上がった。突拍子もなく裏社会に名が高いと指摘されても理解が追いつかない。自分はついこのあいだまで、そこらへんにごまんと転がる片田舎の一学生だったのだ! 


 ラビは混乱してきたが、探偵はなおも言葉を重ねる。


「きみは家出をしてきた。そうして最近ミナミに着いた。違う?」


 そう。なにも悪いことはしていない。そのはず。

 そう思うのに、ラビは声を出せなかった。震えそうになる背中を丸め、縮こまり、うつむいてしまう。


「――きみはどう見てもエルフだ。ろくに手荷物も持っていない。身なりに都ぶる様子もない。用意なく故郷を飛び出してきたんだろう。そしてアルルの作った〈入試〉に受かるほどの魔術の才がある……。

 先だってミナミの暗黒街に手配書が回ってきた。野良着同然のエルフの女、魔術の扱いに長けた、長い金髪の娘が北からやってくる。そいつを生け捕りにした奴にはしかじかの賞金を出そう。蛇の道は蛇だ。……こういう後ろ暗いことを企てる輩から、きみは恨みを買った。もうわかるだろう?」


 ラビは顔を覆った。

 ――本当に、あの夜は怖かったのだ。知らない男たちに囲まれて。


 探偵はゆっくりと物語を歌うように語った。


「故郷から都に向かう旅の途中、若い女性がゴロツキに襲われそうになった。そいつらは下卑たケダモノのようだった。その女性はたまたま……本当に運よく腕に覚えがあったから、野蛮の男ども返り討ちにできた。


 そいつらは公の賞金首だった。荒くれの同業者たちは仲間を叩きのめしたというエルフの魔術師に復讐を誓う。そして、きみは裏社会での賞金首になってしまった。きみはただ、自分の身を守っただけなのに」


 探偵の隣でアルルは慎重に魔術を操った。冷めた湯呑を温めるために。

 ゆらゆら揺れる湯気にあったかい牛乳の匂いがふっと香るようになった。それを改めてラビの前に差し出すと、アルルは隣の応接室の窓を開けて鳥の形をした魔術を夜空に飛ばした。


「正義なんて言葉、ぼくは嫌いだ。あやふやだもの。裏から見れば表は裏だ。そして裏は己のことを裏だとは思わない。公の治安と秩序を守ろうと表立つ輩だって、己のことを裏だとは思わないだろう。この話はとかく視点の問題にすり替わりやすい。


 だから社会は金貨の表と裏に名前をつける。――こっちは天使、こっちは悪魔。どっちとも天使であることは許されない。けれどもとっくに名前はみんなに与えられてしまったんだ。


 その名を誉れと思うか恥と思うかは人それぞれだけど、どういうものであれ、恥じらうことのできる人は、ぼくはすてきだと思う。いけないと己を戒めること、そしてきちんと不肖を心で省みることのできる証だから。

 ああいうゴロツキの手合いには恥じらいの心がない。きみとは違うよ。だから顔を上げてくれないかな……ほら、アルルが牛乳を温め直してくれたんだ」


 その湯呑を取ると、両の手のひらに牛乳のぬくもりが伝わった。

 ラビはようやく微笑むことができた。この探偵さんは自分をなぐさめようとしてくれたのだ。


 ラビが温かい牛乳を飲みはじめるのを見て、探偵はふうと溜息をついた。煙草をくわえなおして、指先でこすり火を点ける。


「書物に臭いが移る。本当は……この部屋で煙草は吸いたくないんだけど……これも性分だから仕方がない。どうもこれ、秘儀めいて嫌なんだよなあ」


 探偵は物憂く指を振ると、


「リンディスさんに頼みがあるんだけど……実はここからが本題で」

「はい」

「きみが賞金首をとっちめていたのは知っている。けれども、それで〈報酬を得ていたか〉ぼくは知らない。……それをぼくに教えないでほしい。ちょっとのあいだ、ぼくにとってのささやかな謎のままにしていてほしいんだ」

「どうして?」

「ぼくの呪いを解くために」


 穏やかではない言葉にラビは驚いた。探偵は力なく微笑んで片目をつむると、天井に向かって煙草の煙を吐いた。

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