第八章

第八章

今日もブッチャーが姉の見舞いに絹村病院を訪れると、有希は丁度食事をし終えたところであった。

「よし、偉い。今日も残さず、しっかり完食してくれたわね。その調子で、晩御飯も食べて頂戴ね。」

「はい。」

看護師にそういわれて有希はしっかり頷いた。

「姉ちゃん、また食事すると看護師の監視付きか。」

ブッチャーがそういうと、

「ええ、一時、心配になって私が付き添うようにしているんですけど、最近はしっかり残さず食べてくれるようになりましたよ。だいぶいい傾向ですよ。」

と、看護師はお皿を片付けながら、にこやかに言った。

「そうですか。ありがとうございます。本当に、何から何までみていただいて。」

改めて頭を下げるブッチャーに、

「ねえ聰さん。今日先生から話があると思うんだけどね。」

と、看護師はにこやかに言った。

「一度、お姉さんをお宅へ返して見ようと思うの。先生が、お姉さんの家族問題とかよく知るためでもあるし、お姉さんにとっても、長く入院して病院ボケを起こしたら、行けないからって。」

「あ、えーとそうですか、、、。」

之には驚いてしまうブッチャーだった。以前の病院であれば、2、3か月くらいは入院したままで当たり前であった。

「私たちは積極的に外へ出させる方がよいと思っているの。精神障碍者イコール、塀の中へ隔絶というようにはしたくないっていうのが、院長の基本方針で。」

「そうですか。なるほど、、、。」

ブッチャーはそれしか言えなかったが、別に外出している間、監視員さんが来るわけでもないということを思い出して、あることを思いついた。

「ただ、ご家族には、外出している間の様子をレポートにまとめてほしいんだけど。あ、弟さんではなくて、親御さんでもいいのよ。それはお宅の中で任せるから。ただ、レポートだけは書いて頂戴ね。」

本当に明るくて陽気な看護師であった。昔の人から見れば、危機意識に乏しい看護師だなと思われるが、精神病院にはぜひ、こういうタイプの人がいてくれればと思われる。

「失礼します。」

昨日と同じ男性医師が、部屋にやってきた。

「須藤さん、お約束した通り、全部食べられましたか?」

「はい。」

有希がその通りに答えると、

「そうですか。わかりました。では、明日一日外出してみましょうか。行先は、誰かと一緒に居れば、どこへ行っても構いませんから。弟さんは、朝九時頃、こちらに迎えに来てください。そして、晩御飯が始まる夕方五時には必ず戻ってきてください。あと、弟さんでなくても構いませんから、ご家族の誰かに、こちらのレポートを、書いてもらうようにしてください。」

と、医師は説明を始めた。

「わかりました。じゃあ、俺、その時間に迎えに行きます。」

ブッチャーも久しぶりに明るい気分になった。


同じころ。

「はあー、くたびれちゃったよ。何だかお昼にお団体様の料理を作ったら、いっきにどっと疲れちゃった。」

とりあえず昼の部の営業を終了させたチャガタイは、全部の客が出ていった後、座敷にデーンと横になった。

「何やっているのアンタ。これから夕飯の営業もあるんだから、くたびれた何て言うもんじゃないでしょ!」

君子が、そういって激励したが、言われればすぐに立ち上がるということはなく、

「でもよ。今日は本当に疲れちゃった。あーあ、俺も、年だなあ。もう四捨五入したら60だぜ、俺。年取ったよ。」

という言葉が返ってきた。

「なに言ってるの。お兄さんなんて、60を超えたのに、昨日もおとといも、東京へ出張に行っているじゃないの。其れより、6つも若いんだから、疲れたとか、年だとか言わないで頂戴よ!」

「兄ちゃんと俺とは別だ。」

「何を言っているの。本当に頼りないわね。そんな馬鹿なこと言わないでよ。」

君子は、まったく男ってのはどうしてこうなんだろうと、思いながらため息をついた。

「でもよ。今でこそさ、こうやって店をやっているけれど。」

不意にチャガタイは、意味深そうな話を始めた。

「今はよ、俺たちはまだ50だから、こうして店をやっていけるけどさあ。もう何年かして、俺たちが60になったら、世間様では定年退職している年だ。そうなったら、もしかしたら、何かで倒れるかもしれない。兄ちゃんの政治関係の資金を調達するためにも、この店はやっていかなきゃならないし、もし俺たちがやれなくなったら、誰が店をやるのだろう?」

たしかに、それだけは確保しなければならない課題でもあった。本来であれば、そういうことは、実の子が継承することだ。でも、チャガタイ夫婦は、いくらほしいほしいと頑張っても、どうしてもそこへ行きつくことができなかったのだった。

「そうね。確かに年取ってくると、後継者というものは、ほしくなるわねえ。ま、あたしたちは、いくらやっても、そういうことはできなかったんだから、もうできない事はできない事とあきらめて、今やっていることに一生懸命力を入れることにしましょう。そんなできない事を高望みしたって、無理なことは無理だから、それは見ると苦しくなるだけだし、見ないほうがいいわ。」

「だけどなあ、なんだか先延ばししているだけで、俺たちなんだか怠けているように見えないか?」

チャガタイは、ちょっとしょんぼりして言ったが、

「バカね、アンタは。だってできないっていう結果がわかっているくせに、そんなことでくよくよ悩んでどうするの。それより、できることをちゃんとやりなさいよ!」

と、君子はきつく言うのだった。


翌日。ブッチャーは、いい気分で絹村病院を訪れた。有希も、ちょっと不安そうだったけど、ちゃんと外出用の恰好をして待っていてくれた。五時には必ずかえって来るようにとお医者さんから注意を受けて、ブッチャーと有希は病院の外へ出た。

「暖かいわね。いつの間にこんなに暖かくなったかな。」

ブッチャーが用意したタクシーに乗り込むと、有希が言った。

「いや、今年は、暖かくなるのが早かったからな。すでに早咲きの桜が咲き始めているよ。ソメイヨシノはまだだけどな。」

ブッチャーは、そう返事をした。

「お客さん。ご自宅まででいいんですか?」

運転手が間延びした声でそういうと、

「あ、ちょっと待って。自宅へ帰る前によっていただきたいところがあるんです。青柳先生がやっている、製鉄所によっていただきたいのですが。」

とブッチャーは急いで訂正した。

「も、もちろん、待ち賃はちゃんと払いますから。」

「あ、わかりました。あの、大渕街道のところですよね。もし、これから長時間途中で寄り道するようなことがあれば、一日タクシー貸し切りプランもありますから、そのほうがむやみに待ち賃を払うよりも、お得になる場合もありますよ。」

運転手はそういってくれた。

「ありがとうございます。じゃあ、今度するときはそうするようにお願いするわ。運転手さん、お宅の会社概要などを載せたものはあるかしら?」

有希が突然口をはさむ。そういうお金がかかる会社を利用する時は、ネットで調べるのではなく、誰かから聞いて、パンフレットをしっかりもらっていくのが有希のやり方だった。

「はい。ありがとうございます。後部座席にポケットが設置されていると思いますが、その中にございますよ。どうぞ持って行ってください。」

「えーと、ああ、これですね。岳南タクシー株式会社さんね。たしかに貸し切りタクシー承りますって書いてある。じゃあ、これで、お願いしようかなあ。お願いするときはどこに電話をすればいいのですか?」

「はい。営業所は、富士と吉原と鷹岡、大渕にありますが、それらのどこの番号にかけても、同じ本部につながるようになっていますので、どこにかけてくれてもいいです。」

「わかったわ。ありがとう。」

そうやって、お金が絡むことは、少しでも安い方に持っていく。そのためには手段を択ばないのも、有希の特徴と言えるかもしれない。本来ブッチャーは、待ち賃などたいした額ではないと思っていたので、貸し切りプランをしなかったのであるが、有希は、少しでも安い方、安い方と考えてしまうらしかった。

「姉ちゃん、気にする必要ないんだぞ。タクシー代、俺がちゃんと払うから。姉ちゃんは何も心配いらないから。」

とブッチャーはいったのだが、

「何を言ってるの。お金は誰にとってもおあしでしょ。少しでも手元に残っておいたほうがいいわ。」

有希はにこやかに言った。そういうことは、本当に気にしないでいいと言っているのに、何も伝わらないのだろうか。

「えーと、製鉄所は、ここを曲がってすぐですね?製鉄所と名乗っているわけではないけれど、確か昔のやり方で、鉄を作っているとか。」

運転手がそう聞くと、

「あ、はい。今はその目的で利用している人はいないですよ。今は、其れじゃなくて、傷ついた人が、家を離れて、暫く暮らさせてもらう施設に変わっています。でも、ほかに名前を見つけられなくて、いまだに製鉄所と名乗っているんですが。」

と、ブッチャーは説明した。

「そうですかあ。そんなすごいところなら、しっかり、更生支援施設と名乗ればいいのにね。」

「いやいや、そうなると変な横文字をつけたりして、ますますわかりにくくなりますから、製鉄所としていたほうがいいでしょう。日本は、座敷牢という言葉はありますが、更生支援施設というと単語は、今の今までなかったんですからねえ。」

運転手が発言すると、ブッチャーは、青柳先生がよく言う言い訳を口にした。有希はこの時も変な発言はせず、表情も一つ変えず、にこやかにしていた。

「はい、お客さん、つきましたよ。」

タクシーは、しっかりと製鉄所の前で止まった。

「はい、じゃあ、俺たち中へ入りますが、近くにコンビニがありますので、そこへ行って待っていて下さい。待ち賃はしっかりと、払いますから。それではお願いします。」

ブッチャーと有希はそれぞれタクシーを降りる。有希は、待ち賃を払わせるなんて、申し訳ないなと言っていたが、ブッチャーは気にするなと言って聞かせた。

「よし、中に入ろう。」

中に入ってしまえば、有希も普通の女性である。

「わあ、まるで古民家みたい。すごい風情があっていい建物じゃない。なんだか、古き良き昭和の時代にタイムスリップしたみたいだわ。」

何て発言するんだから。

「青柳教授がね、日本人はもともとこういう場所に住んでいたんだから、これからの国際化時代、自国の伝統的な暮らしを知っておかなければ、恥だと言っていたんです。」

ブッチャーはそう解説したが、

「そうなのね。なんだかその気持ち、わからないわけでもないなあ。いいなあ、昭和の時代って、あこがれなのよ。」

何て、彼女はそれを無視して、どんどん製鉄所の敷地内に入ってしまった。

「ちょっと待て待て、姉ちゃん、それではいかん。しっかり挨拶しなきゃ。」

と、急いで姉を呼び止めて、ブッチャーは先導し、製鉄所の玄関の引き戸を、

「ごめんください。」

と言いながら開けた。製鉄所の玄関には、インターフォンが設置されていなかった。みんなここから変な場所だというけれど、

「素敵じゃない。声に出して、挨拶をするなんて、本当に昭和的ね!」

何て有希は喜ぶのだった。

「あれれお客さんかな。」

玄関に男物の、畳表の草履が置いてあった。

「あ、これが、青柳先生の草履?こんな立派な草履持っているんじゃ、相当偉い人よね。畳表は今、すたれていて、履く人はなかなかいないからね。」

有希は、そう解説する。いつの間にか、そういう昔のものについて勉強してしまっているようだ。今の時代を徹底的に否定し続けて生きていると、そうなってしまうのだろう。

「いや、青柳先生ではないな、先生は、もう少し足が小さいはずだからな。とすると、誰だろう?」

ブッチャーが少し考えていると、

「あ、こんにちは、ブッチャーさん。久しぶりね。着物の仕事は最近どうですか?」

と、丁度買い物に行くつもりだったか、くみちゃんが、玄関先にやってきた。

「どうもです、久美さん。」

「この人は、もしかして、、、。」

くみちゃんが、首をかしげると、

「はい、須藤聰の姉の須藤有希です。いつも弟が、お世話になっております。」

と、深々と礼をする、有希であった。

「あ、はい。よろしくお願いします。やっぱりお姉さんだわ。お姉さんらしく、しっかりしてそう。」

というくみちゃんだが、実際は、俺がさんざん面倒を見ているのになあと思ってしまうブッチャーだった。

「お二方はどうしてこちらにいらしたんですか?」

「はい。水穂さんたちはどうしているかなと思ってさ、今いる?」

くみちゃんに聞かれて、ブッチャーは、やっと用件を言うことができたのであった。その時くみちゃんの顔がさっと曇る。

「水穂さんなら、今奥で寝てます。」

とだけ、ぽつんと言って、くみちゃんは急いで靴を履いた。

「ちょっと待て、どうしたんだよ。急に声が変わって、、、。」

「まあ、見ればわかります。」

またぶっきらぼうに言って、くみちゃんは彼にそれ以上話さずに、製鉄所を出て言ってしまったのであった。

「みればわかりますって、確かにわかるけどさあ、そんな言い方はないだろう、そんな言い方は。まあいい。俺たちは、日ごろから入らしてもらっているわけだし、一寸だけ入らせてもらおう。」

「それでは、お邪魔します。」

「お邪魔します。」

ブッチャーと有希は、二人して製鉄所の中に入らせてもらった。鴬張りの廊下がきゅきゅきゅとなるので、有希はまるで楽器のようだと言って、にこやかに笑った。

しかし、目的の四畳半に近づくと、空気は重いというか、むさくるしい感じに変わった。

「水穂さん、入りますよ。今日は、俺の姉ちゃんを連れてきたんですよ。一寸話をしてくれませんかね。」

ブッチャーは、ふすまに手をかけて、がらりと開ける。と、いきなりジョチの姿が見えた。

「ジョチさんが来てたのか。」

ブッチャーは、嫌な予感がした。

「もしかして、またですかね。」

「静かに。今やっと眠ってくれたところなんですよ。しばらく、そっとしてやってくれませんか。お願いします。」

ジョチの顔は厳しかった。

「ジョチさん、、、。そうですか、それじゃタイミング悪すぎましたねえ、俺の姉ちゃん、連れてきたんですけど。水穂さんと会ってもらいたくて。」

ブッチャーは、本当にがっかりして、いう順番まで間違えてしまったくらいだ。

「それでは、僕が相手をしましょうか。水穂さん、朝からひどくせき込んで、たいへんだったんです。それを起こしてしまうというのは、あまりにかわいそうで。」

一応、応急処置はしたらしく、布団の周りにレジャーシートがしいてあって、それには雑巾で拭いたあとがあるのは確認できた。少なくとも、畳屋さんのお世話になることは回避できたらしいが、、、。しかし、酷い汚し方であるのは、間違いなかった。

「本人に聞こえないように、小さな声で話してやってください。」

「はい。」

ブッチャーは、返事どころか、ため息をついた。本当は、ブッチャーなりの計画があったのであるが、これではすべてだめだということになってしまう。

「かわいそうな人ね。」

不意に有希が敷かれたレジャーシートに向かって、そんなことを言った。

「ちゃんとした、医療とか看病とかほとんどしてもらえなかったのね。今だったら、いい抗生物質とかちゃんとあるはずなのに。其れなのに、そういうことぜんぜんしないで、ひどくなるまで放置されていたなんて、特別な理由があるとしか思えないわ。きっと、そうだったんでしょう?だって今だったら、ちゃんと治してもらえるはずですよ。少なくとも、明治でも大正でもないんですもの。」

「おい姉ちゃん。俺、話して聞かせたはずだろ?水穂さんは、其れとは違うって。みんな間違えるけど、其れよりさらに怖い、えーとあの、確か沖田先生が言ってくれた、オーバーなんとか症候群という、、、。」

ブッチャーはでかい声でそう訂正したが、その名前をしっかり思い出すことはできなかった。

「あんたも無理して隠そうとすることないわよ。あたしは、なんにも恥ずかしいことではないと思う。だって、冷たい扱われ方をされてきたんだろうし。きっと、そういわれちゃうことを恐れて、酷くなるまで、放置するしかなかったのね。きっと、いつでもどこでも小さくなって、普通の人より上になってはいけない立場。そういうこと。」

「姉ちゃん!少なくとも、水穂さんにそんなこと言わないでやってくれ。本人だって、気にしているかもしれないんだからさあ、それを朗々と唱える何て、ちょっとかわいそうだよ。」

ブッチャーは、急いで訂正しようとするが、

「後でいいじゃありませんか。お姉さんは、きっと仲間ができたんだと思っているんだと思います。人間は、自分と同じような人物が現れると、何か変われる可能性がありますから。訂正するのは、そのあとでもいいと思います。」

「すみません、、、。」

ブッチャーは、なんだか小さくなって、もう黙るしかないなと思った。

「本当は、目が覚めている時に話を聞きたかったわ。もっと、お話してみたかった。あたしが、いろんな人から、みんなと違っていて、変な奴とかダメな人とか、そういうこと言われて、腹いせに生け花にはまって、家が損傷するくらいやっちゃって、結局やめるしかなくておかしくなったこととか聞いてほしかったなあ。あたし、弟から聞いたのよ。あなたが、ピアノやっててすごいところまでいったって。それはやっぱり、身分をわきまえないで、無謀な挑戦をしてしまったのね。よかった。同じ失敗をしてくれた人が、ほかにもいたんだって、、、。少し安心した。あたしだけじゃなかったんだ。

おんなじ間違いをしてしまった人が、、、。」

「おいおい、水穂さんとは事情も何も違うよ。そんな自己本位な発言、しないでくれよな。」

ブッチャーはそういったが、

「いいえ、誰でも苦しいときは、そうなるものですよ。それは、止めないで上げてやりましょう。すぐに真実を伝えてしまうのは、かえって有害になってしまうときもある。」

と、ジョチに言われて黙ることにしたが、しかし次のセリフ、

「私より、不幸な人が、」

と聞こえてきたので、

「姉ちゃん!もういいから!やめてくれよ!」

と、思わず声を荒げてしまったのであった。

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