39 幕はきっと降ろせない
◆ ◆ ◆
廊下に出るとセスはすぐに様子の違いに気が付いた。
闇が揺らいでいる。廊下の先にある部屋の扉が一カ所だけ開いていた。
そこから光の筋が伸びている。
「……ロゼル?」
中を覗き込めば、そこは私室。
壁には絵画が飾られ、扉の真正面には書き物机。机の背後にある大きな窓には、やはり厚いカーテンが掛かっていた。
書き物机の側で本を読んでいたロゼルは顔を上げ、セスの立つ入り口に碧眼をやった。
壁に付いた照明がロゼルの血色が悪くなった肌を照らす。精神的に困憊しているのは明らかだ。
「……なにか、ありましたか……?」
「ううん。これと言ったものは、なにも」
「そうですか……」
気まずい空気が流れる。
元より世界から切り離されているような重苦しい室内に、時計の音だけが我が物顔で闊歩する。
「あんたは……」
先に秒針の独奏を邪魔したのはセス。
「カニバルブーケには感染してません」
突然の発表に当惑顔になったロゼルへセスは続ける。
「日記を見付けました。そこに、娘がカニバルブーケになった原因と……カニバルブーケに傷を受けた、奥さんについて書かれていました」
「奥様が!」
ロゼルは半ば投げるように書き物机へ本を置き「まさか奥様も!」と焦りを隠せない様子で一歩前に出た。
セスは静かに首を振って否定した。
「なっていません。怪我をしたあとも、人間のままのようでした……」
普通の人間、とは呼べないだろうが。それでも実質、彼女は人間のままだった。
精神崩壊は起こしても、そこに自我はあったと推測する。
自我があったから、娘に対しての愛があったままだから、彼女は彼女のまま壊れたのだろう。
「日記を読む限り、旦那のほうも同じように怪我をしていたみたいです。そして、それは……ここ数週間の出来事じゃ、ない」
日記に書かれた悲鳴がセスの頭を駆け巡る。
それを振り払うように、セスは自分のもつ魔女の知識と合わせて得た情報を語る。
「カニバルブーケは、薔薇を媒体にしています。感染方法は食べることです」
セスは自分の口を指差した。
「あんたはカニバルブーケに傷付けられたけど、あの薔薇を食べてはない。……だから、感染していな――っ!」
言い切る前にセスの肩が強く掴まれた。
ロゼルがセスに飛びかかる。赤い爪が肩に食い込むほど強い圧がかけられ「大丈夫なの!」
ロゼルが、叫んだ。
「セスはカニバルブーケを食べちゃったじゃない! なら感染したってこと? 大丈夫? 意識は? 自分が誰だか分かる? 一年が何ヶ月か分かる? 一ヶ月は? 一週間は何日?」
「…………馬鹿にしてます?」
「至って真面目よ」
「仕返し……ですか?」
「少しね」
ロゼルは肩を掴んでいた手をパッと放す。
「心配しているのは本当よ。平気なの?」
「まったく問題ありません。ただの魔女ではなく、かの隣人たるブージャムに散々鍛えられたんです……呪いなんて脆弱なもの、自分には利きませんよ」
セスは鼻を鳴らして、見せ付けるように杖を床についた。ブージャムの好みにあわせて作られているそれはセスでは長さがあわず、肩が酷く下がり、関節に負荷が掛かった。
腕が攣る前に杖を床から離して左手にしっかと握る。
「そっちこそ……大丈夫、ですか?」
セスは控え目な声量で訊ねた。
身体のことではない。精神的な部分のことだ。
訊いたあと、セスはなんとなく髪に顔を少し埋めてしまった。
「ありがとう。大丈夫……とは言い切れないけど、整理はつけるわ」
ロゼルは身体の力を抜くように深く息を吐いた。
「あれは、ボクの痛みじゃないもの……」
目を伏せ、空気を揺らさぬほどそっと囁かれたそれは、セスに伝えるために発したのではないだろう。
自分自身へと染み込ませるようだった。
「……ロゼルは、強いですね」
「まさか。逆よ。ボクは弱いわ。自分を弱いと認めて、理解しているから、弱さと向き合った考え方ができるだけ」
ロゼルは赤いルージュが霞んでしまっている唇を噛んだ。
「それができたからって、考えがまとまらないことだってあるわ。理解はしてる。でも、納得のいかないことはたくさんある。……いまも、ね」
ロゼルの眉間に苦々しく皺が寄る。眉が下がり、なにかを堪えるふうに瞼を閉じた。
甘い香りがセスの鼻腔を撫でる。
カニバルブーケとは違う、純粋な甘い香り。
香水よりもずっと強い数多の薔薇からの移り香。
セスの脳裏に美しい薔薇の店が浮かぶ。様々な薔薇を揃えたあの店には赤い薔薇だけがない。
あの店で真紅を纏う彼こそが、その欠けた存在の役割を補っている気さえする。
ロゼルがしっかと視線をセスに向ける。
「…………」
強い意志が碧眼の奥には詰まっていた。彼が何を言うのかはその瞳を見ればすぐに判明した。
それでも彼は自らの口で、それを現すだろう。
「ボクは……やっぱり諦められないわ」
そんな気はしていた。
彼は傷を負ったからカニバルブーケに関わったのではない。
元よりカニバルブーケに興味を持っていたがゆえに、傷を負った。
カニバルブーケに傷を受けても奇病に感染しないという真実は二重の意味で彼を安心させただろう。
「………………」
セスは唇を開いて、閉じた。
「店に、戻りましょう……」
次に口を開けた時、喉から出たのは言おうと思っていたものとは違う言葉だった。
セスは踵を返す。師匠からもらった黒外套の位置を意味もなく何度か直しながら、廊下に出た。
背後が明るいせいで、光と闇の境目がしっかりとしている。
光から出れば、闇が満ちている。
あまったるい死臭が、ここにはある。
「………………」
ロゼルはカニバルブーケにはならない。
ロゼルからはあの赤い薔薇は咲かない。
それは確実だ。
なのに、ここにいると彼から薔薇が咲いてしまう気がして、セスは歩を早めた。
事件は解決した。
セスのやるべきことは終わった。
だが、セスはまだ知らない。
ロゼルがなぜカニバルブーケにこだわるのか。
それは、まだ判明していない。
セスの中にいるわだかまりは、失われていない。
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