祝祭
井村もづ
祝祭
祝祭の音が響いていた。
平日だというのにそこかしこがお祭り騒ぎだった。子供の泣き声のようなかん高い奇声と悲鳴と好奇心、それから人間をピラミッドの頂点に置くような優越感で場は満ちている。
彼らは、いつだって、檻の中に入ってわたし達をうかがっている。
生命をおびやかす純粋な敵ではないか、ただの客か、それとも味方か。みんな、底の見えないまっくろな目を持っていた。汚れのない、生き物としての本能がそこには見えた。
学校指定の黒いローファー、そんなものは脱いで、はき慣れた白いスニーカーで今日は動物園に行こうと叔父が言ったのだった。普段から口数が少ない人なのに今日はいつも以上に思考が突飛で、素早くて、有無を言わせない響きをともなっていたから、わたしも反抗せずに後ろについていった。叔母も同じく口数が少ない人だったが、わたしに対する嫌悪感があきらかに顔に貼りついていたから彼女には近づきたくなかった。
かろうじて、心を許すことができるのが叔父ただ一人だけだった。母にあたる人が死んでから四年間、叔父たちに引き取られて一緒に住んできたけれど、彼らの家にわたしはいまだになじむことができずにいる。今回のこの行動が、なじむ環境作りができないことに対しての彼の罪滅ぼしというのなら、そんな考えはお門違いだと思いながら、後ろを歩いていく。
だいたい、すべてが突然だったのだ。物心ついた頃には父がいなかった。女を体現しているような母は、えらいお金持ちをとっかえひっかえして毎日デートしてセックスして、いきなり死んでしまった。そんな母の娘だったから、わたしはどこに行っても嫌われたままだった。シリガルオンナの、じゃあムスメも、とかなんとか言われ続けても折れなかったわたしは母親の死体を見ても泣かなかったから、誰からも可愛がってもらえなかった。それでも年齢はまだ子供だったから、大人たちは適当に憐れんでなんでも用意してくれた。もらった服や靴の中で最低限のものを使用し、むざむざと日常に戻ろうとするわたしには、そう吹聴しなくてもいつだって死の匂いがまとわりついていた。
冷めた子供だという自覚もしていたし、まわりの人間もそういった目でわたしを見てきた。
最近、その目がまた、違う色を帯びてきたことに気がついてしまったのが、わたしの不運だと、そう思う。
「死にたくなったら動物園においで」
白い息を吐きながら前を歩く叔父が、唐突にそう口にした。わたしの心の奥底を見透かしたうたうような言葉で、どきりとした。それはどういう、言葉の意味を聞き返すよりも先に彼が言う。
「僕はね、ニーナ。君が生きていればそれだけで、いいと思っているよ」
生きていればそれだけで。
なんて甘い言葉だろうとわたしは思ったし、世の中を舐めきっている言葉だとも思った。そんな甘さだけで生きていけるのならば、わたしはわたしに向けられた、異常な光景を大きく受け止めずに済んだだろうし、なによりも強くいられただろう。
世界は、わたしの体が女になりはじめた頃から、敵になった。
わたしは発情期の男どもがすべて狼に見えはじめてから、学校というものから逃げるようになっていた。下を向いても聞こえるよだれをすする音と、うなり声と荒い鼻息、振り返ると鋭い目と歯がわたしを狙っていた。そんな光景が気味悪くてまわりの人間となじめなくなっていった。
わたしを女に産んだ母よ、わたしを娘にしたどこかの父の精子よ。あなたたちをうらみます。
そしてみんな死んじまえ、とはたしかに思っていた。そのはず、だったのに。
わたしは憎むべき世界の中で、一つの展示物に釘付けになっていた。
まっしろな毛並みを持つ大型の肉食獣だ。種をホッキョクグマ、雄の『ごんた』と名札がかかっていた。彼の名前だろう、そう予測はついたけれど、同時に思った。こんなにきれいな生き物の名前のはずが、ない。
ホッキョクグマは、目立つ展示物ではないようで、皆早足で目の前を通り過ぎていく。作り物の雪山の前を、突き刺す冬の冷たさのように、厳しく一瞥をくれるのみで、通り過ぎていく。叔父も同じように通り過ぎようとして、わたしが立ち止まったことに気がついたようだった。
「どうした?」
かけられた声に、答える気はなかった。
この時わたしには、はっきりと彼の背中から生えた一本の、桜の木が見えていたから。ピンクの花弁が一枚ずつ、静かに落ちていく。その色が、白を染め上げて、彼自身がピンクに侵蝕、されていた。そこではじめてわたしは、ホッキョクグマの毛が実は白じゃなくて、もっと澄んだ透明に近い色だということを知ったのだった。
「外そうか」
続けてかけられた静かな声に、頷いていた。ホッキョクグマとふたりきりになりたい、そう思った。
特にこの時、ホッキョクグマと話すことができると思って席を外してと叔父に頼んだわけではない。ただ、うつくしいこの獣を、わたしだけが気に留めていたい、そう思っただけだった。
叔父は頷いて、ふらりとどこかへ歩いていってしまった。きっと彼のことだから時間をおいてまたわたしを遠巻きに確認し、様子を伺いながら迎えにくることだろう。確証もないがそう、思った。
向かい合えばホッキョクグマは、そのうつくしさを惜しむことなくわたしに見せてくれた。根の張った筋肉のある背中、毛に埋もれた鋭い爪、深く黒い目、濡れた鼻先まで、すべてをわたしに無防備にさらしてくれた。
やっぱり、この獣は『ごんた』なんかではない。わたしはそう、思った。
ごんた、ではなくて、もっと。
足を止めたわたしを、ふと、彼が見た。視線がぴったりと一直線上に重なって、わたしは見たのだ。彼がうすく、笑うのを。
「いい靴を、はいているね。お嬢さん」
耳の奥に響いたのは低い、意識をからめとるような声だった。甘い響きに驚いて、それから少しだけ聞き惚れて。まわりを見回したけれど、ホッキョクグマを見ている人間は他にはいなかった。人影もほとんどない。今のはじゃあ、誰の声なのか。
改めてホッキョクグマを見ると、まっすぐな視線が返ってきた。バカな、と思う。そんなまさか、とも思うけれど。彼の背中の桜の木は変わらずきれいで、彼はうつくしい獣だから、一度ぐらいは試してみようと思ったのだ。
「あなた、ごんた、じゃ似合わないね」
わたしから返事が来るとは思わなかったのか、彼はひくりと鼻を動かして目を細くすると小さく唸った。威嚇するようなものではなくて、動物が機嫌の良いときに喉を鳴らすような、鳴き方だった。
「ヒトがつけた名前など私にとっては記号でしかない」
「でも、あなたにも親はいるでしょう? 名前はつけてもらえなかったの?」
「さあ、どうだったか」
親のことはよく知らないけれど、サーカスで芸を披露する獣であったと聞いているよ、と他人事のように彼は言った。自分のことなのに、彼はそうとしか捉えていないようだった。もしかしたら、彼は生まれて間もなく親から引き離されたのかもしれない。そうだとしたらこの話題を続けるのもかわいそうだと変な同情心がわいて、わたしはそれまでの会話を打ち消すように明るい声で提案した。
「じゃあわたしがあなたに名前をつけても?」
彼の深い目が、かすかに輝いたように見えた。その場で立ち上がった、彼の存在感の大きさに促されるようにして、わたしは口にする。
「あなたの名前はノヅル」
背中の木に絡んだ彼の筋肉が蔓のように見えたから口にした言葉だった。彼は何度もわたしが提案した名前を噛み砕くようにくりかえし唱えて、満足そうにほほえむ。
「いいね、ノヅル。いい、響きだ」
ヒトがつけた名前など記号でしかない、と言い切った彼の満足そうな声にわたしは胸がいっぱいになった。
動物園の閉園時間ははやい。
ノヅルとたくさん話したわたしの顔色がよほどいいものに見えたのだろうか、叔父はわたしに年間パスポートを惜しげもなく買い与えてくれた。代わりに動物園の休日である、月曜日には学校へ行くこと、そう言い聞かせてわたしとノヅルが会うことを許可してくれた。年間パスポートを大切に財布へしまい込んだわたしに、彼は秘密を明かすように小声で言う。
「僕の妻もね、もう誰かが死ぬことはこたえるんだよ」
ただ彼女もまだ子供だからいきすぎた態度をゆるしてほしい、と彼は言った。わたしはこれからほぼ毎日ノヅルに会うことができるよろこびに浮かれたまま、夢のような心地で頷いていた。
大人が子供であろうが、もはや、どうでもいい。
頭の中はノヅルでいっぱいだった。
わたしはそれから月曜日を除いた毎日、動物園に通った。この年頃の子供が学校に通っているべき平日に動物園にいる違和感がぬぐいきれないのだろう、何人もの大人から声をかけられたけれど、わたしはその度にノヅルの檻を掃除している飼育員に助けられた。老人だった。ノヅルがそれこそ立ち上がって、腕を一振りすれば飛んでいってしまいそうな、やせ細ったおじいさんだった。彼が現れるとノヅルの目がより穏やかになることに気がついてから、ノヅルの他にただ一人、この人とは少しずつ会話をするようになっていた。彼の名前は田中という。どこにでもいるようなふつうの名前のおじいさんだった。
わたしは田中や、そのほかの動物園の職員たちに見守られながらノヅルとの逢瀬をくり返していた。そこには学校で受けるようなさげすみや、狼のような舌なめずり、粘つくような視線は一切なかった。あるのはあたたかい空気と労わるような笑顔だけで、繭のような静かなぬくもりと安心感にわたしは包まれていた。
ノヅルの背中に生えている木は季節のたびにその彩りを変えた。夏は白い花のくちなし、秋は香り高い黄金のきんもくせい、冬は大輪の赤い椿。彼の毛並みも白、黄、赤と花に合わせて移り変わっていく。こんなにうつくしい生き物を見たことがなかった。
そのうつくしさと感動を伝えたくて、素直にきれいだと伝えてみたところ、田中はおろかノヅル本人にだって伝わらなかったのには驚いた。彼自身にはもちろん見えていたと思っていたものが、実は見えていなかったことがわかって、もったいないとわたしは思ったのだった。こんなにうつくしくて嬉しいこと、知らない方が損してる。こんなにきれいなのに!
もったいない、と呟けばノヅルは静かに笑うばかりで、それがひどくくやしかった。
だから、てのひらいっぱいに花をもぎ取って、彼にプレゼントしようと思ったのだ。
行動を起こしたのは出会ってから次の年だった。幸いにも学校には花をつけた木がたくさんあって、ノヅルの背中に生えた花もすぐに見つけることができた。
動物園が休園の月曜日、わたしは登校してすぐ、庭師の狼から木を整えるのに刈ったくずの中から花を拾う許可と、生きた数輪をもぎ取る許可をもらった。代償はほんの少しのわたしの体だったけれど、ノヅルのうつくしさのためならこの体など惜しくはない、と考えたのだ。簡単な損得勘定だった。どれだけ食べられたってかじられたって、わたしの体の汚れのせいで、ノヅルのうつくしさが失せるわけではない。一度きりの行為で、花をもぎ取る許可を卒業まで勝ち取ったわたしは満面の笑みで彼に花を持っていった。
シャワーを浴びて一晩経っているから取引の痕跡は体に残っていないはずだった。それでもノヅルと顔を合わせた瞬間、眉をひそめて、怪我をしたのかと聞かれたときには息がつまった。動揺をごまかして、心配そうに向けられた視線を流して抱え込んできたものを、彼の頭上へ目がけて投げる。
はじめての、花は、桜、だった。
目の前を覆った花吹雪に彼はひどく驚いてから、ほんの少しだけほほえんで、あの甘くて低い声でありがとうとわたしに言った。それだけで味わってきたすべての苦労がむくわれた、と思ったのだ。わたしは彼のためならなんでもできる。まちがいなく、彼はわたしの神様で、それから好きな、ひとだった。
ノヅルは、うつくしい、わたしだけの獣だった。
彼と出会ってから二年の歳月が駆け足でわたしの目の前を去っていった。わたしが十五歳になり、背がぐんと伸びたころ、わたしの目の前でノヅルが静かに倒れた。苦しみだとかそういったものはなく、本当に、静かに彼は倒れて動かなくなったのだった。
はじまりは花が落ちたことだった。花びらがとめどなく、ひとひらずつ落ちていく。今までそんなことはなかったのに、と話していた口を閉ざした。視界がピンクに染まっていく。彼の背中から四肢に向かって、すべてが色に侵食されて、あざやかになって。このときにこの異常を、どんなに怒られてもいいから田中を呼んで訴えればよかったのだ。理解されないと諦めることなく。
なのに、見とれてしまって、だめだった。動けなかった、その一瞬がきっと命とりになった。
春のなまぬるい空気の季節のことだった。
視線の先には檻の中で力無く横たわったノヅルがいる。
ノヅルはわたしよりもずっと歳上だと、田中が静かな口調で教えてくれた。人間の歳に換算すれば八十歳、田中は先代から受け継いで二代目のノヅルの飼育員なのだと優しく語りかけてくれた。わたしは震えながらその話を聞いていた。
ずっと震えが止まらなかった。散った花びらのうつくしさが、まだ、まぶたの裏に残っている。ひどいことをしたというのにあのうつくしさが心の中で残り続けていた。
後ろめたさからうつむいて、さきほど見た景色を逃さないようにしているわたしに触れることなく、田中は話し続けた。ノヅルが頭のいい熊だということ、はじめて目があった時のひどく凪いでいた目が忘れられないこと。こんなに話しているのに、田中がつむぐノヅルの話題は尽きることがなかった。
もしかしたら、彼も、とわたしは思う。それでもノヅルの一番はわたしだと思っていたけれど。わたしよりも長く生きたノヅルは、田中を拠り所にしていた時期もあるのかもしれない。それは、悔しいけれど当たり前だとも思った。
「もっと早くに出会いたかった」
そう言えば、田中は困ったように笑った。
ノヅルの展示スペースの前で震えるわたしをいち早く発見したのは田中だった。駆け寄ってきた別の男性が体に触れる前に、田中が間にやんわりと割って入ってくれた。その皺だらけの手が、わたしの肩を叩き、ややためらった後に背中を撫でる。その、欲のない優しさにめまいがして膝をついた。大きくなった人の輪から舌舐めずりと荒い息が聞こえる。こわい、と小さく呟いた言葉を田中は聞き逃さなかった。
こっちへ、と通されたのは職員専用の休憩室だった。落ち着いたらノヅルの様子を見に行こうと提案して、それから彼はわたしの隣に優しさだけを持って座っていた。わたしが、ノヅルのために全部平気になったことが、本当はまったく平気ではなかったこと、を彼は知っていた。積み重ねた時間と景色の分だけ知っていて、あたためた優しさを分けてくれているんだとわたしは思う。
落ち着くまでに長い時間は必要なかった。田中が早めに手を打ってくれたからだと思う。あの場に居続けたらもっと長引いていただろう。立ち上がると、少しだけふらついた。田中が前を歩いて、着ている服の裾を掴むように、と言う。わたしは迷子にならないように、そっと彼の服の裾を掴んだ。
ノヅルは職員たちの手によって展示スペースの裏の個室へと運び込まれていた。既に応急処置を施されたようで、その体には点滴が繋がれている。
唐突に、死、と言う言葉が頭をよぎった。
わたしのあの母親のように、彼もいなくなるのかもしれない。そう思うと、昔はなにも感じなかったのに今はひどく胸が締め付けられた。
「あと何日、生きられますか?」
わたしの問いに田中は顔を歪めた。
「はっきりしたことは分からんなぁ。でも、次の季節まで生きるかどうか」
それでも甘いことは一切言わなかった。子供相手だからとごまかさなかった彼の生真面目さが今はありがたかった。
残りの時間でわたしがノヅルにできること、は、なんだろう。口の中で小さく呟く。ノヅルは規則正しく弱い呼吸をくり返すばかりで目を開けることはない。その体には散ってしまった桜の花びらがこびりついている。花を全て落とした木は仰向けになったノヅルの背に押し潰されてここからはまったく見ることができなかった。わたしだけが見つけた彼の、特別なのに。一番見たいときに見られないなんてひどい皮肉だった。
ノヅルが目を覚ますまで休園日も欠かさず毎日動物園に通った。田中が話を通してくれているのだろう。毎日通ってくるわたしを、不審な目で見ることなく職員はノヅルの檻まで連れていってくれる。
ノヅルの命の、終わりの時間が近づいている。残り時間が少ないからこそ、なおさら彼が目を覚ましたら話したいことがたくさんあった。
今はなによりも一番に、彼に好きだと伝えたかった。うつくしいあなたに一目惚れをしました、あなたを思うと強くなれるんです――ううん、それはとんでもない嘘だ。現にわたしは今でも男が隣に立つだけで恐ろしい。でも一度くらい大きな嘘をついてみたい。そして、あなたを世界一愛していると、汚れてしまったこの体だけれど、口に出してみたい。
もし、それを受け入れてもらえたら。
わたし、死んでもいいな、と思った。
そんなしあわせなことがもし本当に起こったら、死んでしまってもいいな、と思うのだ。きっとここまでの人生はノヅルと会って恋をするために生きてきた。運命だ。彼と出会って言葉を交わしたあの日、間違いなく奇跡だと思ったのだ。だから奇跡に殉じて死んでしまいたい、と熱にうかされたように思っても、それは勘違いじゃなくて、わたしという女が確かにノヅルを愛しているということにほかならない。
最後は彼だけの少女でいられたら、最高じゃないか。
そんなことを考えながら膝を抱えてノヅルの大きな背中を見ていた。
氷山のような背中が呼吸をしている。透けた色を失ってうす汚れてしまった毛並みがひどく悲しい。前まで見えていた立派な木は、とうに失われて小さな枯れ木が彼の背中に巣食っていた。そこにはかつてのうつくしさはなかった、けれど。
「好きだよ」
聞こえてない相手に、思いを打ち明けるのは楽だ。返事を待たなくていいから。
「ノヅル」
自分勝手だとわかっていた。この頬を流れる涙だってただの人間の感傷、私には関係がないと彼なら言うだろう。それでも。
彼が眠り続けて一週間が経っていた。
あなたは、わたしだけの、けもの。
「あなたが、わたしを褒めてくれた、はじめてのひとだったの。なにも持ってなくてあげることは、少ししかできない、わたしだけど。あなたが好きだよ」
そしてこれからも好きだろう。きっとそうだ、絶対、そう。
続く言葉は飲み込んで檻の向こうのノヅルの背中を見つめ続ける。
奇跡よ起これ。そうしたら神様、一生あんたを信じてあげる、と念じながら。
体を揺すぶられて目が覚めた。重いまぶたを懸命に押し上げると視界いっぱいにまっしろなかたまりが飛び込んでくる。よく見ると、ひとつひとつが透き通った青をしていて雪のような色彩だった。ふんわりとあたたかい、それが、わたしの体をやわらかく包み込んでいる。見慣れた色だった。間違いなく、彼の、色だ。
これが夢だと、すぐにわかった。夢じゃなかったらこんな幸せなことない、と思った。
ノヅル――呼びかければかたまりが返事をするように動いた。ノヅルはあたたかかった。視界を覆うぬくもりに自然と頰がゆるんでしまう。
ノヅル、ノヅル、好きだよ――わたしの言葉はどこかおぼつかなかった。意識がはっきりとしなくてふわふわする。
ノヅル、そうだ、わたしを食べてよ、そうしたら死んでも、一緒、一緒にいたいの、置いていかないで、もうやだよ、ひとりはこわいよ――夢の中だから素直に甘えることができた。ノヅル、わたしの光。つたなく、口を突いて出てくる言葉に低い声が答える。
「食べられるものなら、とうの昔に」
やけに甘い、やさしさ、だった。その言葉が気遣いでも、嬉しかった。毛に埋もれてわたしはノヅルにすがりつき、溺れていく。
彼がふと、わたしと目を合わせてこう口にする。
「ニーナ、私はあなたの靴になりたかった」
靴? おかしいことを言うのね、白い靴だっていつかは汚れるけどあなたは白いままじゃない――言葉を受け止めたのは、凪いだ色をした目だった。
深い黒に囚われてしまいそうだった。いや、囚われたかった。一生彼と一緒に、そして最後は、彼にころされたい、そう夢うつつにわたしは頷いて舟をこぐ。白い靴が彼ととけて、入り交じって、足に吸い付く。
両思いねとわたしはかすかに笑ったけれどノヅルは笑わなかった。
わたしの夢の中なのに、わらって、くれなかった。
花が散る。全身が、がくりと前へ飛んで落ちる。
わたしは水面に向かってためらいもなく飛び込んでいた。視線の先には先に飛び込んだノヅルがわたしを見上げている。田中の制止の声がする。穏やかな田中が、声をこんなに荒げたのを聞いたことがない。足が水面を大きく叩いて大きな音と衝撃の後、次の瞬間には耳が液体に侵食されていた。水が一気に体中のすべての穴へ侵入してくる。その冷たさは格別だった。幸せにひたりきった、わたしの目を覚まさせるぐらいには痛い現実だった。目の前には同じく水に浸されたノヅルがいる。水中で冷たさをまとった冷えた毛皮に手を伸ばす。展示スペースにあつらえられたこの水槽は、ノヅルの背丈でも十分に楽しめる深さがある。わたしにとっては、小さな湖のようなものだった。
伸ばした手に、そっと肉球が触れて、握った。流水が頰をくすぐって、それから彼の鼻が、口が探るようにわたしに触れた。頭のてっぺん、額、まぶた、鼻、首、それから唇。ひらいて、と言われた気がして口をぱかりと無防備に開ける。大きな泡が頭上に上っていって、かぶりつくように鋭い歯と、ぶあつい舌が、おりてきた。わたしの体の大きさをよく知っている、力を抑えられたキスに、わたしはたまらなくなって彼の手のひらに爪を立てた。
たべていいって、いったのに!
思えばそれもおかしいことだった。わたしは夢の中で言ったことをそのままやってもらえると思っていた。そしてその怒りは水をつたって伝わって、ノヅルは少し困ったような笑い方をした。
「無理だよ。食べるよりももっとしたいことがある」
殺すよりも君と生きたい、そう彼がおごそかに言って。わたしに光を差し出した。かすかな光を放つ、六枚の花びらを持った花だった。
「私の心をあげる。ニーナ、君と一生を共にさせてほしい」
この身勝手な願いを、もしゆるしてくれるなら、これを飲んで。そう彼が言ってわたしの手のひらにそれを落とした。水と入り混じってやわらかな光を放つものを、わたしはうながされるがままに口の中に押し込む。どろりとした、甘さとなまぐささが広がって、吐き出しそうになったえぐみを懸命に飲み込んだ。
これでノヅルは、わたしのもの。
そしてわたしは、ノヅルのもの。
気持ちを受け入れられて嬉しいはずなのに、ノヅルを飲み込んだわたしは、なぜだか涙が止まらなかった。髪が引かれる、力の抜けたノヅルが下へ落ちていく。最後に引っかかった小指が鋭く裂けて赤い糸を彼へと伸ばした。彼の舌が糸の先を舐めたその瞬間、確かにわたしの心臓の横にあるもう一つ、が胎動をはじめて、それから。
白を選び続けた靴が赤く、染まる。
わたしは、ノヅルとやっと、ひとつになった。
すっかり濡れてしまった服を脱いで、用意してもらった職員用の作業着に袖を通す。余裕のあるサイズが珍しくて思わず笑えば、気味が悪いと言わんばかりに田中が顔をしかめた。ノヅルを飲み込んで、水面に浮かび上がったわたしを拾い上げたのは田中だった。伸ばされた、手を、少し前なら握ることをためらっただろう。でも、今は、ためらいなく掴むことができた。
もうわたしに怖いものはなかった。今の世界が楽しくて仕方がない。
笑う、歌う、唸る、絶え間なくはしゃぐ、自分の声が、凛、とひびく。
今日はわたしとノヅルが結ばれた記念日だ。なのに、腰掛けていたパイプ椅子から軽やかに降り立ったわたしを、泣きそうな顔をして叔父は見つめていた。
「叔父さん、帰ろ。おなかすいた」
「ニーナ、あの」
大丈夫か、落ち込んでいるのか、空元気なんじゃないか、泣いてもいい、肩を貸そうか、うまく続かない彼の言いそうな言葉を笑い声で打ち消した。言葉少ない彼は動物園で起こった惨事を悼んでいるのだろう。悼むにおいは、ひどく鼻をつく。すっぱくて、少しにがい。
目の前の彼は泣きそうだ。
今夜は葬式になるだろう。たくさんの悲しみがあふれて動物園が壊れてしまう。ここが終わってしまったって別にいいとは思うけれど。だってノヅルはもうここにはいないのだ。彼はわたしの中、それだけをわたしは知っている。二人だけの秘密はとても甘かった。誰にもこんなおいしいこと、渡しはしない。
生唾を飲み込んで、わたしは笑う。紐できつくしめたようにできた小指の痣を撫でて、うたうように言う。
「祝ってよ、叔父さん」
まぶたの裏ではノヅルが優しく笑っている。今日は最高の日だ。
祝砲を!
満ちた闇の中、低く甘い声がした。
「祝ってよ」
ねだるわたしの声も、今まで生きてきた中で一等甘い。水が揺れ、夜がちかりとわたし達を祝うように光る。目を凝らすと紺色の空に北極星が輝いていた。光は、わたしの愛用だったスニーカーのように、まっしろだった。
祝祭 井村もづ @immmmmmura
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