第七章

第七章

製鉄所では、げっそりと痩せて窶れた水穂が布団で眠っていた。そうなってしまうと、面会を禁止されてもされなくても、会いたいと思う人は大幅に減った。

彼の世話は、ぽかほんたすから派遣されたおばさんたちがしていたが、おばさんたちは、事務的な言葉を交わして、帰ってしまうのだった。

何をしようにも、水穂は眠ろうと努めていた。眠っているときだけは、寂しさと孤独感を忘れることができるからだ。でもそれは同時に、あることを予測させることでもあった。

「やっほ、ちっとあったかくなってきたじゃないか。そのうち桜も咲いてくるよ。」

声がしたので目を開けると、杉三がいた。

「杉ちゃん。」

思わず呼び掛けてしまう。

「なんだよ。」

「杉ちゃん。」

「だから、要件をいえ。名前だけ呼ばれても困るわ。」

「ごめん。久しぶりだったからなんだか嬉しくてさ。」

水穂は窶れた顔でにこやかに笑った。

「なんだ、そんなに人に会ってなかったの?」

「そうだよ。もう、決まった人しか来ない。」

「そうか。それほど、お前さんの体は悪くなってるんか。ま、仕方ないと言えば、しかたないのかな。確かに、それだけで過ごすのも、つまんないよね。」

「つまんないというか、寂しいよ。いつも来てくれるのは、ぽかほんたすさんのおばさんたちだし。最近は、高校生も試験が近いと言って、めったにこっちには来ないよ。」

「まあな、試験はそういうもんだからあきらめな。それに、高校生が、介護に興味持つなんて、ちゃんちゃらおかしいよ。」

杉三は、声を立てて笑った。

「まあね、来てもらう側から見ると、人が来てくれるってすごくうれしいんだけどね。でも、来てやっているという顔をされると、申し訳なくなる。」

「どっちだ?」

杉三は、クイズ番組の司会者のような顔で言った。

これでやっと、やつれ切った水穂の顔にも、少し表情が出てきてくれたようだ。

「まあ、それはしょうがない。みんなそうやって生きているもんだから。誰だってしなくちゃなんないことはあるんだよ。それを踏まえてお前さんのところへ会いに来るんだからよ。我慢しろ。」

「そうだね。」

ほっとため息をつく水穂だが、すぐにせき込んでしまうのである。

「おいおい、気を付けてくれ。」

と言っても、止まることはなかった。

「また、吐き気がする?」

そこだけは通じた。軽く頷いてくれたため、杉三はほらよと言って、タオルを口元に当ててやる。三度せき込んだのと同時に、タオルが赤く染まった。

「杉ちゃんごめんね、わざわざやってもらって。」

タオルで口の周りを拭いた水穂は、そんなことをつぶやいた。

「もう、体も動かないんだよ。手を動かそうにも力が入らない。ほかの部位もみな同じ。もう、着替えるのも、体を動かすのも、憚りも、みんな誰かの手を借りないとできなくなったよ。こんな姿になって、何のためにこっちにいるのか、わからなくなる時だって、有るよ。」

「ただ、まだできることはあるぞ。」

杉三はすぐ返答した。

「大事なことを忘れているな。咳き込んで血を出すことと、しゃべること、そして、ご飯を食うことだ。三つもできることがあるんだから、それを忘れちゃいかん。せめてさ、ご飯くらいしっかり食ったらどうなの?其れだったらまだ何かできるようになるかもしれないぜ。」

「ご飯ね。食べる気しないよ。一日中寝ていて何もしないのでは、食べる気にもならない。」

「バーカ、そういうのを贅沢というんだ、贅沢と。そうじゃなくて、与えられたご飯くらいさ、しっかりと食うんだよ。もしかしたら、お前さんにご飯くれることで、生きがいを見出している奴らもいるのかもしれないぞ。」

杉三はカラカラとわらった。水穂もそうだなと言おうと思ったが、また吐き気がした。なんでこうタイミングの悪いときに来るかなという気がしないわけでもなかった。

「吐き気が。」

いうより早くせき込んで、口から赤い液体が噴出した。杉三が、ほらよと言って、すぐに口を拭いてやった。

「もう、ここまで来たら、やすもっか。薬、吸い飲みに入っているのでいいんだっけ?」

杉三が聞くと、水穂は黙って頷いた。杉三は吸い飲みを水穂の口元へ持っていく。水穂は、中身を飲み込んで大きくため息をついた。これの強力な眠気をもたらす成分のせいで、すぐに寝てしまうのは、

誰でも知っていた。水穂は、五分もしないうちに目を閉じたが、

「こうして目をつぶっていると、時々考えることもあるんだよ。また再び目覚めるときは来るのかなって。もしかしたら、永久に来ないのかもしれない。」

「何をバカなこと言ってる。そんなこというと、罰が当たるよ。そんなのはな、生きている間に言うもんではない。生きている間は、眠れば必ず目覚めるさ。」

「そうだね、、、。」

最後の一文を言わないうちに、水穂は眠り始めてしまった。杉三はこの間に、血の付着した唇を拭いてやって、布団を丁寧に整えてやった。

「しっかり息をして眠ってるじゃないか。其れさえできれば、また目覚めるときなど、なんぼでもあるわ。」

そういっている杉三も半分呆れた顔をしていた。


その病院は岸病院に比べると本当に小さかったが、例の監獄のような雰囲気はどこにもなく、医者も看護師も、にこやかにしていて、威圧的な雰囲気はどこにもない。母も、ブッチャーも、影浦先生は本当にいいところを教えてくれたよなあと喜んでいた。

有希は、四人部屋ではなく個室に入院することになった。あの、ロシア式の不思議な空間は、もうけられていなかった。

どの部屋も、部屋は陽がよく差す作りになっていて、南向きに大きな窓がついていた。その窓は患者さんが開け閉めすることはできなかったけれど、ベッドはホテル並みの高級品だし、何か勉強したりするための机も用意されていた。洗濯ものは家族が持ち帰るようになっているが、一応一人暮らしの人のために、コインランドリーまで使えるようになっている。

「姉ちゃん。具合どう?」

ブッチャーは部屋に入ったが、

「あれれ?」

姉の姿はなかった。

「どこに行ってるんだろう?まだ食事の時間には二時間以上あるっていうのに?おーい、姉ちゃん。」

ブッチャーは、病室の外へ顔を出したが、姉の姿はなかった。

「どうかしたかなあ?」

ブッチャーは、思わず心配になってしまったが、数分後、

「あれ、どうしたの?看護師さんは、今日あんたがここに来るって言ってなかったけど?」

と、病室の戸がガラガラと開いて、有希が大量の洗濯物をもって戻ってきたのである。

「なんだよ姉ちゃん。洗濯物は母ちゃんがもって変えるはずだったんだけど?」

「自分でやりたいのよ。あたしは。そのほうがちゃんとできる気がするんだけど?」

そういって、ベッドの上に洗濯物を置き、急いで洗濯物を畳み始めるのである。

「姉ちゃん。入院しているんだからさ、それくらい、家族に甘えてもいいんじゃないか?それは、別に悪い意味で甘えるわけでもないと思うんだけど?」

「何言っているのよ。自分のことくらい自分でやらなきゃダメだって、みんな言ってるでしょ。学校の先生だって、みんなそういうわ。さ、そこどいて。洗濯物を、しまうから。」

有希は、そういってベッドのわきにある、箪笥の中に洗濯物をしまい始めた。それくらい、誰かに任せてもいいのではないか、とブッチャーは思うのだが、有希はそれを、許さなかった。その代わり大暴れして、タンス自体をぶち壊したことは、何回もある。

きっと姉ちゃん、顔はにこにこしていても、本当はたたみたくないんじゃないか。とブッチャーは思った。

「姉ちゃん、怒らないで聞いてくれよ。あの時さ、学校の先生になんていわれたんだ?ほら、一番初めに姉ちゃんが、学校から泣いて帰ってきた日さ。俺、そのころ、まだ坊主だったからさ、何にもわからなかったけど。」

「何言ってんの。あんたには話したって無駄よ。弟なんだから、その通りにすればいいでしょ?弟は、弟らしく、のんびりと生きればいいのよ。」

有希は、にこやかに笑って、そう答えた。

「あのねえ、弟だから、姉だからと言って、家の中に順位が付くわけじゃあないと思うんだけどね。俺たち、家族だろ?家族って、順位が付いてというより、みんなで片寄せあってさ、仲良くしていくもんじゃないのか?例えばさあ、何でも話し合えて、何か悩んでいることがあったら、それをすぐに口に出してさ、みんなで笑って洗いなおして、解決できる存在っていうのが家族っていう者だと思うんだけど。そういうもんじゃないの?」

「そんなもの、とっくになくなったわ。」

有希は静かに答えた。

多分、母がこの話を持ち掛けると、彼女はものを壊して暴れるだろうというのは、目に見えていた。でも、とっくになくなったと、静かに話してくれるのであれば、それでよかったと思った。それでは、次の話も又できるかなと思った。

「とっくになくなったって、俺たちはここにいるじゃないか。少なくとも、俺は年下だから、ちょっとアドバイスはできないと思うけど、父ちゃんや母ちゃんであれば、何かアドバイスくれると思うけど?そんなに俺たちの事信用できなかったのか?ああなって、でかい声である日突然大暴れするんだったら、その前に、ひどいことを言われてたって、なんで俺たちに話さなかったの?」

「無駄だったからよ。」

有希はまたそう答えた。

「無駄って何だ?無駄って。」

「それはね、私も訴えたことはあったわよ。それは、有ったわ。でも、はぐらかされちゃった。やっぱり、あたしには無理。」

「無理?それは何だよ。」

今回はブッチャーのほうが、いら立って来てしまった。

「無理だったの。教えてあげようか。あたしだって、高校入ったとき、母さんに言ったの。高校の人たちは、授業を聞かないし、服装だって、みんな酷くて、毎回毎回でかい声で先生が、授業を聞くように怒鳴ってる、こんなひどい高校に行きたくないと訴えたことはあった。でも、その時は、それが当たり前だと言って、話も聞いてくれなかった。」

「それは俺も訴えたことあったよ。俺も、高校に入ったばっかりのとき、不良仲間にたばこやらないかと誘われてさ、俺が母ちゃんに訴えたとき、父ちゃんがすぐに学校へ通報してくれて、解決したけど?」

ブッチャーは似たような話だと思って、自分の例を挙げたのだが、

「そう。それじゃあ、あんたのときは、ちゃんと反省してくれたのね。それはよかったわね。あんたっていつもそうよね。下の子だから、やり直しをしようと思えるんでしょうね。逆に先に生まれたあたしは、反省しても謝ってもらうことはなかったわ。したの子っていいわよね。そうやって、失敗をしないように、あらかじめ計画的にやれるから、そういう正常な子になれる。」

「そんなことは、しょうがないじゃないか。俺だって、責められても困るよ。」

「そう。学校の先生がそう言ったわ。もうご両親を責めるのはやめなさいと。それでは、あたしが一方的に気持ちを抑えるしかない。それは、正しいことかしらって、あたしは、自問自答したけど、結局、それは、あたしがあたしの中で解決していかなきゃいけないことなの。でも、あんたは、親がちゃんと反省して、ちゃんとした答えを出してもらって。あたしは、初めての子供だから、失敗ばっかりで、其れも謝ってもらえない。この落差は何だったのかしら?」

最後の言い方がやけに印象深かった。ブッチャーは、そんな事実があったのは、まったく知らなかったので、暫くめんくらったが、

「俺、姉ちゃんがそんなこと思っていたなんて、何も知らなかったよ。そりゃ、父ちゃんも母ちゃんも、人間だもん、そういう間違いはするさ。親って、親という名にかこつけて、変な罪逃れをしようということもあるよ。俺、青柳教授から、それはよく教えてもらった。それが解決できないと、人間は次へ進めないんだって。姉ちゃんも、それで傷ついたんだよな。ごめんさい、母ちゃんの代わりに俺が謝るよ。きっと母ちゃんはそういうことはできないだろうからさ。弟の俺で、勘弁してくれないかな?」

と、ブッチャーは、姉の前に向かって手を付いた。

「聰に言われても困るけど。」

有希は、それでは困るという顔をしている。本当は、お母さんに謝ってもらいたいという気もちが見えている。

「でもきっと、母ちゃんには、それは無理だよ。ほら、青柳教授が言っていたけど、人間は後ろには進めないって。」

再度ブッチャーはそういった。それは紛れもない事実だった。

「あたしもそこへ行ってみたいわ。そのほうが、こんな病院より、早く立ち直れそうな気がするの。ここは、今までのところよりはたしかにいい所だけど、ちょっと違うような気がするのよね。」

「ちょっと違うって、何が?」

いら立ってブッチャーがそう聞くと、

「それは、あんたにはわからないわよ。それは、こういうひとにしかわからない。」

と、言いながら、有希は自分を指さした。

と、同時に、病室の戸がガラッと開く。主治医の若い男性医師だった。

「須藤さん。看護師から聞きましたが、あなたまた肉料理をトイレの中に投げ捨てたそうですね。」

さすがに職務質問しているような雰囲気ではないが、先生はやっぱり厳しかった。

「え、また肉を食べなくなってきたの!」

ブッチャーが思わずそういうと、

「はい。看護師が目撃していました。それは、行けないことですよ。しっかり、ご飯を食べるようにしてくださいね。」

と、医者は、そう返してきた。

「なんだ、うちでやっていたことを病院でやっているのか。それじゃあ、意味がないじゃないか。姉ちゃん、お菓子があるから大丈夫なんてそんなことはないんだぞ。ご飯はしっかり食べないと、今はよくても、そのうちがりがりに痩せて、大変なことになるぞ。」

ブッチャーは心配になって、そういうが、有希はだまりこんでしまった。

「姉ちゃん。しっかりしてくれよ。一番傷ついた言葉をちゃんと言えたんだから、これからは前向きに動いてくれ。」

「それとこれとは、話が別よ。」

有希はまたがっかりと落ち込んでしまう。

「弟さん、毎日面会に来てくれますが、お姉さんの病状も考慮してあげてください。また食事をとらなくなれば、お姉さんはまた面会が難しくなります。」

ブッチャーは、大きなため息をついた。


一方そのころ、製鉄所では、

「お食事ができましたよ。」

ぽかほんたすのおばさんたちが、お食事の入った皿をもってやってきた。

「お、以前食わしてもらった、何とかさよという料理だな。」

と、杉三が、でかい声でそういう。お皿には、ほとんど全粥に近いお米のおかゆに、イクラをちりばめたものが入っていた。

「ええ。アイヌさんたちのおかゆなんですが、これが、ただの流動食に近いけど、いくらが入っていて、おいしいって、患者さんたちに評判なのよ。」

おばさんは、布団の横にお皿を置く。

「じゃあ食べてみましょうね。それでは、ゆっくり食べてみて頂戴ね。急いで飲み込むとせき込むから気を付けて食べてね。」

もう一人のおばさんは、お匙を水穂の口元に持って行った。水穂はすぐ口に入れたが、飲み込もうとするとうまくできず、咳き込んで吐き出してしまうのだ。

「ああ、やっぱり、難しいのかなあ。沖田先生がおっしゃっていたけど、硬化症の症状で、食道が固まってしまって、気管に入ってしまうらしいのよね。なんだか、四つの難しい病気が一度に現れるというけれど、可愛そうね。」

もう一人のおばさんが、吐瀉物で汚れた口元を拭いた。

「ゆっくり飲み込んでご覧。」

最初のおばさんが、それではともう一度彼の口に匙を入れるが、水穂は、また飲み込めず吐き出してしまった。

「ちょっとみっちゃん、この人の肩支えてやれないかな。」

もう一人のおばさんは、もう起き上がれない水穂の体をそっと起き上がらせる。自身では、座っていることはできないので、おばさんは、その肩をそっと支えた。

「じゃあ、口に入れて、すぐに水で流し込みましょう。そのほうが、確実かもしれないから。」

おばさんは、三度お匙を口に入れて、すぐに枕元のグラスを取り、口の中に流し込む。これでやっと、おかゆが食道を通ってくれたのであった。もう一人のおばさんが背中をさすったりして、食道の蠕動運動を促した。

「どう、おいしい?」

とおばさんが声をかけたが、返答する代わりに咳き込む音が返って来た。暫く咳が止まるのをまって、

もう一度、匙を口に入れされ、水で流し込む作業を続ける。

これを何とか繰り返して、やっと食事を成功させた。とりあえず、お皿の中身は、すべて食べ終わったが、全部食べるのに一時間以上かかった。

「よし、終わり。おいしかった?」

「ごちそう様です。」

水穂は弱弱しく言った。それではと、彼の体を支えてやり、おばさんたちは、水穂を静かに布団に寝かせてやった。もうすでに、筋肉が萎縮していて、体を持ち上げることは本人の力ではできなかった。

布団に寝かせると、少し息切れがした。

「そうか、飯を食うにも、二人がかりか。」

この有様を見ていた杉三がぼそっとつぶやく。

「だけどな、お前さんは人に迷惑をかけているとおもってはいけないよ。それだけを頼りにしておばさんたちは、そういうことをしてくれているんだからな。それは忘れないでくれよ。」

「そうだね、、、。」

水穂は、少しまだ息切れしながら、そう答えた。

「それだけでも重労働にならないように食べることだな。」

杉三にそういわれて、水穂はにこやかにわらっていた。

おなじころブッチャーの姉有希は、ブッチャーの前で、食事についての説教を受けていた。また食べないと体が弱るとか、食べないと対人関係に支障がでるとか、そういうことをひっきりなしに叱られているのだった。

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