小悪魔アルルの退場

 紋章がじかに紙に描かれているわけでないので、確かに一見するだけではそこに魔力が秘められているかどうか判然としづらいけれども、いかに隠されようと魔術の心のひだを感じ取ろうとする気持ちがあればわかる。


 紋章とは魔術を生み出す公式。その心そのものだ。術者の思いが表れやすい。


 紋章を描写に展開するその様式と魔術系統の種本からなる古典の翻訳をかじったことのある識者、つまるところ魔術の基礎をとことん頭に叩き込んでいる者であれば、雰囲気の共感とでもいうべき魔術の気位くらいは伝わる。


 罠が仕掛けられている様子はない。

 ラビは求人票の紙を撫でて、魔術の心、そこに秘められる紋様を紐解いてみた。


(……ずいぶん古い型の組成式、これ仮定法か……〈見えたらば、主、底の限り〉?)


 判読にラビがまごついていると、急においしい匂いが漂ってきた。朝からろくに食べていなかったせいで危うく腹が鳴りかけるところだ。さりげなく脇腹をさすると、向かいの親方の顔がなぜか険しくなっている。


 その黒い人影がぬうっと伸びてくるまで、ラビはその人物がこちらに近寄ってきたことにまるで気がつかなかった。


「へえ、なかなかの〈タマ〉じゃないか、ふうん、いいねえ、きみ」


 ぎょっとして振り向くと、背の高い妙齢の女性が立っていた。

 揚げたての鶏の唐揚げがたんまり入った袋を抱えながら、そのひとつをぱくついている。


 ラビが目をぱちくりとしているさなかに、目つきの猫っぽいその女性は唐揚げをあっというまに平らげ、ぺろりと舌なめずりをした。


「物欲しげのきみには揚げたてをひとつ進呈しよう」


 ラビはすなおに受け取ってしまった。――おいそれと知らないヒトからモノをもらってはいけない。


「おいアルル、若い娘さんに餌付けをするんじゃない」

「そっちこそ若い娘さんに〈エサ〉だなんて、なんちゅう言い草だろうね」

「なんでここにいる」

「リドル兄さまのおつかいで。ふふふ、かりっと揚げたてはうまいよね」


 片目をつむって唐揚げの包みを掲げてみせる。


 どうにも胡散くさい人物だが妙に人懐こいところがあるようで、大広間にいるみんなに唐揚げをちょこまかと配って回る。親方だけはいらんと固辞していたけれど、ほかの役人たちは好意に甘えていた。ちょうど小腹の空く時間帯なのだ。


 せっかくの揚げたてが冷めるのも興醒めなので、ラビも楊枝に刺さる唐揚げをかりっとかじる。ぱりぱりの衣はぴりりと山椒が効き、そして隠れたるは香味の利いた刻み野菜、そこに肉汁がじゅわっと口の中でほどけて……おいしい! 


 アルルは包みを後ろ手に持ちながら、もぐもぐ頬張るラビに笑いかけた。


「あたしはアルル。よろしく。きみはなんて名前?」

「仕事の邪魔だ。さっさと帰れ」


 親方が払いのけるように邪険に扱うもアルルは上半身のみをしならせるように屈めて、垂れる髪の房を耳にかけながら台帳をぺらぺらとめくった。


「へええ、いまはこんなにたくさん仕事があるんだね。あはは、ここなんて条件がよくていいんでない。賃金がいっとう高くてここかあ。うちの事務所なら、きみを雇うのにこの三倍は出すのにね」


 ラビは唐揚げをむせるところだった。


 ばちこーんと頭の中でそろばんの珠が弾ける。――三倍。三倍だって。いくらなんでもそれは新人に払う給金にしては破格の待遇である。ラビの頭がくらくらするのは、アルルが身につける甘い香水のせいだろうか、それとも……。


 たじろぐおぼこ娘の傾注を促すように親方は机を叩いた。


「――嬢ちゃん、しっかりしろ。こいつらはヒトの皮をかぶった悪魔なんだ。甘い言葉で誘惑してくる。ミナミにはこういう輩が大勢いるんだ。騙されちゃいかん」

「そうとも、あたしは罪深き小悪魔なのサ」


 アルルはくるりと背を向けると、どこかで聴いたことのある調子はずれの鼻歌をうたいながら出口に歩いていった。大広間を出ていきしなに振り返り、


「きみのこと、気に入っちゃった。久しぶりの瑞祥だねえ。合縁奇縁が〈見えれば〉また会えるでしょう。――では、さらば」


 ひらひらと手を振って今度こそアルルは退場した。


「やっといなくなったか……うるさい奴だ」


 親方は溜息をついている。


 いまのはなんだったのだろう。いきなり現れて賑やかすのみに徹するかのようだった。小悪魔アルルの独擅場(どくせんじょう)、居合わせるみんなが呆気に取られていた。


 どうにも現実感がおぼつかず、強い酒を呑んだあとの酩酊にも似て景色が揺らいでしょうがない。そしていましがた、たゆたい薄れゆく甘い香水の残りに〈見惚れて〉しまったことに、ラビは改めて驚いた。


 いつのまに、香りを具現化したのだろう。


 本来なら見えない香りに鍵をかけて、それを一瞬のうちに色をつけて開いてしまった。その魔術の種をいつ仕掛けられたのかは考えるまでもない。――あの唐揚げだ。意識を集中してみれば舌触りの上に、鍵の残滓らしき魔力がほんのわずかに残っている。


 その幻惑にラビはちょっと感銘を受けた。


 人をさらりと手玉に取る手並みはまさに鮮やかというほかない。ラビはこれまで、どうすれば魔術を世に役立てられるか、そればかりを考えて学校に通っていた。こういう魔術の使いかたもある、という見方はラビにとって真新しい感覚だった。


「さっきの方……高名の魔術師なのですか」

「――あの女は悪魔だ」


 親方がぶるりと肩を震わせる。隣の受付嬢はくすくす笑った。


「アルルさんはこの街の有名人です。良くも悪くも」

「気まぐれで鬱陶しいだけだ。あいつらの巻き添えを食いたくなけりゃ近寄らないことだな」


 火力だけなら都に随一、ミナミの迷宮、そのひとつを吹っ飛ばして、崩壊させたことがあるという。にわかには信じられない話を聞いてしまった。


 それにしても、とラビは思う。

 さっきの鼻歌……どこで聴いたのだろう。

 うんと懐かしい。

 本当に幼いころに聴いた気がする。

 なにか熱中していて、ふいに胸が暖かくなる。あの鼻歌にはそういう印象がぼんやりと心に残っている。あれは昔……

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