第九章

第九章

それでも、有希は水穂に話しかけることをやめなかった。

「人生、たいへんだったわね。きっと、事情があって、足を棒にして働いて、家族を何とかするために、働きすぎるほど働いて、倒れちゃったんでしょう。それとも、学校とか、職場とかそういうところになじめなかったの?それで、自分が壊れてしまったの?でも、経済力がなくて、しっかり病院に行くとかそういうことができなかったのは確かね。普通の生活であれば、今の時代、すぐに治ってしまうものね。」

「おい、よしてくれ。姉ちゃん。まあ確かに、階級的には貧しいが、少なくとも、それについて自分を卑下することなく、堂々と生きてきたんだぞ。この人は。そんなこと話しかけても、可哀そうなだけだよ。」

ブッチャーは、自分の口がもう少し上手かったらなあ、そうすれば、上手いことしゃべって姉ちゃんを黙らせることができるのになと思いながら、姉を止めようとしたが、有希は全く聞く耳を持たなかった。

「ねえ、あたしにも、なにか話して。あたしだって、おんなじ失敗を犯したのよ。うちの中がこんなに貧しいことを知らないで、お金持ちの人しかできない技能にはまって、家をめちゃくちゃにしてしまったの。あたしは、そのせいで、本当に苦しんできたわ。ほかに、心のよりどころも何もなかったから。周りの人には、何を親殺ししているんだって、毎日毎日怒鳴られてきたわ。具体的にしゃべっているわけではなくてもね、あたしにはわかるの。父や母、それに周りの人たちも、そういっている。今は親御さんが守ってくれるけど、将来は一人で生きていかなきゃならないでしょ、そんな態度で生活してどうするの?早く死んでしまいなさいって、口をそろえて言うわ。だから、あたしはダメな人間なの。生きていてはいけないの。何回自殺を試みたけど、皆邪魔して、できなくするのよ。完遂した方がよほど楽になれるってみんなわかっていないのよ。あなたも、そうだったんでしょ?」

「これこそ、精神分裂病に特有のものですな。周りの人の態度で、本当に口に出して言っているように見えてしまうというか。」

ジョチが、ブッチャーにそっという。ブッチャーは、何回も死ねと口にしている奴は何処にもいないと、姉に説明していたのだが、周りの雰囲気でそういっていると確信してしまうのは、やっぱり病んでいると言わざるを得なかった。

「一体、いつからですか。おかしくなり始めたのは。」

「はい、高校までは、ごく普通の人でした。でも、高校を出てから、少しずつおかしくなってきて。初めは、ただ、学校で言われたことが忘れられないのだとおもったんですけど、そうでもなくて、しまいには、社会全体が死ねと言っているとか、そんなことを言い始めて、、、。」

「ある意味、お姉さんの言われることは正しいのかもしれませんよ。事実、障害者を殺してしまえという風潮は、いたるところでありますし。」

ブッチャーがそう答えると、ジョチは静かに言った。

「古くから、お姉さんの様な人は、社会参加を認めないのが一般的でした。戦後になって、やっと社会で生活してもよいようになりましたが、その社会は、決して彼女たちが生活できるようにはできておりません。その証拠に、引きこもりがいつまでも減らないじゃありませんか。一度躓いたものは、二度と帰ってこれないのが今の社会でしょう。」

「そうですが、これ以上水穂さんには迷惑をかけ続けないように、、、。」

ブッチャーはそこが心配でならない。

事実有希はまだ、水穂に話しかけ続けている。

「あたし、学校ってところにどうしてもなじめなかったの。あんなふうにみんな同じ格好をして一斉に起立して、礼をして授業開始なんて、どうしても怖くて。其れなのに、高校に行くと、みんなその通りにはしなくなるわね。みんな制服をだらしなく着て、ネクタイも、変な風に結んで、ワイシャツを背広から出して、ズボンを下げたり、スカートをお尻が出るまで短くして。それをまいにち先生方は、雷龍のように怒鳴ってしかりつけていたわ。時には、たたかれたり、無理やり髪を切られたり、携帯電話を放り投げられて壊されたりする子も多かった。でも、皆直そうということはしなかった。授業中には、もうがやがやとしゃべって、先生の声も聞こえないほどだったわ。それをやめさせるために、先生は、また雷を落として、、、。」

なるほどそれを誰かに相談したりすることはできなかったのだろうか?たしかに、真面目に勉強した

い人には、大変な授業妨害だ。

「母に、もうこの学校に居たくないって言ったわ。もう言葉の発音だって汚いし、耳につんざくような大声でしゃべるから、とても安心して学校にいられないって。そうしたらね、それを無視してこういったのよ。それが普通よって。」

つまり、有希は学校が大変だったなと、ねぎらってというか慰めてもらいたかったのだろう。それが、それで当たり前と言われてしまっては、確かに反故にされたような気がしてしまうかもしれない。

「聰のときは、ちゃんと、アンタも大変だけど、頑張りなさいって言って、励ましてくれていたのにね。私には、それが普通よなんて依怙贔屓よ。だから私、何回も謝ってと言ったのよ。其れなのに、だんだんおかしくなっているとか言い始めて、私のいうことは聞いてくれなくなって。」

おそらく、どこかで決着が付いていれば、こうはならなかったのではないかと思う。でも、親が子供に頭を下げるなんて、百年たっても実行しないだろうなと思われるのだった。

「それで、どうしたんですか。そのまま高校にいたんですか?」

ジョチがそう聞くと、

「ええ。母にそう言われてしまったから、もう誰にも言わないことにした。せめて私だけはちゃんとしようとした。そうなると、先生も家族も目を細めて喜んでくれたけど、私、服装はきちんとしているくせに、勉強はどうしてもできなかったの。どうしても試験で点数が取れなくて。歴史とか、地理なんかは面白かったから、すぐに覚えられたんだけど、運動もできなかったし、国語もできなかったし、数学もできなかったから、いつも、点数のことで怒られてて。」

と、答えが返ってきた。ブッチャーが、姉ちゃんは少なくとも勉強はできたじゃないか、と訂正したが、ジョチは彼女に本当のことをいわせようと、それを制した。

「だから、文字通り四面楚歌だった。その時に救ってくれたのが、部活でやっていた生け花だったかな。お花って素敵よね。講師の先生が、なんだか汚い言葉を話す生徒と違って、ぜんぜん別の世界から来た人みたいだったわ。試験前以外は、ろくすっぽ勉強もしないで、生け花に熱中した。先生が、個人的に習いに来ないと言ってくれたから、こっそり習いに行ったりもしたのよ。お小遣いの八割は、その月謝に消えたわ。でも、楽しかったから、何も苦痛ではなかったけどね。」

たしかに、そういうような環境で、日本の伝統文化の世界を見ると、本当に別世界に見えるだろう。伝統の世界は、現代の世界とは偉い違いだ。日本は、戦後、伝統的なものを一度全部捨てて、というか、捨てざるを得なかった歴史がある。

「でも、三年生の時にね。進路調査というものがあって、、、。」

ここで有希は初めて涙を見せた。ここからの内容は、ブッチャーも豹変した有希から聞かされてきた内容となる。

「姉ちゃん。もう話すのはやめたら?話していればつらくなるだろ?」

ブッチャーはそういったが、

「いえ、最後まで聞きましょう。」

と、ジョチは静かに言った。

「あたし、大学に行く気もなくて、生け花を本格的に習って、師範免許とかそういう物を目指したいと先生に言ったのよ。そうしたら、先生は、お前は親殺しかと怒鳴ったの。そして、大学に行かない奴は、ホームレスになって、駅で野垂れ死ぬしか、将来はないって、ものすごいどなったわ。あたしは、ほかの仕事をしながら、生け花を習うからそれでいいと思っていたけれど、それでは、行けないって、すごい剣幕だったわよ。そうなったら、と思って、あたしはこれまで以上に生け花に打ち込んだの。結局、大学も何も受けなかった。生け花教室にも通い詰めた。いくら時間がかかってもいいから、ああいう発言した先生や、ああいう汚い声の生徒を見返してやりたかった。でも、運命は残酷ね。あたしの、月謝を払うために、頼りにしていた父が、ある日突然会社を解雇されてしまって。その時ね、もうだめだったのよ。月謝が払えなくなって、やめざるを得なかったの。ああ、結局あたしは、負けたんだわ。学校の先生と、汚い声の生徒たちにね。」

そういって、彼女は畳に突っ伏して泣いた。これこそ、真実以上に真実を示しているのかもしれなかった。ほかの人には普通であっても、彼女にとってはそういうようにしか見えなかったのだ。みな同じように見えるものはいくらでもあるが、ある人だけには、黒い烏が白く見えるということがあると、しっかり知っておかないと、こういうことになってしまう。

「お話は分かりました。多分お母様がしっかり謝って下されば、そうはならなかったと思いますし、生け花というものにはまりすぎるほどはまらなくても、済んだのではないかと思います。」

「ジョチさん、すごいですね。そうやって俺たちがわからない原因を、すぐに突き止めてしまうだけではなく、解決法まで気が付いてしまうとは。」

ジョチの出した結論に、ブッチャーは思わず驚いてしまった。

「でも、一つわからないことがあるんです。」

有希はそういい始めた。はあ、何でしょう?とジョチが聞く。

「あたしはやっぱり悪人だったんでしょうか?あたしは、どうしても、同級生達を普通だと思うことができませんでした。どうしても、ああして毎日毎日、やくざの親分見たいな先生に、怒鳴られている人たちを、普通だと思うことができませんでした。だから、そういう人たちが、平気で社会に出ていると、もう私は、無理だと思うんです!そう思えなかったのは、やっぱりあたしはいけないんですか?あたしが、頭の悪い、悪人だったからでしょうか!」

「そんなことありません。」

不意に細い細い、しわがれ声が、そうきこえてくる。

「あなたは、悪人ではありません。ただ、本当に欲しいものと、そうでないものとがすれ違っていただけです。親ほど、自分を正しいと思い込んでいる人はいませんよ。ある意味、政治家よりも強い信念を持っていないと、子育てはできませんからね。それを訂正してくれる存在も今はないですから、自分を正しいと思い込むだけしかできないんですよ。ただ、あなたは、僕とは違って、一生、他人に頭を下げて生きていくことを強いられる民族ではありません。そこさえつかんでおけば、うまく逃げることだってできるはずですよ。僕たちは、一生幸せになんてなれやしませんけど、あなたはそうではないんです。そこを考えていただきたい。」

ここまで言い切ったのはよかったが、もうそれ以上は限界だったらしく、その人物は激しくせき込んでしまうのだった。

「水穂さん、無理して起きなくてもいいですよ。もっと眠っていてもよかったのに。」

水穂は首を振ったが、同時に、赤い液体が噴出した。ブッチャーは、申し訳ありませんと言いながら、

その口元をタオルで拭いてやった。

「そうですね。確かに、昔の家庭だったら、お年寄りがいて、親が間違いをしても、そうではないと訂正したりしていたと思うんですが、今はそうではありませんね。だから、一回の些細な間違いであっても、そうやって大きな問題に進展してしまうことが多いんですね。」

ジョチさんの言う通りだ。きっと、母だって答えを知らなかったのだ。教えてくれる存在もなかったから、そういう答えしか言えなかったんだろう。それが、普通だと。

そして、答えを言えないのも普通だが、答えを持てないのも又普通になっている。どっかで教えてやってくれるところがあればいいのだが、今はそういうところなんて、皆無になりつつある。本当は、親になるのには、ある程度知識がないとできないのだけど、人に教わろうという姿勢も古臭いことになっているし、教えてやろうという姿勢も評価されなくなっていることが多い。つまり、人がいるようでかかわっていない。何たる寂しい世の中になってしまったものだ。そんななか、生きていくには、やっぱり自分こそが一番正しいと信じ込んで生きていくしか、方法はないのだ。今は教わりに行こうとするのだって、相当勇気がいる。

「昔だったら、身近な人が、教えてくれたり、なだめてくれたりしていたんですけどね。だけどどうして、そういう人は消えてしまったのかなあ。」

ブッチャーは、息切れしている水穂さんの口元を拭きながら、そんな事を言った。

「僕は、豊かになりすぎることばかり、求めすぎたからだと思いますね。ほら、日本人ってどうしても、周りの人と比べ安いでしょ。それは、いいことでもあるけれど、大事なものをなくすというところでは、大損だと思います。周りにおいつけ追い越せではなくて、何が大事で何が不要かということをはっきりさせるべきではないでしょうか。」

ジョチさんが、実業家らしくそういうことをいっている。そうなると、有希自身も典型的な被害者なのかもしれなかった。彼女も、学校の同級生とはりあおうと思わずに、のらりくらりと生活できていれば、こうはならなかったかもしれない。

「まあねえ、教育も反省しなきゃいけないでしょうね。幼いころから定期試験のことで縛り付けて、常に他人と比較ばかりして、より上を目指すのを生きがいにさせたり、出身高校や大学で、社会的身分を作ってしまうような体制では、やっぱりいけませんよ。大事なことは、どこの学校という名前ではなくて、そこで何かを得られることですから。其ればっかりじゃないですね。日本はいろんなところで反省が必要だと思いますね。もうやりすぎっていうところまで来ちゃって、たいして幸せになれなくなってますからね。それをよく反省して、もう一度良き時代に逆戻りっていう考え方は、すでにヨーロッパでは行われていることですよ。」

「さすがですねえ。俺はそういうことを考えるのは無理だなあ。そういう人こそ、政治家として何かしてもらいたいなあ。」

ブッチャーは思わず感心してしまった。

「いいえ、僕は、そういうことはほかの者にやらせて、それよりも、弱い人を何とかするほうに力を入れたいですよ。」

にこやかに笑うジョチに、ブッチャーではなく有希が、こういい始めた。

「じゃあ、あたしは、これからどうしたらいいのですか。もう、あたしは、死ぬ以外方法が思いつかないんです。」

「そうですねえ。」

ジョチは、腕組みをしてそういった。

「まあ、結局、親は期限付きというのは紛れもない事実ですよね。それを迎える恐怖を味わいながら生活するよりも、この際だから、自身の手で生きているという感触をしっかりつかんでもらうということが肝要でしょう。もしよければ、うちの焼き肉屋か、それとも、僕が買収した会社の中で働いてみますか?たぶん、精神を病んでいらしたことは事実だから、大掛かりな仕事は出来ないとは思うのですがね。そうだなあ、、、。」

「え、本当!働かせてもらえるの!」

ブッチャーは、でかい声で喜ぶ。有希はまだ、不安そうであった。

「姉ちゃん、俺が保証するよ。ジョチさんの会社であれば、絶対に障害があるからと言って、蔑んだり、バカにしたりするような奴は絶対にいないからあ!」

「そうですね。完璧にそうかとは言えませんが。ただ、条件があって、それは、もう高校にいると思わないこと。もう、変に比べっこする可能性はないと思うこと。これだけです。これだけ呑んでくだされば、うちへ来てくれてかまいませんよ。」

ジョチは、またそういったが、有希はまだ不安そうだった。

「よかったら、ここへ連絡してくださいね。」

そういって、ジョチは手帳の一ページを破り、自身の名前と住所、電話番号を書いた。

「わあ!よかったあ!俺は、もう天にも昇る気持ちだあ!」

天井を見上げて号泣するブッチャーに、ジョチも、それから水穂までもが、にこやかに笑ってくれた。

だが、なにか言おうとして、水穂は激しくせき込み、また、内容物を出すことを強いられるのだった。

内容物は、言うまでもなく鮮血であった。ある意味、こんなものが口から噴出するとなると、非常に怖くて気持ち悪いシーンに見えてしまうのだけれども、皆目を離さなかった。

「はいはい。ゆっくり吐き出してみましょうか。一度に全部出すと、また気管をふさいで、痰取り機のお世話になってしまいますからね。そこだけはどうしても、避けたいですからね。」

それだけはジョチもブッチャーも使いたくなかった。あれを使うのは、ある意味、兵隊でもない限りできないのではないかとおもった。

「その代わり、背中を軽くたたいてみますか。」

これだって、結構残忍な方法だ。ジョチは、何の迷いもなく、肩甲骨の間あたりを平手打ちする。これをすると、喀出を促すということだが、ブッチャーはこれだってしたくないなあと思うのだった。平手打ちは効果覿面で、再びせき込んで前より大量に内容物が出た。これで出すものはしっかり出してくれたようで、楽になってくれたのか、水穂はうとうとし始める。

「水穂さん、また悪くなりましたね。もう薬も効かないのでしょうか。もしかして先ほど目が覚めたのは、あの発言をするのではなくて、吐き気を催したからではないですか?」

答えはなかった。

「頼むから、俺の姉ちゃんだって、居場所が見つかったんだし、良くなってよ、、、。」

ブッチャーはそういうものの、どこかむなしいものになりそうな気がした。

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