第2話 優しさ

 俺が新たに生を受けてから、もう4年という月日が経ってしまった。

 この間、俺にはいくつかの心情の変化があった。一つは、もう分かると思うが、一人称を俺に画一した。元来喋り口調ではオレであったのだから、これは特に問題が無い。むしろ、私という一人称だったとしても、死の淵においては冷静さを保つには無理があったらしい。その発見があったからこそ、もうどうでもよくなったのである。無意味だ。


 しかし、俺はいつから、私なんていう自称を用いるようになったのだろうか。

 そう、これが二つ目である。俺自身の記憶が著しく低下している。もっとも、学術的知識の記憶には、これといって欠損は見られない。思い出せなくなっているのは、決まって何気ない日常の記憶だった。もともと朧気おぼろげだった“家族”という記憶に、さらに拍車が掛かっている気がする。

 …だが、たまに突拍子も無く、こぼれ落ちていたはずの記憶が手元に戻ってくることもあるのだ。

 謎は謎のままであるが、本来、乳児の小さな脳に前世の記憶が丸々収まっていること自体、いやそれ以前に、そもそも前世の記憶を持っていること自体、かなりの異質さであることを考慮すると、もはや魂論を認め、それに原因を擦り付けるほか無かった。


 そして、最後の三つ目の問題。

 これは、極めてデリケートであった---


「あら、おはようクリスっ。今日は良い天気よ、こんな日は外に出るのはどうかしら?」

「…お、おはよう、お母さん。でも、ぼ、ボクは、今日は本が、読みたい、なぁ…」

「…うん、分かったわ。そうね、それもいいわね。もう読書が好きなんて、お母さん、感心しちゃうわ。---クリスはとってもいい子ね…」


 ---俺の母、となっている、淡く美しい青髪でエメラルドグリーンの瞳を持つ少女、オリヴィアは微笑み、俺の頭を撫でる。その柔らかく、優しい手は、同じく淡い青の俺の髪を愛情深く擦ってくれる。

 そして、すれ違い様の廊下ではあるが、それはいつの間にか、片手から両手へと。さらには、小さな俺を優しく抱きしめてゆく。


 …この愛情が、俺には堪らなく怖く、避けがたく、何よりも背徳的というべき心の動揺を誘っていた。


 オリヴィアは、年齢的にはまだ二十歳ほどのはずだ。

 しかし、その小柄さと顔の幼さから、少女といっても全く遜色はない。むしろ、子供を一人持っているなんて考えられないぐらいに。

 彼女は優しかった。何よりも、子であるクリストファー、すなわち俺を愛してくれている。

 心は慈愛に満ちており、彼女の気質という性格は、常に聖母そのものであるようだった。…特に、母親という存在をあまり知らない俺には、そのように感じてならなかった。


「---大丈夫よ。何も怖くないの。ね、安心して、私の可愛いクリス…」

「---」



 震えが、止まらなかった。

 今すぐ逃げ出したい衝動に駆られる。心臓が、肺が、酸素を求めて激しく動き出す。全身の細胞の感覚が、確かな感触となって俺に命じているようだ。


 彼女の、優しい気持ちが何よりも辛い。

 彼女の、慈愛の心に満ちあふれた愛情が俺を脅かす。

 彼女の、何も知らない無知の心を、俺が犯しているようだった。

 


 “俺は、ここにいるべきではない” と。






 俺は、気が付くと書斎にいた。

 彼女の優しさを踏みにじり、逃げ出した。

 俺は、自分を、どうしようもなく責め上げた。どうして彼女の心を汲んでやれない。どうしてだ、どうして生を肯定しない。いい加減、諦めて受け入れたらどうだ。俺はクリストファーなのだ、と。

 それを受け入れたらどんなに楽だろうか。受け入れきれないにせよ、その役を演じるだけでもいい。それだけで彼女は救われるのだ。自分の最大限の愛情を注いでいる息子に避けられる、その彼女の心が安らぐなら、それでいいじゃないか。何がいけないのだ。


「っう、うぅ…………お、おれは…一体---何者なんだ」


 限りなく、小さな声ですすり泣く。

 前世で生きたプライドなんてものは存在しなかった。泣き出さずにはいられなかった。それだけこの4年間という年月は、俺をズタボロにするには十分すぎた。 



 大陸合理論を形作った哲学者、デカルトは言った。

『我思う、故に我有り』、と。


 この考えには、デカルトが方法的懐疑という手法をとったことが大きく影響している。

 方法的懐疑とは、自分の肉体やその他周りの環境、さらには普遍的真理さえも、全てを疑い続け、その末には、今思考をしている自分の脳みそだけが唯一信用できる。だからこそ、自己とは思考をしている己が自分の存在の証明なのだ、という証明手法である。

 

 この考えは、広く、現代世界においても認められている。

 それ故に、物心二元論という自分の本質は体と心のどちらにあるでしょうか、という疑問に対しても、彼は心を選んでいるというわけだ。

 

 ---しかし、困ったことに、これは今の俺の現状では通用しない。

 俺は確かに今、紛れもなく此処にいて、このように思考している。…だが、いつから俺は俺であると言えようか。


 まず、その一だ。

 俺は前世の記憶を持っている。少なくとも、そのように俺は認識している。

 けれど極端な話、“俺の記憶を持った、全くの別人が俺である”という認識もまた否定できないのだ。


 …世界五秒前仮説、という面白くも興味深い、それでいて恐ろしい説を聞いたことがあるだろうか。

 世界の住人全ては、全て人工物であり、それらにあたかも、ずっと前から存在していたかような記憶をインプットする。すると、そのインプットが完了してから時が進み、それがたった五秒しか経っていないのが、この世界なのである、という論理だ。


 これと、まさしく同じことが俺にも起きているかもしれない。それは五秒ではないだろう。しかし、この4年間がそのようであったことは十分に有り得る。クリストファーはクリストファーであるが、俺によって浸食されてしまったのだ。そんな俺に、オリヴィアからの純粋な愛情を受け取る資格が、果たしてあるのだろうか。

 まだ、そうならいい。もとはクリストファーなのであるなら、その資格は俺の納得次第でどうにでも認められるだろう。

 しかし、そうでなかった場合。俺が、俺の存在によって、クリストファーを完全に殺していたならば。俺にははなから資格なんぞ存在しないのである。


 

 …そして、その2、だ。

 存在云々はひとまず置いておく。ここでは記憶だ。

 つまり、前世の記憶を持つような奇妙な子供を、何も知らずに愛するオリヴィアとシリルが気の毒で仕方がないのである。

 彼らは、ごく普通の、幸せで理想的な親だ。子供には愛情深く接し、夫婦の仲も円満。経済的にも、社会的身分的にも、かなりの余裕がある。“ブルジョア”であるのだ。


 本来、こんな恵まれた環境での生を享受するはずだったクリストファー。彼の権利を、そして彼らの権利を、俺は---奪えなかった。 

 

 


 ゆっくりと、書斎の扉が開いた。

 年季の入った重厚な樹木の扉であるのに相応しい、ギギギとの擬音を立てて扉が開いたのだ。


「---おはよう、ちょっとだけお邪魔しても良いかな?」 

「---」


 明るく、淡い金色の髪色が、廊下の光を逆光に俺の視界に入る。だが、その視界はあふれ出る水滴でにじみ、近づくその男の表情はちっとも読み取れなかった。


「…何があったのかは聞かないよ。でも、お母さんはすっごく悲しんでいる。それは……いけないことだろう---?」 

「---」

「…クリスは、書斎ここが好きだね。実はね、お父さんも好きなんだ。静かで、暗くて、夏が近づくとじめじめする。だけど、それがまた、堪らなく魅力的なんだ。いつか、その魅力がクリスにも分かってくれたら嬉しいな」

「---」


 まばたきをした。

 瞳に溜めた大量の水滴が、頬を滴る。すると彼の、父親のシリルの碧眼が、まっすぐ俺の目を捉えていた。しかし、それは決して高圧的なものではなく、優しげな、微笑みかけるものであった。


 シリルは、俺と目が合ったことに多少なりとも安堵したのだろうか。

 オリヴィアほどの柔らかさではないが、その優しさに満ちた手で、俺の頭を撫でる。それは温かく、なにより安心感を抱かせる手であった。


「さあ、お母さんが待ってるよ。朝ご飯を食べよう」

「……うん」


 シリルは、俺を抱きかかえた。

 人に身を委ねるのは心地が良い。心は悶々とし続けるが、体は正直だ。当然ながら、体は四歳児である。その身は、父親や母親に抱えられるのが一番相応しいのだから。





---





 翌日、子供部屋のベッドの上で、いつも通り目を覚ました。

 昨日のことはあまり覚えていない。これが転生のせいなのか、幼児の発達過程のせいなのか、はたまた、精神不安のせいなのだろうか。いずれもはっきりしない。


 ---しかし、一つ、ひとつだけだが、自分の中で答えが出たのかもしれない。

 過程や形はどうであれ、俺はいま生きている。俺の存在の確定は出来なくても、俺は存在し続けるからだ。そして、この存在を求める人達がいる。俺を必要としてくれる人達がいるのだ。ならば、これ以上彼らを侮辱し続けるのは良くない。それをしてしまうと、誰も得すらしない。むしろ、破滅に陥ってしまうだろう。

 

 …俺は、“前世”では愛を受けられなかった。

 愛とは無償の愛、アガペーだ。神や、親からもらえる、何の見返りも要求されない無償の愛。ただ、存在するだけで祝福され、生きるだけで褒められ、生を肯定される素晴らしき愛。


 “俺は、それが欲しかったのだ”


 

 いつも、どこか心に隙間を感じていた。

 それはもしかしたら、母親がいたときからそうだったのかもしれない。

 俺は、母に、見て欲しかった。俺を感じて欲しかった。俺を愛して、欲しかった。

 …母は、母なりに俺を愛したのだろう。

 だけど、それは、足りなかったようだった。俺は、強欲だった。


 けれどだ、それは悪いことなのだろうか。

 

 子供が母親に過度に甘えるのは、そんなにダメだろうか。俺の心はいつまでも温かく、埋まることはないのだろうか。幼き子供心に、抑圧を強いるのは良くないだろう。その結果が、俺のようなヤツを生むとしたら、やはり、それは、間違ってる。



 俺は、決めた。

 俺は愛が欲しい。そこに正当性がなくても、俺は自分の心を埋めたい。

 申し訳なくは思う。権利を奪ってしまうのだから。

 でも…でもなんだ……



 “前世”では、それが叶わなくなってしまった。

 母親は記憶の彼方へ枯れゆき、いつの間にか、心はすっかり冷めてしまった。穴を開け、一生埋まることはない大穴を開けたまま。


 …当時は、親父も、碌でもなかった。

 酒に溺れ、時としては、今まで絶対になかったはずなのに、俺に当たることもあった。

 DVというべき程ではないが、とにかくあまり気味の良いものではなかった。関係も最後の時よりずっとギクシャクしていて、内心は怯えていた。接し方が分からなかった。何をしていいか分からなかった。


 


 ---もし、神様がいて、俺をこの世界に呼んでくれたのならば、それは愛を与えてくれたとみなして良いのだろうか。

 優しい家族の下で、家族として生きることを許されたのだろうか。

 俺の心の隙間が埋まるのであれば、俺はクリスになれるのだろうか---









 子供部屋の扉が開く。

 書斎とは異なり、音は限りなく無く、静かに、開いた。


 俺は思わず、目を閉じ、寝たふりをした。



「---」

「---」


 オリヴィアと、シリルが、なにかを話しているようだ。

 残念ながら聞き取れない。とうとう俺への不信感が極まったのだろうか。俺は、捨てられるのだろうか。さすがに、心優しき彼らにしても、俺の一連の行動は不可解で気味が悪くなったのかもしれない。俺の存在は彼らにとって迷惑だったのだ。今更もう遅いかもしれない。そうだ、とっくにやり直せる期間は過ぎてしまったのかもしれない。迷惑と言うよりも、邪魔者、もっと言えば忌み子だったのかもしれない。だから今日という今日は、俺を、いっそひと思いに、それともやっぱり捨てに…俺は、じゃあ俺は、でも、そんな、だからって、でも、いやだ、だけど、だって、そんな---









「---愛してるわクリス」

「ああ、愛しているよ、クリス」


 心が、ようやく満たされるような気がした。 

 二人の手が、大事なだいじな脆い割れ物に触れるように、俺の額を擦る。


 永年、もう諦めていた。

 決して、良くなることはなく、ぽかんとした虚無感が人生の終わりまで続くのかと思っていた。

 

 それがいま、明確に満たされた気がする---




「…うっ、うぅ…っ、ぐずっ、…………ごめんなさい、お父さん……お母さん」


 不可抗力だった。溢れる涙が止まらない。

 場が、あっけにとられた。



「---なぜ、謝るんだい、クリス……?」

「だ、だって…、ぼ、ボクは、……お父さんとお母さんに、その、……ひどいこと、いっぱいしたし---」

「ひどいことなんて、何一つないのよ。あなたは、大事な、だいじな、可愛いかわいい私たちの子なの。嫌なことの一つや二つぐらい、ぜったいにあるのよ。むしろ、ちゃんとお母さんとお父さんに言ってね。お父さんのここがヤダっ、とかね」

「ふふ、そうだね。クリスは賢いから、多分、お父さんとお母さんの失敗なんかすぐ見抜いちゃうと思うんだ。だから、そのときはちゃんと言ってくれよ。じゃないと、きみの教育を間違えちゃいそうだ」


 大丈夫だ。

 二人は優しい。優しすぎる。こんなの、俺が感謝しきれなくなりそうだよ---



 俺は、最後に改めて決意を固めた。

 この世界で生き、この二人だけは絶対に、何としてでも大事にしよう、と。

 




 俺の理性が、信念が、そう決意付けたのだった。



 

 




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