かそけし竜を送る歌
南河 十喜子
かそけし竜を送る歌
1
右手が疼くように痛むのは、罪悪感が棘となって深く皮膚に刺さっているからだろう。
いつまで経っても、理性よりも感情が先行しがちな子供っぽさに肩をすくめ、こよりは動力音が煩く唸る艦内に、幼なじみの姿を探し歩いていた。
足音がやけに響くように感じるのは、そこかしこに漂う空虚感のせいだ。撤退作戦と銘打ってはいるものの、事実上の敗走に、誰もが生きる気力を失いつつあった。
翼を持った、異形の生物、怪異。
日本だけではなく、世界中がこの怪異のもたらす一方的な死に怯えている。人と人の間に起こった戦争が可愛く思えてしまうほど、戦況は人類にとって絶望的だった。
九州・四国が、音信を絶って久しく。帝都と共に奮闘していた横濱も、何十年と怪異の進入を拒んでいた結界が突如破られ、こよりの生まれ育った街は壊滅した。
皮肉なことに、長く、熾烈を極めた横濱防衛戦線での戦いは、兵器の性能を増長させるように、怪異をより強い生命体へと変化させていったのだった。
「無事にたどり着けたとして、怪異がまた結界を越えてきたら」
横濱のように、破壊されてしまうのだろうか?
こよりは足を止め、首を振った。悪い思考を追い出すよう、柏手を打つ。
「まずは、旋くんに謝ろう」
目を閉じ、呼吸を整えたこよりは顔を引き締めて再び歩き出した。
波切旋(はきりめぐる)。横濱撤退作戦で戦死した老兵達に押し出されるように昇格し、数日前に中尉の位を与えられた二つ上の幼なじみ。若き、竜騎兵の少年。
右手の痛みは、彼の頬を思いっきり叩いたせいだった。
(顔が、見たい。旋くんの顔を見たいよ!)
意を決して歩き出しても、すぐに、こよりの口からはため息が漏れてしまう。
明日には死ぬかもしれない時代なのに、嫌な別れ方をしてしまった。
多くの人間が、怪異との戦争で死んだ。
両親や家、友人が多く住んでいた横濱の街も、一瞬で灰燼に帰した。この世に存在するもの全ては、強大な暴力を前にしては悲しいまでに儚く、脆い。
軍艦の、小さな窓から差し込む月光。
くっきりとした陰影の中にある大人びた旋の背中を、何故追いかけなかったのだろう。明日また生きて会える保証など、どこにもないと知っていたのに。
晴れない胸中は、良くない事柄を示唆しているようで、いてもたってもいられなくなる。
足取りだけでもつかめないかと艦内を歩き回ってはいるものの、非戦闘員であるこよりが入れる区画は少なく、旋と同じ竜騎兵を見つけることすらできないでいた。
胸騒ぎがするのは、気のせいだろうか? 戦闘空域は抜けた。帝都までの航路を怪異に発見されないように、密かに進むだけのはずだ。なのになぜ、こんなにも心がざわつくのだろうか。
喉のつまる息苦しさに喘ぐこよりを、足下を攫うほどの大きな揺れが襲った。波ではない、もっと、確かな衝撃だ。
『風早こより一等歌師。至急、甲板まで来られたし。至急――』
耳をつんざく、警報音。怪異の襲来とともに打ち鳴らされた不吉な鐘の音が、手すりにしがみつくこよりを激しく呼び立てた。
2
大きく揺れる甲板の上に、西洋の竜を思わせる生物が蹲っている。
人間に比べ、一回りほど大きい体躯には、見るからに硬質な鱗がびっしりとこびりつき、丘のように隆起した背中には、蝙蝠を思わせる巨大な翼が映えていた。
「こっちだ、こより。早く!」
甲板へと続く階段を駆け上がり、いまだに息の整わないこよりを呼ぶのは、旋の弟である由弦(ゆずる)だ。波に揺られる甲板に足下をふらつかせながら、駆け寄ったこよりは、ごつごつとした肌にわず触れる。
「あなた、馨ちゃんね」
皮膚が硬化し、異形の姿へと転身してゆく奇病。
その病を意図的に進行させ、怪異と相まみえる力を得たのが、旋や馨のような、竜騎兵と呼ばれる存在だ。
「待っていて。今、元に戻してあげる」
銃弾をはじくほどに硬化した竜騎兵の皮膚を剥離させ、人の姿に戻す方法はただひとつ。同じ病の未発症者の声帯から放たれる、特殊な振動だけだった。
治まらない胸騒ぎを振り払い、こよりは音を紡ぐ。
美しいソプラノが馨の体を包むと、琥珀色の鱗がはらりはらりと崩れていった。
鱗は海風に散り、露わになった半裸の少女の姿に、こよりは息をのむ。酷い怪我をしていた。
「ねえ、由弦。どうして、竜騎兵が戦っているの? 撤退作戦でしょ?」
苦しげに身じろぐ馨に、こよりは慌てて自分の上着を被せ、由弦を振り返った。
「聞いていないのか?」由弦は、旋によく似た顔をしかめる。
「昨日、作戦開始の前にお前に会いに行ったはずだ。兄貴は、何も言わなかったのか?」
だんだんと声に怒りを滲ませてゆく由弦に、こよりは体から血の気が引いてゆくのを感じていた。漠然としていた不安が形になってゆく気持ちの悪さに、どうしようもない嘔吐感がこみ上げてくる。
「掃討作戦です、風早一等歌師殿。我が竜騎兵団は新種を全滅させるため、横濱の街へと出撃したのです」
叩きつけるような、鋭い声。よろめきながら上体を起こした馨の、きゅっと噛みしめられた唇は、体に負った傷よりもなお痛々しかった。
「決死の、作戦? 旋くんは……横濱にいるの?」
「結界を越えられる新種を、一匹たりとも逃してはならない。帝都に向かわれるあなたの未来を守るため、波切中尉は竜騎兵団を率い、横濱へと戻られました。私には、残れと。自分の代わりに、帝都を守れと言い残して……連れて行って、くれなかった!」
流れる涙を隠すよう俯いた馨に、別れ際に見た旋の姿が重なる。受け入れられないものを無理矢理に飲み下し、ただ、ひたすらに耐えるだけの、辛い顔だ。
「嘘だよ、だって旋くん、私になにも言ってくれなかった」
しびれの抜けない右手で、こよりは口元を覆った。どんなに否定しても、現実は目の前にある。旋は今、横濱の空へ向かって飛んでいるのだ。
(どうして、言ってくれなかったの?)
知っていたなら、喧嘩別れになど絶対にしなかった。後悔はただ膨らむばかりで、いっそこのまま窒息してまえたら。今すぐ、首を締め付けてしまいたくなるほどに、苦しくてたまらなかった。
「由弦、旋くんと話せないかな」
こよりは目尻を強くこすり、立ち上がった。
「通信は禁止されてる、分かっているだろ? 怪異に艦の位置を知られたら、俺達は終わりだ。残っている竜騎兵で、戦える奴は馨だけ。戦闘機は、役に立たない」
今の状況で怪異に襲撃されたら、すべてが水の泡だ。命を賭して、次代の若者に未来を託した兵士達の命も、失われつつある旋の思いも無駄になる。……でも。
「お願い、それでも旋くんと話したい。ほんの、少しだけでいい。お願いよ、由弦」
爪が食い込むほどに右手を握りしめ、こよりは由弦をまっすぐに見つめた。
「これが、最後だというのなら」
3
撤退戦の最中で多くの兵士が死に、艦に残った者は新兵同然の少年達ばかりだ。いつまでも緊張を保ってはいられず、監視の目は薄い。由弦に案内されるまま、たどり着いた脱出艇の冬のような肌寒さに、こよりは震えた。吐き出す息が、僅かに白い。
「私ね、本当は分かってたんだ。旋くんがお別れに来たんだって。そういう顔を、していたの」
隣で膝を着き、周波数を弄る由弦は何も言わない。計器が発する光源に照らされる顔が、少しだけ強ばっているのが分かるくらいだ。こよりはその顔に懺悔するように、続けた。
「旋くんね、私の歌を録音したいって、言ったの」
気付けば、血の気が引くほどに右手を握りしめていた。
「別れる時が来たら、笑顔でって決めていたのに、怖くて、信じたくなくて、私っ! ――私って、馬鹿だよね。もっと、ちゃんとやれるって思っていたのになぁ」
旋との思いでは悲しいものばかりじゃない。終わりが早く訪れると知っていたからこそ、辛くても必死になって笑いあった。なのに今、思い出そうとしても浮かんでくるのは、別れ際に見たひたすらに辛そうな顔ばかりだ。旋もまた、同じ気持ちだったらと思うと、やるせなくなる。
目頭が燃えるように、熱い。止めどもなくあふれ出す涙に、皮膚が溶けてしまいそうだ。
「いいか、こより。長くは持たない、すぐに勘づかれて……俺達は独房に放り込まれる。ヘマするなよ? いいな、絶対だぞ」
赤く明滅するボタンが、鮮やかな青に変わる。
ノイズ。
耳障りな砂嵐が徐々に小さくなり、スピーカーを震わせたのは『こよりか?』と問う、落ち着いた低い声だった。
『通信は禁止されてるっていうのに、困った子だな』
はやく、何か言わなくちゃ。声を必死になって絞りだそうとしても、喉から漏れてくるのは嗚咽ばかりでまともな形にならない。焦りはつのり、舌は痺れ、縺れる。
「困っているのは、こっちだよ兄貴。こよりにちゃんと言ってやらないから、軍規を破るはめになったんだ。……最後まで、かっこつけんなよ。馬鹿野郎」
『……ごめん。こよりを心配させたくなかったんだけど、失敗だったみたいだね』
血管が白く浮いた右手を、由弦の大きな手が包み込んだ。強ばって冷えた体温を戻すよう染みこんでくる暖かさに、こよりはすうっと息をつく。
「ねえ、旋くん。録音機、まだ持ってる?」
『持っているよ』と返す声に、再びノイズが混じる。遠くから聞こえてくる咆吼は怪異のものだろう。すでに、戦闘域に入っているのか?
施錠した扉が、激しく打ち据えられる。由弦は顔を強ばらせ、「早く」とこよりに耳打ちした。与えられた時間は、僅かだ。
こよりは、目を閉じた。溢れ出る悲しみのすべてを、愛しさへ還元してゆく。
愛している。ただ、それだけを伝えたい。今まで歌ってきたように、これからも歌えるように。築いてきた思い出を、辛いものにしないように。
「旋くん、私……歌うよ。旋くんのためだけに、歌う」
喉の奥から飛び出す、ソプラノ。溢れる甘い音が、扉の向こうの騒音を一気に押し出し、艦内ドックには神聖な空気が満ちてゆく。
庭師の子であった、旋。仕事の手伝いにと連れてこられた彼の気を引こうと、こよりははじめて歌を紡いだ。
能力を認められ、竜騎兵を癒やす歌師として、多くの人の前で歌ってきけれど、歌に込めた思いはいつも、ただ一人だけに向けられていた。今も、そうだった。
伸びる声の余韻を、戦闘の轟音がかき消す。旋と共にいる竜騎兵達の喧噪と悲鳴が、ノイズと共にスピーカを揺さぶった。
見えなくとも、激戦を繰り広げているのだと分かる。こよりはたまらずに、マイクにすがりついた。
「旋くん……お願い、お願い……」
死なないで。行かないで欲しい。戻ってきて。一緒に、生きよう。
胸の奥からせり上がっている言葉のすべては、決して口にしてはいけないものだ。弱い言葉は、旋の決心を鈍らせてしまうだろう。
だからといって、何を言うべきなのか。声を殺し、泣くことしかこよりにはできなかった。
『ありがとう、こより。君の歌がある限り、僕はもう――何も怖くはない。君のために戦って、死ねる』
風を切って飛ぶ、翼のはばたき。その力強さは、泣くばかりのこよりを奮い立たせようとでも言うように、力強く唸った。
スピーカーからの、爆発音。一拍遅れ、軍艦が大きく揺らぐ。飛び散る瓦礫の派手な音に、こよりは旋の名を叫んでいた。
「嫌だ! 嫌だよ、旋くん。私、まだなにも伝えていない! 行っちゃやだよ!」
遠目からでもわかるほど、扉がたわんだ。由弦の緊張しきった顔に、そう長く持ちこたえられないだろうことを知る。
『由弦、軍服の内ポケットを見てくれ』
打ち付けられる扉を睨んでいた由弦は、旋に言われるまま、上着をまさぐった。
「なんだよ、これ」と取り出したのは、小さな封筒だった。
こよりは封筒を受け取って、中身を掌にこぼす。
ごろごろと落ちてきたのは、乾燥した球根だった。先が、鋭く尖っている。
『アネモネだよ。風早のお屋敷で咲いていたのを、覚えているかな?』
酷くなるノイズは、まるで嗚咽のようで。旋の声を、悲しく響かせた。
「うん、覚えてる。覚えているよ、旋くん」
透けるように薄く、可憐な花びら。
華やかな色合いなのに、どこか寂しげな雰囲気を持つアネモネの花に囲まれ、こよりは旋への思いを歌声に乗せて響かせた。
戦渦に巻き込まれ、すべて焼かれてしまったと思っていたのだが。 目を閉じれば、青く晴れ渡った横濱の空を旋と一緒に飛んだ時の光景がよみがえる。カモメと併走した、穏やかな休日だった。人生で一番、充たされていたときだろう。
「花言葉は、君を愛する。……だよね?」
「そうだよ」優しく囁かれる声に、こよりは深く息をついた。
『言わないつもりだった。僕は君に、何も残してあげられないから。思いを伝えてしまったら、ずっと、ずっと苦しませるだけだと、そう思ったんだ。でも――駄目だ。駄目だったよ、こより。君に伝えたくて、たまらない!』
冷たく沈んだ空気に、熱いひといきれが混じる。
「通信は禁止されている、何のつもりだ!」
「まったく、空気をよめってんだよ。俺だって、遠慮してやってるってのに!」
すっと、由弦が立ち上がった。
鋭い視線の向こう、破られた扉を踏み越えて、たくさんの靴音が怒声と共に荒々しく進入してくる。殺気立った空気に怯えるこよりの肩に、由弦の手がそっと添えられた。
「大丈夫だ、俺が時間を稼いでやる。最期の最期まで……世話が焼けるよ、ホントに」
旋に向かって悪態を残し、由弦は「ちゃんと、やるんだぞ」とこよりの額を小突いて脱出艇から飛び降りた。
(ありがとう、由弦)
こよりは、ノイズに声が消されてしまわないよう、マイクに唇を押し当てた。
機械の冷たい感触は無機質すぎて、いま、ここに旋がいないのを強く感じさせた。たまらずに、涙がこぼれる。せめて、嗚咽だけは堪えたかった。
泣いているばかりでは、意味が無い。
「歌師は、竜騎兵が結界となった後も、歌で癒やす役目がある。私、旋くんに言ったよね。いつかその時がきたら、私は毎日、旋くんに歌を送るって。私、歌うよ。ずっと、旋くんのために歌う。旋くんが残してくれる未来を思って、歌うからっ」
『こより、聞いて』
スピーカを破りそうなほどの、轟音。目に見えなくても分かる《怪異》の放つ咆吼が、遠く離れたこよりをかみ砕こうと吠えている。
『僕を忘れないでほしい。駄目だと何度思っても、僕は願わずにはいられなかった。ごめんね、こより。僕は君を――』
「旋く――」
『愛してる、こより。僕を、忘れないで』
艦が大きく揺さぶられ、こよりはシートから投げ出された。
ぐるりと回る視界、激しい痛みが全身を襲った。何が起きたのか。必死になってこじ開けた目は、小さな窓を真っ白に埋め尽くすほどの強い光を捕らえた。
「待て、こより!」
気づけば、駆けだしていた。
由弦の声を振り払い、行く手をふさぐ大人達を押しのけ、こよりはひたすらに階段を駆け上る。
「だめだよ、旋くん! 私、まだ、まだたくさん言いたいことがあったんだよ!」
行かないで。あなたがいない世界なんて、なんの意味も無い。階段で何度も躓きながら、こよりは少しでも近くにいたいと、上を目指した。
「いらないんだよ、旋くん! 私だけの世界だなんて、欲しくない。 帰ってきて、どうか、帰ってきて!」
巨大な艦を揺さぶったのは、衝撃波だ。竜騎兵と怪異がぶつかり合った、確かな証拠である。旋の、最後の戦いが始まってしまったのだ。
甲板に飛び出したこよりは、暗雲を裂いて輝く鋭い光にくずおれた。紫色に揺らぐオーロラが、華奢な体に降り注ぐ。
「あなたと一緒に、生きたかった」
幼子のようにしゃくり上げても、抱きしめてくれる手は何処にもない。
横濱の空を埋め尽くす虹色の輝きは、命のくすぶりだ。旋はその身を焦がし、こよりを守ろうと遠い空の下で戦っている。
「愛してる」
握りしめたままの右手を、ゆっくりと広げた。旋から託された、アネモネの球根にそっと口づけ、こよりは囁きかける。
「ずっと、あなただけを愛してる」
頬からこぼれた涙は球根に吸いとられ、消えてゆく。
まるで、旋の指にぬぐわれているようだ。嗚咽は次第に、緩やかな吐息へと変わっていった。
降り注ぐ光の中に、こよりは触れあった旋の手の温かさを思い出していた。
目を閉じれば、思い出の中にある旋は、穏やかな微笑みを返してくれる。今は、それだけでいい。残された世界を生き抜いたご褒美に、彼はきっと迎えにきてくれる。
いずれまた会えると、信じられたら、それでいい。
まばゆい光の中で翻る影に、こよりは葬送の歌を紡ぎ始めた。
世界はきっと、平和になる。
旋や、死んでいった人々の願いは実を結び、いずれはきれいな花を咲かさなければならないのだ。
次の世に、再び巡りあうために。
かそけし竜を送る歌 南河 十喜子 @shidousyouko
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