終章

終章

その後、ブッチャーは有希を病院に連れ戻して、自分は自宅に戻っていった。それでは、と、家に戻って来ると、母がすぐに駆け寄ってきた。

「お帰り聰、どうだった?」

ブッチャーに母が聞いた。この時だけは、姉が主役になってくれてもいいなとブッチャーは思った。

「うん、だいぶよさそうだった。俺が、製鉄所に連れて行って、水穂さんたちに会わせたら、すごくにこやかに話していたよ。」

ブッチャーは、とりあえず事実を述べる。

「そう、退院後の事とかそういうことを?」

多分内心、かえってきてほしいのと、そうでないのとが、半分半分なんだろうなとブッチャーは母の心情を予測した。

「おう、話したよ。たぶん、うちには帰ってこないんじゃないかな。姉ちゃん、うちを出て、一人で暮らすってさ。俺は、そのほうがいいと思う。そのほうが姉ちゃんも、安心するんじゃないかな。」

と、ブッチャーが付け加えると、母の顔がさっと曇る。

「ちょっと、有希を一人で暮らされるって、どういうことなの!もし、あの子が暴れだして、ご近所に迷惑でもかけたらどうするのよ!」

「大丈夫だよ。母ちゃん。もともと、このうちが原因で暴れているようなもんだから、そこから出してやれば、少しは落ち着くんじゃないのかって、ジョチさんも言ってた。」

「待ちなさい。この家が原因ってどういうことよ。あたしたちは、あの子の言う通りに、何でもしてきたのよ!生け花習いたいって言った時も、あたしたちが足を棒にして働いて、一生懸命月謝を払ってきたのに、それを全部無駄にして、家を出ていくなんて!それは、どういうことなのよ!あたしたちが、してきたことは全部無駄になったということなの!」

「だから無駄じゃないよ。そういう結論が出たんだから。よかったとして喜ぶべきじゃないのかい?ジョチさんは少なくともそういってたよ。」

「そのジョチさんというのは誰の事なのよ。そして、有希は、どこに連れていかれるの?」

「だからあ、俺が日頃から尊敬している曾我正輝さん。杉ちゃんが勝手にそんなあだ名を付けちゃったんだ。俺、何回か母ちゃんにすごい人だって、話した覚えがあるんだがなあ。母ちゃん聞いていなかったのかい?」

そんな言い分は、しないでくれとブッチャーは思いながら、母に説明したが、母は、明らかにしらないという顔をしている。それでは、日ごろから聞いてなかったのか。本当にいつも姉の事を着にかけているというが、本当は自分を守るために精一杯なだけではないだろうか?

「ちゃんと話をしなさい。有希は、どこで働くの?どこに暮らすの?」

「だからあ、ジョチさんの買収した会社で、働かせてもらうことにさせてもらったんだ。ジョチさんの会社では、障害を持っていても、しっかり働けば、基本給はくれるから、一人で暮らしていけるだけの賃金は得られるってさ。まだ仕事というものになれないなら、廊下の掃除とか、そういうところから始めてね。基本的に、全員が正社員となるので、基本給は何処の仕事であっても変わらないだって。」

「そんなこと、絶対にあり得るわけないでしょう!そういう世界なんて日本にあるわけないでしょうが!そういうやり方は、中国とか、旧ソ連でも行かないとないわよ!」

母は、いきり立って怒り始めた。

「そうだけど、障害のある人が、生きていくためにはこういうやり方をしないと、ダメなんだって!」

ブッチャーも母に対抗して怒った。

「何を言っているの!アンタの言ったことは、マルクス主義でしょ。それを行うとなると、国家が自由もなくて、発展もなくて、ただの貧しい、やる気のない国家になって、一人の権力者だけが、贅沢な暮らしをするような、そういう国家になっちゃうの!そんなのを、日本に根付かせる訳にはいかないでしょうが!」

「そんなマルクス主義とかそういうことはどうでもいいよ。そんなのはどうでもいいから、とにかく姉ちゃんを働かしてくれるっていうんだから、いいじゃないか。そうすれば、姉ちゃんもようやく安定を取り戻すよ。それでいいじゃないか。俺たちは、すでに姉ちゃんと、一人前にすることには失敗したんだから、もしかしたらほかの人にゆだねてもいいんじゃない?それでは、俺たち、いつまでたっても、埒が明かないよ?」

ブッチャーは、母に対してそう言い返したのであるが、

「いいえ、有希は娘なのだから、あたしたちで、しっかりやります。そんな他人様に預けて、なんとかしてもらおうなんて、しかも、マルクス主義に傾いている男に、有希の人生をゆだねるなんて、そんなことできません!有希は、あたしたちでやるから、もうアンタは口を出さないで頂戴!」

と、母は言った。

「なんでだよ。せっかく俺たちのことを助けてくれる人が現れてくれたじゃないか。それでは、まるで助けを求めているのに、いらないと怒鳴って余計に強がっているだけだよ。そんなに向きになっていう必要はないよ。素直に助けてと言えばいいじゃないか!」

「そうだけど、マルクス主義者に有希を預けるなんてできません!もし預けるんだったら、そういうおかしな思想を掲げる人物ではなくて、ちゃんと経歴も肩書もあって、それなりの信頼もみんなから得ている。そういう人にお願いするんです!アンタも人選びはちゃんとしなさい。すぐにそういう人を信用してはだめ。その人が何をしようとしているかを見極めてからにしないと。」

そこが、援助者を見つけるために、非常に大きな障壁になる部分だった。そういうところは、やっぱり経歴のある人とか、肩書のある人を選んでしまいやすい。でも、そうでない援助者の方が、かえって、本当の問題点を、わかってくれる可能性は十分にある。なのに、周りの大人というのは、そういう人は肩書がないと言って信用せず、子どもから引き離してしまう。もしかしたら、それのせいで、子どもの心の傷はより深くなってしまうかもしれないのに。

「結局これかあ。テレビに出ているとか、本を出しているとか、そういうことをしている人が一番すごいことだって、なんでそう思っちゃうのかなあ。そうじゃなくて、本人をどれだけ思っているかが、一番のカギなんじゃないのかと思うんだが、、、。」

どうしても、子どもが問題を起こすと、病院とか、警察とか、もっと余裕のある人は、大学教授とか、弁護士さんとか、そういう人に、お願いをしてしまうらしい。でも、そういう人は、貧しい人たちの気持なんかわかるはずがないから、できもしないことを要求されて余計に泥沼となってしまうことが多いのに。本当の援助者はどこで見つけたらいいのだろう?ブッチャーは、がっかりして、頭を垂れ、部屋に戻っていった。


その翌日の未明。まだ、外は暗くて、空は真っ黒になっている時間だった。

みんなまだ眠っているころ、ブッチャーの家の固定電話が鳴った。

ご不浄に起きたブッチャーが、急いで居間に行き、固定電話を取る。

「はい、もしもし須藤ですが?」

ブッチャーは、でかい声で電話に向かってそういうと、

「須藤さんですか?落ち着いて聞いていただけないでしょうか。」

と聞こえてきたので、ハッとする。

「な、な、なんですか?」

思わずブッチャーは、言葉を詰まらせた。

「ええ、落ち着いていただけないでしょうか。お姉さんが、昨夜自殺を図りました。すぐにこちらに来ていただけないでしょうか。」

「何ですって!」

ブッチャーは、でかい声で言った。それを聞きつけた父と母が、目を覚まして一階に降りてきた。

「あの、姉はどうしてそんなこと!」

「ええ、ほかの患者さんに嫌味を言われたらしいんです。上機嫌で帰ってきたら、ほかの患者さんから、いいところが見つかってよかったなと言われて、それが頭に残ってしまったらしくて。まあ、こちらに来ている人は、みんな傷ついていますからね。自分より人のほうが良くなると、面白くない人が多いもんですから、どうしても嫉妬の戦いというところがあるんですよね。」

まあたしかにそうである。みんな、多かれ少なかれ、社会から見捨てられたり、家族から捨てられたりしている患者さんたちだ。だから、ちょっとでも誰かがよくなれば、足を引っ張るのはある意味仕方ないだろう。そうならないようにさせるのは、ある意味お医者さんの手腕と言える。

「もしもし、須藤さん、聞こえていますか?あの、お姉さんのところへ来ていただけないでしょうか?弟さんですよね、、、?」

電話の声は、そう言っている。

「わかりました!俺すぐ行きます!」

ブッチャーは、すぐにそういって、電話を切り、出かける支度を始めた。

父と母はこの時連れて行かないほうがいいなと思った。なので、ブッチャーは父母には、ちょっと出かけてくるとだけ言っておいた。父母は、なんだかまだ眠たくて、何があったかはしっかり把握してくれなかった。そのほうが、好都合であると思った。病院で母が取り乱しても困るから、と思ったからである。

急いで家を飛び出すと深夜料金でいいので、タクシーをお願いしたいと、ブッチャーは電話した。タクシーはすぐに来てくれた。とにかくそれに乗り込むと、絹村病院へお願いした。運転手は、大変だなあと言ってブッチャーを労ってくれた。あの絹村さんは、本当に社会から捨てられた人が入院させられているところだから、お医者さんもご家族もいい顔しないよと、運転手は言った。そこへ行くと、いい看護は受けられるが、それは、もう社会かえってくるなという、印なんだって、患者は言っている。そして、家族は病院に頼りっぱなしで、あり、お医者さんは、家族に来てもらうために悪戦苦闘している。と、にこやかに話していた。でも、あの病院は、何とかして病気の人を理解してもらえるように、一生懸命活動している、そのうち、もうちょっとオープンになれる日が、また来るんじゃないかあなあ。と、言いながら、運転手はしっかりとブッチャーを絹村病院まで連れて行ってくれた。

ブッチャーは、タクシーにお金を払うと、領収書だけもらっておいた。帰りも電話すると言って、タクシーにはとりあえず、かえってもらった。ブッチャーは急いで絹村病院の夜間入り口に直行する。

「あの、須藤ですが、あの、須藤有希の弟の須藤聰です!」

夜間入り口の受付係は、もう来るということをわかってくれていたらしい。

「はい。こちらです。こちらにいらしてください。」

ブッチャーは、急いで受付係の後をついていった。姉の須藤有希は、集中治療室にいるという。

「はい、こちらにおります。」

と、受付係はブッチャーを、集中治療室の中に入れた。有希は全身チューブだらけで寝かされている。ある意味身体拘束より怖い気がした。

「姉ちゃん!」

ブッチャーはあきれと怒りの声で姉に呼びかけた。隣にいた医師が、そんなにでかい声で騒がないでくれと、ブッチャーに言った。

「大きな声で言いたいのはわかりますが、今は静かにしてやって下さい。お姉さんはしばらく、安静が必要です。」

「一体なんで、、、。」

「ええ、お電話でお話した通りです。なんでも、洗濯ものように置かれていたビニール袋で窒息しようと試みていたようで。」

何たる意外なやり方だが、障碍のある人というのは不思議な能力というものがあるらしくて、なんでも自殺の道具にしてしまうのだ。

「姉ちゃん!昨日ジョチさんのところに行って、ジョチさんのところに行って働かせてもらうって、あんなににこにこして言っていたじゃないか!それなのになんでそれを自分で帳消しにするような真似をするんだよ!それがあるんだから、周りのやつらに流されないで、もう堂々と生きていけばいいんだよ!」

ブッチャーがでかい声でそういうと、有希はやっと目を覚ましてくれたようで、まだ酸素吸入器をつけたまま、

「そうだったね、、、。」

と細い声で言った。

「だろ!もうそこで働いちゃえば、悪い奴だとか思う必要もないから!もう高校時代なんていう必要は無いと、いい加減に思い直せ!それが姉ちゃんにとって生まれなおすことでもあるんだよ!そういうことをやってはいけないと、思えない身分じゃないんだからよ!」

「そうだったね、、、。」

ブッチャーの問いかけに、有希はもう一回同じセリフを言う。

「あの、きれいな人が、僕みたいに身分が低いわけではない。だから堂々としてもいいって、言ってたもんね、、、。」

水穂さんを悪い手本にしてしまうのは不届き者だが、今回ブッチャーは、それで納得してもらうしかなかった。

とりあえず、医者は、有希が意識を取り戻してくれたことを確認した。それは医学的にはよかったのかもしれないが、こうなってしまえば、ジョチのところで働かせてもらうのは、より難しくなると思う。なぜか。父と母は、それを有希が自らしたことではなく、赤旗の男に追い詰められたと考えるからだ。

でも、これ以上、俺たちを助けてくれるのは、ジョチさんだけである。

だから、何とかして、彼のもとへ姉を連れて行かないといけない。それをするには姉一人だけでは、とてもできないだろう。弟の俺も、一緒に戦っていかなきゃいけないな。とブッチャーは思った。

「俺たちも、頑張らないとな。」

しかし、有希はなんといっても生命力があるなと思った。これだけ何度も自殺を図っても、助かるんだからな。

とにかくまだ生きている。死に損ないとは言うが、逆を言えば、生き延びてくれたわけだから、それは、もしかしたら、何かにつながってくれるかもしれない。

ブッチャーは大きなため息をついた。


一方そのころ、製鉄所では。

真っ暗になった中庭に、鹿威しのカーンという音にに交じって、咳き込む音が長時間鳴り続けたが、次第にそれも静かになった。

「本当に申し訳ありません。こんな時に、来てもらって。」

「いや、結構ですよ。」

ジョチが頭を下げると、沖田先生は静かに言った。

「しかしですね。あなた、私が言ったこと、ほとんど守らなかったのではありませんかな?」

「あ、はい、、、。」

と、沖田先生に言われて、ジョチはそう認めるしかなかった。

「それは、仕方ないと言いますか、、、どうしても彼を心配して訪ねてくる人は大勢いるようなので、、、。」

「言い訳はできませんよ。曾我さん。」

「あ、はい。」

と、ジョチはそこだけはきっぱりと言った。

「しかし、僕としても、あの痰取り機、いわゆる喀痰吸引機というのでしょうか、あれは、本当に使用するにはなんともむごすぎるというか、ひどすぎますね。」

「いえいえ、その気持ちは、かえって病状を悪化させることを忘れないでください。使わないと、喀痰が詰まって大変なことになります。」

沖田先生はそういうが、医者は本当に酷いことを言うなと、改めてジョチも思ってしまうのである。

「勝負はこれからですよ。残っている時間は短いのかもしれないですけど、その代わり、重い時間は残ってしまうということになります。それは、当たり前のことですが、非常に苦労していくかもしれない。でも、途中で疲れたと言って放置してしまうのは、いけないことになりますからね。素人の方にとっては、非常につらいことになりますよ。」

「ええ、そうでしょう。それは僕も知っています。そうならないために病院というのがあるのだと思いますが、それが、患者さんにとって、負担になるのなら、やめた方がいい。もうわずかしか時間のない以上、彼を、ここに居させてやった方がきっといいのではないかとおもうのです。」

「そうですねえ。」

沖田先生は、意味の深い話を始めた。

「本人は、もう望みは叶わないと思っていると思いますが、どうか一度だけでいいですから、彼のことを、部落民だと思わないで、心から愛してくれる女性というのはいてもらえないでしょうかな。せめて、そこだけは体験させてやれたらと思うのですが。無理ですかな。」

「ええ、そのことを試みようと、これまでに何人か女性が訪ねてきていますが、いずれも失敗に終わっているようです。」

「そうですか、、、。」

沖田先生は、ため息をついた。

「それでは結局、彼には無理だとお考えですかな?まあ、時間が限られていますので、それは、無理ですかな。私もね、医者として、こういう、もう間もなく終末を迎える患者さんを目の当たりにしますと、なにか望みをかなえてやりたいなと思ってしまうんですよね。」

「そうですね。」

ジョチがそうため息をつくと、また後ろから咳き込む音がする。それは紛れなく水穂のものであった。沖田先生は、すぐに後を振り向いて、そっと水穂の体をなでたり触ったりし始めた。

「本当に今日はよくやるんですね。」

「ええ、しかし、本当に急激に悪化してしまいましたな。彼にとって、あの何とかスキーという人の作品は、彼を彩るものではなくて、寧ろ苦しめているのではないでしょうか。」

沖田先生は、本箱にはいった、ゴドフスキーの楽譜をじっと見つめた。

「きっと彼にとって、音楽は、ある意味化学兵器見たいなものかもしれない。それは強力な毒力を持つが、その毒が強すぎたために、体だって、病気にさせてしまったんだ。そして、そういうところを誰にも打ち明けることもなく、一人で戦っていくしかできなかったのでしょう。そういうところをねぎらってやるというか、慰めてくれるような人物は、現れてもらえないものでしょうかね。そういうことは、やっぱり女性でなければできませんよ。誰か一人だけいてくれたらいいのですけれども、、、。」

「そうですね。その女性を見つけるというのは、もう難しいと思うのですけどね、、、。これまでも、いろんな女性が接触し続けていますけれども、断り続けていますから。」

ジョチが、がっかりしてそういうと、

「そうですか。なんだか、小野小町見たいですな。」

沖田先生は、にこりと笑って、患者に聴診器をあて始めた。

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本篇20、In my life 増田朋美 @masubuchi4996

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