第3話 喜び

 クリスは、不思議な子だった。

 周りから聞かせられていたほどには夜泣きもせず、しいても、おしめを替えるときに申し訳なさそうに不快な顔をして涙を流す程度。そこには泣き喚くという表現は相応しくなかった。

 また、乳離れも早かった。

 2歳になる頃には、離乳食を好んで食べるようになっていた。まだまだ母乳が主である子も多いというのにだ。


 ---3歳になったころ、それは、顕著に現れ始めた。

 クリスは、オリヴィアから美しく淡い綺麗な青髪を、俺から深い青の碧眼を、それぞれ受け継いでくれた。つまりは、青い子だったのだ。大人しい子で、物わかりが良く、肌は白く透き通るようで、まるで女の子みたいに可愛かった。母親似で結構だ。

 しかし、問題はそこではない。

 つい先日、首が据わって簡単な言葉を発するようになったと思えば、もう一人歩き出来るようになっている。それは素晴らしいことであり、親として、とても喜ぶべきことなのだ。決して問題であるはずがない。


 …問題とは、クリスは、決して外には出ようとしなかったことだ。

 自主的には絶対に出ない。俺やオリヴィアに抱きかかえられ、普段は嫌とあまり言わない子なのにもかかわらず、あの子は拒否し、そして渋々庭までは許してくれる。だがそれ以上は、断固たる拒絶であった。


 その日以来、クリスは書斎に籠もるようになってしまった。

 あそこに置いてある書物は難しく、とても3歳児には理解できない。そもそも興味が湧かないはずだ。俺が、移り変わっていく世界の情勢に対応するため、選りすぐりで集めた知識たちなのだから。まだまだ赤子のあの子には、やはり同年代の子との交流や、良いお天道様の下で元気に遊んでていてほしいのが、正直な親心であろう。

 

 俺は、オリヴィアと相談した。

 これからの教育方針もそうだが、何よりあの子の気持ちがイマイチ分からなくなってしまった。子供とは、一体どう感じ、どう考えているのだろうか。俺だって、先生と出会うまでは本当に愚かだった。クリスに限って、今の様子だけ見てもそんなことはないと思いたい。あの子は俺と違うのだ。


 …けれど、だからこそあの子の心が分からない。

 俺は、不安を抱え、父親として不十分ではないか。その自責の念だけが、ただただ俺にのしかかってくる。そして、耐えきれずオリヴィアに心の内を暴露したというわけだ。情けない。


「---ふふ、何言ってるの、大丈夫よ。あなたは立派に父親だわ」

「だが……俺は、自分の子にすら、満足に心を開けないかもしれない……。あの子を、クリスを、時々不思議に思ってしまうんだ。……こんなのは父親失格じゃないだろうか」


 思わず、苦笑する。

 

「…はぁ、いい? シリル。あなたの不安はみんな持っているの。私だって少なからず不安はあるわ。---だけど、私たちがそんなのでどうするの? だれがあの子を愛するの? だれが立派な子に育て上げるの? 一体、どうすれば正解なの? …私たちは、不安は押し殺せないの。だからこそ、心の底から愛情を持って接してあげるしか、方法はないのよ。子供を愛さない親なんて、親じゃないわ」


 俺は、心を打たれた。

 自分の中の悶々とした暗闇が、晴れた気がする。いつも、世間に対処しようと試行錯誤していた。正解があるはずだと信じ、探し、追い求めようとしていた。

 だが、相手は経済や腹黒い輩、そして自然淘汰ではない。自らの子ではないか。


 子供を愛さない親なんて、親ではない。

 その彼女の言葉が深く俺の中に突き刺さった。まったくのその通りであった。



 俺とオリヴィアは、そのまま会話を続ける。

 これからのこと。おれたちのこと。そして何より大事なあの子のこと。

 話すことはいっぱいだ。いっぱいすぎて、とてもじゃないが時間が足りないぐらいに。だが決して苦痛ではない。むしろ心地よく、期待と希望、それに嬉しさに充ち満ちていた。


 あの子には、剣術や魔法を教えよう。いや、これからの時代だ、実用的な座学を教えよう。いやいや、まずはあの子の気持ち次第だ。クリスが何を望み、何をしたがり、何に興味があるのか。それが第一優先だろう。 


 会話は尽きない。微笑みがこぼれ落ちる。おれたち自身が楽しんでいるのだ。

 感情が、幸福が、人生の中で最高期であるがの如く感じる。

 

 不安はあるさ、だがこればっかりはどうしようもない。けど、それを受け止めよう。

 そうだ、おれたちはそれでも親なのだ。最大限の愛情を注ごう。子をその最後まで見届けよう。子の人生とは親の最高の喜びである、それだけなのだ。

 


「ああ、そういえばあなた。あの子が書斎で何をしているのか知ってる?」

「いや、外に出たくないから閉じこもってしまっているだけじゃないのか? 悪いことをしたと思って、あまり近づかないようにしてたんだが……」

「ええ、私もなのよ。もちろん、心配になってあとから覗きに行くのだけれどね。---でも、見ちゃったのよ」

「……何を、だ?」

「……クリスは、本を読んでいたわ。分厚く、文字が隅々まで書かれた、それはもうあなたが大好きな専門書ね」


 また、衝撃が走る。

 これは……そうだな、かなり驚いた。一瞬で頭が真っ白になって、即座には言葉が理解しきれなかった。 そうか、そうなのか。ああ、いや、これは喜ばしいこと、なのだろう。どうやら、我が家には天才が生まれ落ちた可能性がある、のだ。


「……ただ、単純に眺めていた、という線はどうだろう? 理解はせず、本という存在に興味を抱いたという可能性は?」

「ええ、私も考えたわ。あなたと同じで、私もクリスには、今の時期ぐらいお外で同世代の子と遊んでいて欲しい、というのが本音だもの。---でもね、あの子の顔つきはすごくいぶかしんでいたの。あれはまるで、必死に理解しようとしていた様子だったわ。…それに、極めつけはそのあとね。私にいくつか質問をしてきたの。『お母さん、この言葉って、どんな意味なの?』 ってね。それも、あたかも私に疑問を抱かせないように何気なくよ、信じられるかしら?」


 オリヴィアは笑っていた。それはもう、嬉しそうに。

 俺だって嬉しいさ。自分の子に無限の可能性を感じているのだから。

 

 会話はまだまだ終わらない。今夜は夜更かししそうだった。

 嗚呼、あの子、いまぐっすりと眠っているクリスは、果たしてどんな子に成長してくれるのだろうか。いつの日か、手の届かない場所に行ってしまいそうだ。だが、それでも親として出来ることは全部やろう。

 

 そう、決めた夜だった。





---





 それから一年ほど経ち、書斎で泣いているクリスを見つけたくる日の朝、俺とオリヴィアは様子を見に行った。

 あの子は驚くほど自明で聡明だ。日々、いつもなにかを感じ取って、それのせいで異変が起きてしまったのだろう。ただでさえ、子供というものは非常に敏感で、それでいて些細な事で傷つく繊細さを有している。おれたちが何か過ちを犯してしまっているのかもしれない。


 しかし、おれたちは愛することしかできない。…どうか、それを許してほしい。

 


 だが、クリスは謝った。

 悪いのは心を汲みしてあげられない、おれたちだというのに。


「---なぜ、謝るんだい、クリス……?」


 言葉は、無意識に出た。

 この子の意図を、心を知りたい。その弱々しい声を聞いて、傍に寄り添ってあげたい。その思いが強く湧き上がった。そして、それはオリヴィアも同じだったようだ。



 結局、クリスが落ち着くまでオリヴィアは傍にいてあげることにした。

 俺は哀しくとも仕事に行かねばならない。我が子のことを気にかけたいが、残念ながらこの世界はもうゆとりを持たせてはくれないらしい。こういう大事なことをないがしろにすると、決まって大切なものを失ってしまいそうで怖いというのに。


 俺は渋々、子供部屋をあとにした。





---





 その日の晩、俺はオリヴィアから後の事情を聞いた。

 どうやらクリスは、本当に外が怖かったらしい。その上で、勝手に書斎に入ってしまい、それをいけないことだと知りながら俺の本まで読んでしまっていて、怒られるのが怖かったようだ。

 それなのに、俺やオリヴィアはいつも通り自分に優しくしてくれる。それが後ろめたく、とうとうせき溢れてしまったという。


 なんともいじらしく、可愛らしいことではないだろうか。


 あの子は本当に良い子に育ってくれた。

 俺は、それがただただ嬉しかった。





---





 それから、また数ヶ月が経ったころ。

 俺はクリスに座学を教えていた。クリスは、何にでも興味を持った。気になることはことごとく質問し、理解し、自分の頭の中に入れていた。わずかにしてその学習能力の高さに、俺は良い意味で恐れおののき、末恐ろしく思うと同時に限りない喜びを抱く。


 ---おまけに、クリスにはよく出来たら頭を撫でてやるようにしていた。

 そうすると、あの子は嬉しそうに目を細め、愛嬌たっぷりの人懐っこそうな笑みを俺にくれる。

 それが、堪らなく心に幸福をもたらすのだ。



 オリヴィアが、クリスの美しい青髪の手入れをしている。オリヴィア自身、その髪には誇りを持っているからだ。どうやら代々の証らしい。そのことは出会った初めに聞いていた。

 そして、そのためクリスも同じ髪を持ったことを非常に喜んでいた。別に、俺の金色がいやというわけではないそうなのだが。純粋な誇り心である。それに俺だって、あの子が碧眼を受け継いだという起因を得たわけだ。オリヴィアのように、何か特別誇りを持っているわけではないけれど、それでも子が自分に似ていると嬉しいさ。


 さて、そういうわけで何度も繰り返すが、クリスは女の子のように可愛かった。

 当然だろう。オリヴィアが念入りに髪を手入れし、ややショートボブになるぐらいの長さで切り揃えている。さらには、服だってその可愛さに見合うだけのものを選んでいるのだ。もともと、我が家には男の子の服も、女の子の服もあった。クリスが生まれる前に二人して親バカになり、どっちが生まれても大丈夫なようにしていたのである。

 だから女の子用が勿体なく、試しに着せてみたところ、だ。これがびっくりするほど似合ってしまった。家の外には出ない子なので、まあ一応は問題ないと思うが、もし出てしまったら俺には娘が出来たのだと勘違いされてしまいそうである。周囲にはちゃんと息子だと言ってあるので、なおさらだろう。



「ねえ、お父さん。けいざいはもう分かったよ。いわば、かみの見えざる手が機能している、ってことでしょ? でもね、けっきょくボクが分からないのは、まほうってどういうものなの? ってことなんだ」

「うーん。どういうもの、ね……」

 

 漠然としている。はてさて、一体どこから説明していいものやら。


 しかしまあ、神の見えざる手とは面白い表現を使ってくれるものだ。

 考えれば考えるほど、的を得ていることを確信する。おもしろい、非常に面白い。この子は案外文才に長けているのかもしれない。

 本当に、その才が末恐ろしいよ。



「さて、そうだね。魔法って言うモノは----」


 クリスは、聞き入るような真剣なまなざしで俺を見ている。

 集中しているときの凜とした顔つきが、この子の顔で一番好きだ。

 俺は、嬉々として笑っていた。





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