41 笑うことは許さない

 自らの内にある過去を探るようにロゼルは沈黙する。

 ややあってから腫れ物に触れるふうにそっと、なにも塗られていない薄い唇を開いた。


「ボクは、自分の性別が分からないわ。身体は男だけどね。気持ちが男だと確実に認められないのよ。でも、女とも言い切れない……性別が分からないとね、自分自身すら定まらなくなる時があるの。そうなると……それをきっかけに、不安だけがすごく強くなっちゃうのよね」


 ロゼルは冷静に語っていく。が、腕を組み直したりセスと目を真っ直ぐにあわせないところから察するに、彼の心中はざわついているのだろう。

 零される言葉の間も、時折いやに長い。


「ボクは性別だけじゃなくて、ボク自身すら分からなくなった時があったの。……色々、やらかしちゃったわ。ただ性別が分からないだけなのに……それだけなのに、それだけのはずなのに。なぜか、それはとても罪深いことに感じられたのよ。……周りのせいにはしたくないけど、正直、他人の目が酷くこわく感じた時があったわ。……ボク自身が、強く否定されてる気がして……うん」


 ロゼルは半ば強制的に自分の言葉を区切る。

 テーブルへと落とされた瞳はどこか遠い過去を見ている様子だった。ロゼルは一度ゆっくりと瞼を閉じる。

 朝の透き通った静寂が、店内を支配した。

 会話が止むと、ぼおと耳鳴りすら感じる。


「人間は……臆病、ですからね。違う存在は、排除したがる……」


 止まっていた空気を破いたのはロゼルではなくセス。

 セスはテーブルの隅に置かれる重厚なアルバ硝子の箱に手を伸ばした。真鍮の細工が施された宝石箱のような長方形のそれは内側にシルクのクッションがついている。色とりどりの薔薇の頭が詰められた箱から一輪だけ指で摘まんで取り出すと、それを指先でクルクルと弄ぶ。

 セスの記憶の底で黒い髪を揺らして少女が笑った。


「ボクはボクを否定されている気がして、自分すら分からなくなっちゃったんだけど……ある時気付いたのよ。ボクは薔薇が好き。ボクはボクがどうなってても、絵本で見たウィッチブラッドだけは好きだったわ。それだけは、絶対に迷わずにいつでも断言できた。そのたったひとつの小さな真実が、すごく衝撃的で嬉しかったわ」


 微笑とともに落とされた吐息はどこか落ち着いていた。


「カニバルブーケの噂が流行りだして、それがウィッチブラッドかもしれないって聞いた時……どんなに得体の知れないものでも、手に入れたいと思ったのよ」


 ロゼルは組んでいた足を解き、姿勢を変える。

 ティーカップに手をそえて、しかし中身を飲むでもなくただティーカップを両手で抱いた。


「……ボクは男なのか女なのか、どちらか判断しようとあらゆることを試したわ。けど、結局ボクはどっちか分からないまま。どちらでもあり。どちらでもない。ボクは曖昧なの……そんな曖昧なボクが、どっちつかずのボクが、唯一ウィッチブラッドだけはどちらの時も美しいと感じられたの」


 ティーカップを掴むロゼルの手に力がこもる。

 指先が白くなるほど、きつく、きつく。


「奇病でも、魔女の呪いでも……関係ないわ。どんな目にあったとしてもウィッチブラッドの手掛かりがあるなら、ボクはそれを追う。ウィッチブラッドはボクがボクであれる唯一の存在」


 ロゼルは静かにセスへ眼差しを上げた。

 ようやく真っ直ぐに目を合わせた彼の瞳に一切の曇りはなかった。


「ウィッチブラッドを手に入れることこそが、ボクの生き甲斐――曖昧なボクが迷わずにボクとして生きられる、たったひとつの理由なのよ」


 ロゼルは声は茨の棘よりも鋭く、どんな大輪の薔薇よりも凛と咲き誇っていた。

 気迫があり、それ以上に気高いとセスは感嘆した。

 その考えに到るまで、きっとロゼルは相当の苦難にぶつかり、心を痛め、セスの想像が及ばないほどの泥水と嗚咽を飲み込んだことだろう。

 得体の知れない異形と相対し、傷を受け、自分もそうなるかもしれないと怯えながらもロゼルは一歩も引かなかった。

 もしかしたらあの惨劇と同じくらいに厳しい出来事を、既に彼は経験していたのかもしれない。

 ロゼルにとってウィッチブラッドとは自分を証明できる存在。

 それに対する彼の想いは本物だ。

 ならば、セスは彼の発言をひとつだけ許せない。


「……なるほど。分かりました。それが笑い話?」

「おかしいでしょ? 人間のくせに……魔女の事情に突っ込んで、本当にごめんなさいね」


 セスはテーブルを叩いて立ち上がった。

 勢いに椅子が揺れ、危うく後ろに倒れかける。


「自分が言いたいのは、なぜそれが笑い話になるんだということです!」


 驚いたロゼルを無視して、セスはまくし立てた。


「あんたは、危険をおかしてでもウィッチブラッドを手にするという強い自分の想いをもっていたんですよね!」

「は、はいっ!」


 ビシッとセスがロゼルを指差せば、ロゼルは肩を跳ねさせつつも素早く頷いた。

 迷いのない肯定が余計にセスの癪に障る。


「なら……なんでそれが笑い話になるんですか! おかしいんですか! 少しも笑えませんよ!」


 セスはロゼルの真剣さを理解したがゆえに、彼が最初に発した『笑い話にしていいわよ』の投げやりな態度が気に食わなかった。

 こんなに真剣で、真っ直ぐで、純粋で、力強い想いを笑い話にしていいわけがない。


「この世に無駄にしていい想いなんて……いらない想いなんてない! あんたが、そう言ったんですよ……!」


 何より絶対に、本人が笑い話にしていいとは口にするべきではない。

 例え誰に笑い話にされても、馬鹿にされても、自分だけは自分の味方でいなくてはならない。それは苦汁を啜り続けていたロゼルならば分かり切っているはずだろう。

 なのに。

 なのになぜ――そんな彼が自分の想いを、誇りをぞんざいに扱うのか。

 いいや、セスは分かっていた。彼の話を聞いて、いままでの彼の店での客とのやり取りを目にして、分かってしまった。

 赤い薔薇は、忌むべき魔女の薔薇。

 そんなものに憧れていると、求めていると口にすれば、偏見の目で見られる。彼の立場からしてそれはあってはならない。

 ずっと隠していたのだろう。

 きっとギルバートも、身内さえも彼にこの想いは知らないはずだ。

 想いは強い。

 同時にとても脆い。

 同じ想いを抱え続けることは難しい。

 隠しているのであれば尚更だ。言葉という形にできないものは知らぬうちに曖昧になってしまう。

 ただでさえカニバルブーケの噂のせいで赤薔薇は注目され始めた。

 悪い意味で。

 人間はカニバルブーケを、赤い薔薇を恐れた。

 その恐怖を薄れさせるために蔑み、嫌悪し、馬鹿にして、嘲笑で存在をかき消そうとする者は多い。

 ここはフラワードーム薔薇専門店。

 薔薇へ想いを込める場所。

 数多の想いが集まる場所。

 現実は、残酷だ。良い想いだけが集まるはずはない。

 彼はどれほど、常識という悪意のない悪意に想いを引き裂かれたのだろうか?

 笑われ続ければ、自分自身でも笑わなくてはいけないことだと錯覚するだろう。

 だが、違う。

 セスは断言できた。

 これは笑っていい話ではない。


「自分は絶対にロゼルの想いを笑いませんよ。あんただって本当は笑われたくないはずだ。自分に嘘をつくな。二度とそう、い……う――――え?」


 セスの言葉が崩れる。

 口を半開きにしたまま、セスは固まった。


「あ……」


 セスの反応に、ロゼルも自分の状況に気が付いたらしい。

 止めどなく碧眼から流れる涙に指先で触れたあと「うわっ!」とセスよりもロゼルのほうが派手に驚いて顔を手で覆った。


「あの……すみません……言いすぎ、ました……」

「ち、違うのよ……こ、れは……その」


 ロゼルは身体を縮こまらせ、ティーカップの隣に頭を落とす。

 ぐずっと鼻を啜る音と震え声にセスの血の気は勢い良く引いた。

 確かに少し言い過ぎてしまったかもしれないと、表情が強張り急激に罪悪感に襲われる。が、それはロゼルから洩らされた一言により吹き飛んだ。


「ありがとう……」

「……え」


 忙しなく虚空をかき混ぜていたセスの腕が静止する。

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