甘い残り香の道しるべ
いくつか職を紹介してもらい、最寄りの安宿を教えてもらうとラビは役場を出た。
ミナミの街並みはとうに夜のとばりにその影をひそめ、目抜き通りに居並ぶ街灯がてんでに行き交う人影をうっすらと敷石に伸ばしている。
アルルの余韻、あえかに色づく甘い残り香、それが帯状に揺らめく煙のように道の奥に続いている。このままだと雑踏にかき消えてしまうだろう。
(都会の人は歩くのが速い……)
ラビは肘を抱きしめ、おっかなびっくりと夜道に伸びるアルルの残り香をたどった。
(……人通りの少ない暗がりに入るようだったら引き返そう)
不安に反して、色づく香りが細い脇道にそれることはなかった。
この街は迷宮の縦穴を中心に、ぐるりと同心円状の目抜き通りが連なる。その幾何めく都大路をいくつか折れたところに、アルルが建物の石壁に背をもたれていた。
「やあ」
手を上げてラビの注意を引くと、上体の反動だけで身を起こす。にんまり口角を上げて笑うアルルはますます小悪魔めいて見えた。
「来てくれたんだ。嬉しいなあ」
「一飯の御礼がまだでしたので。それだけ伝えに……」
ラビがぺこりと頭を下げる。アルルは頭をかき、しゃがんで自分の膝に両の手で頬杖をつくと、さもつまらなさそうにラビを見上げてきた。
「律儀だねえ。顔を上げなって。恩を売ったつもりはさらさらないんだ。うら若い娘さんに夜の暗がりをうろつかせたのは平に謝るけどさ、あたしの魔術を見破りかけたからには、これもうちの試金石のひとつでね」
ラビも膝を抱えてしゃがみ、アルルと目の高さを合わせる。
「ではやはり、あの求人票にはあなたの魔術が?」
「そう。あれに察してくれた求道者は何年ぶりかなあ。きみは魔術の基礎を、しかも古い大系をよく学んでいるね」
「はい、古文解読は得意です。古典を読むことはわたしの生きがいなので」
「おお、断言したな、こいつ」
アルルは指をぱちりと鳴らす。その音とほぼ同時に紋章が現れた。度肝を抜くほど式を描くのが速い。――この速度にしてこの確度、おそらくはノール大学校の導師連でさえも敵わないようにラビには思えた。
(べ、べらぼうじゃ、都会にはおっかねえ魔術師がおるけんの……)
「いつまで紋を出させるつもりだ。――早く読め。現代語訳でいいから」
アルルに間近ですごまれて、ラビは首をすくめた。
不良オネーサンが田舎から出てきた小娘にからむ絵面と見え、街角の通行人がちらほらと目線を投げかける。あれはカツアゲだろうか。
アルルは待ちきれなくて、もはやあぐらをかいている。蓮っ葉めいた女魔術師が描く紋章の見慣れない様式をラビはまじまじと見つめた。
「ある範囲において……一定のあいだ感知する……ええと、下限魔力の積分に応じて……規定値を上回る場合にのみ……術者に通知を送るもの?」
「上出来」
アルルは立ち上がり尻の埃をはたくと、くいと頤使(いし)でもって街角を示した。
「うちにおいで。あったかい牛乳でも飲もう」
世事に疎いラビにもそこが街中の一等地だということはわかった。
木蔦の這う迫持(せりもち)の門をくぐり、塀内のぐるりに群生する木立の小径を抜けると、蒼然と古ぼけた館がこぢんまりと佇む。間口に臨む木組みの扉の横には「ダンジョン探偵※※※※※※※」と苔むす額が斜めに傾いでぶら下がる。〈探偵〉より以下の字は苔に覆われて判読できない。
〈ダンジョン〉とはまた古めかしい響きだ。いにしえの地下牢といった意味ほどの上代に作られた言葉で、当世いまや誰も用いない死語である。
館の中は暗い。
アルルは指先ひとつで丸い明かりをいくつか漂わせた。弱々しく明滅するのもあれば、ひときわ強烈に輝くのもある。その魔術の確度には、ばらつきがあった。
案内されるまま軋む廊下を進むと、ラビにとって慣れ親しい匂い、思わずわあっと歓声を上げてしまった。
個人が所有するものとしてはかなり広い書斎である。円形の部屋を囲う壁面のほとんどを書架として、その棚違いの隙間に挿む向きもてんでばらばらに、本がずらりと埋まっている。
これはいけない、本の虫にとってはたまらない。古い書物に特有のわずかに甘い紙と墨の匂いに、ラビはうっとりと深呼吸をしてしまったほどだ。蝶が花の色香に誘われるように、ラビはふらふらと書架に歩み寄る。
「ここが待合室だよ。本当は書庫なんだけどね。この館の間取り上、まず客人が向かう先がここだから仕方がない。まあ好きなところに座っていてよ」
はたしてラビに聞こえているかどうか。
本の虫はすでに心を書物の虜に囚われて、とある本の背表紙から消えかける異国の草体を指でいとおしそうに撫でている。
「おーい、リドル兄さまやーい、どこにいるんだーい。出ておいでー」
こっちかなあ、とアルルは隣室に向かった。
書架の前で佇むままに書物をぼんやり読み耽るラビの肘を、少年がついと引いて、部屋の中央にある革張りの長椅子にラビを座らせた。ちょこなんと隣に座る少年にまるで気づきもせず、ラビは手元の活字を追うのに夢中である。その横顔を不思議そうに小柄の少年が眺めている。
厨房のほうから手のひらほどの小鬼たちがわらわらと盆を担いでやってきた。
長椅子の前にある低い猫足の卓に湯気の昇る湯呑をひとつ置くと、小鬼たちは腰掛けの影に隠れて闖入者ラビのことを遠巻きに観察した。
かさりとラビが紙面をめくると、わっと小鬼たちは飛び上がって暗がりに逃げた。わらわらと足元をうごめく小鬼たちを踏みつけないよう、掌中の牛乳をこぼさないようにアルルが戻ってくると、少年はあくびまじりに「おかえり」といって手を振った。
「ねえ、アルル、このおねえさん変だよ。ぼくが隣に座っても、ちっとも頭を撫でてくれないし、ぎゅっと抱きしめてもくれないんだ」
アルルは温かい牛乳を飲みながら、色褪せた紙面を覗いたまま耽読して動かないラビを呆れまじりに見やった。
「こりゃあ紙魚(しみ)の本患いだね、兄さまと同病か。――ユアン、そこの娘さんは貴重な人材だから、かわいくても手籠めにしたらダメだよ」
「はーい」
「それより、リドル兄さまはどこにいるの」
「あそこで埋まってるよ」
ユアン少年が指差すほうには、書架の高いところから崩れ落ちたらしい本がうずたかい山を作っている。その底から梯子とともに二本の足がにゅっと伸びていた。
「兄さまは本の擬態でもしているのかい」
「寝息が聞こえるから、たぶん居眠り中」
「虫の息の間違いだろ。……本の虫を二匹ばかり叩き起こす必要がありそうだね。そっちの紙魚は頼むよ、ユアン」
横合いから書物をひょいと取ると、ユアンはわざと音を立ててそれを閉じた。ラビは夢から覚めるようにはっとして、きょろきょろ見回す。
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