38 壊れた家族の日常
「娘を助けるため……魔女に、頼った……?」
日記に入手経路などは書かれていない。
でも、明らかにそうだろう。
だがセスは首を捻る。魔女の中には片手で数えられる程度ではあるが、確かに他者の傷や病を治す力を保つ者もいる。
セスの知る限りその魔女達は皆が物質型。対象に直接触れないと治療は不可能だ。
なによりこの手の力を人間に与えると必ず争いを呼ぶ。
魔女でありながらも聖人や聖女と讃えられ、数多の人間に縋られる。癒しの力を有する魔女の殆どは自ら命を絶ってしまったり、人間どころか同族とも一切の交流を断絶して姿を眩ましていた。
魔女でもその特殊な魔女達の居所を把握するのはとても難しく、余程の伝手がない限り実際に会うことは不可能だ。癒しの力を保つ魔女は、それこそ魔女の間ですら絶滅したと噂される幻の魔女だ。
そんな魔女達の力を借りられるなど、ただの人間ができるはずがない。
奇跡でもおきない限り。
そして、この家族に奇跡はおきなかった。
おきたのは奇跡とは程遠いもの。
「赤い薔薇に人を治す力なんてない……なら、この人達は、一体なにを手に入れたんだ……?」
読み進めれば妻が赤薔薇でジャムを作ったと書いてあった。
驚くことに動けぬ娘の唇に薔薇ジャムを塗った次の日に、娘は目を覚ましたと。
『娘は前以上に元気になった。薄暗かった家に光が戻ってきたんだ。この時はそう思ってた』
したためられた文字は微かに震えていた。
読んで行くと、どうやら日記は妻から旦那に与えられたわけではないらしい。旦那が日記を見つけ、自発的に自分達に起こったことを思い出しながら書いている様子だ。
『娘が目覚めて三日目。娘の顔色が少し悪くなった。妻ははしゃぎすぎたのねと、娘にアイスクリームを与えた。あのジャムをかけて。多分、この時には始まっていたんだろうね』
『娘が目覚めて四日目。娘はジャムをせがんだ。甘いものが食べたいと。妻は娘にあの薔薇ジャムを与えた』
『その日から、娘は食べるものには必ずジャムを塗った。妻は気にせず笑っていた。食欲が戻ったと笑った。この時とめていれば、なにかが変わっていたかもしれない』
『■日。娘は異様に甘いものを欲しがった。でも、ついにあの赤薔薇が尽きた。内心、とても喜んだのを覚えている』
『■日。赤い薔薇が咲いた。妻はあれを僕らの娘だと言う。けれど、僕はこの時もう娘とは年は越せないと何かを諦めたのを思えている。あと一日だったのに……』
『■日。妻が浮気をしていると聞き、妻を尾行した。迷宮区で男と会っていた。結論から言えば、浮気ではない。妻は娘と僕を愛していた。僕も妻を愛している。彼女一人に、あんなことをさせられない……』
『■日。妻の料理の仕方は日に日にうまくなっていった。元々彼女は料理上手だからね……』
『■日。食材が足りず、妻が片足を失った』
『今日。ベッドの下からこの日記を見つけた。暴れた娘に利き手を引っ掻かれてしまって、妻は日記が書けない。随分前から書いてないみたいだけどね。僕が書かないといけない気がして、思い出しながら書いてる。……多分、あっている。大切な娘との思い出だ。あっている。あれは娘だ。大丈夫。娘であっている。大丈夫。また三人で笑おう。こうして三人で年を越せたんだ。温かくなったら庭で三人でお茶会をしよう。甘いものをたくさん用意して』
日記は、これ以降はその日の出来事をその日に綴っている口振りだった。
『■日。妻が新しい食材を見つけた。怪我をしてからこっそりと与えていたらしい。他の食材よりも食いつきが良いそうだ。たしかに昔からあの子は妻のごはんが大好きだった。妻は爪ならまた生えるから問題ないと言う。少し悲しい』
『■日。妻の指が二本なくなった。妻から直接食事を与えたほうが、あの子は喜ぶらしい。あの子の笑顔が間近で見られるから嬉しいと、彼女も嬉しそうだ』
『■日。綺麗な髪だったのに勿体ない……』
『■日。腕がなくなっても爪は生えるのかな?』
そこから日付が一気に飛んだ。
『■日。今日から僕が料理を作らなくちゃ。妻がおいしい食材を残してくれた。少しずつ与えたいと思う。娘想いの良い妻と一緒になれて本当に幸せものだ』
『あの子は随分とやんちゃになった』
『あの子の笑顔のためにも、僕が頑張らないと』
『妻のごはんは今日もおいしいみたいだ』
『あれは僕らの娘だ。■■■■だ。可愛い僕の■■■■。可愛い僕らの■■■■』
『■■■■だ』
『■■■■。可愛い■■■■。■■■■』
そこから先は、全ページが塗り潰れていた。
『■■■■』
塗り潰されていると錯覚するほどに。
名前が、びっちりと、隙間なく書かれていた。
セスは勢い良く日記を閉じた。
「……はっ、……はー……ッ、……!」
いつから自分の呼吸がおかしくなっていたのか分からない。
瞬きを忘れていたようで、目が痛んだ。
「は、……ッ……」
喉が引っ付いている。
無理矢理唾を飲み込んだ。
欲しい情報は得られた。ならばもう長居する必要はない。セスは閉じた日記を見詰める。自然と眉根が寄った。
この日記は証拠となる。ベアトリーチェに見せたほうが良いだろう。
それが正しい判断だと分かるが、セスは日記を当初と同じ積み上げられた絵本の上に戻した。
これは、他者が触れるべきではない。
覗くべきではない。
彼らの家族に対する愛は本物だ。
だからこそ、やるせなくなった。
「……、っ――」
セスは頭を降る。
自分には無関係の人々だと言い聞かせる。飲み込まれてはならない。
セスがやるべきことは惨劇の中で嘆くことではないのだから。
それでも、知ってしまえば湧き上がってくるものがある。こんな壮絶な悲鳴を知ってしまっては、抱いてしまう痛みがある。
日記に綴られている通りならば、娘がカニバルブーケに変異する兆しが現れ始めたのは去年の十三月後半。年明け前に赤薔薇が咲き――――いまは三月後半。もう三月最後の一週間に入っている。
一体、何ヶ月間ここで地獄が繰り広げられていたのだろう。
「…………っう……」
顔が痛いほど強張っている。
「……ううう……」
もっと早く気付いていれば。男性が店にいた時、ロゼルがくるまで呼び止めていれば。もしかしたら――――助けられたのでは?
暗鬱とした感情に背を引っ張られるようにセスは一歩後退り、足が何かを踏んだ。
「――!」
身体が斜めになる。危うく転びそうになり、セスは慌ててバランスを整えた。
ギリギリで耐えたあと、足元を見る。
「あ……」
瑠璃の杖が転がっていた。
床に落としっぱなしになっていたそれが嫌に眩しくセスの目に映る。
どんなに凄惨な場でもその瑠璃色だけは自分を忘れない力強さを放っていた。
セスは杖を両手で拾い上げた。
強く強く胸に抱く。
「…………すみ、ません……師匠……」
他人の事情に、感情に、想いに、喰われている暇はない。
それらに胸を痛めても、惑わされてはいけない。これはセスの痛みではない。
セスの痛みは別にある。
それを取り払うために、ここにきた。
「師匠。ありがとう、ございます……」
足癖の悪い師はセスが後ろを向こうとする度に背中を蹴ってきた。
そしてまた、蹴られた。これ以上蹴られるわけにはいかない。
しっかりと前を向き、セスは足を前に出した。
振り返らない。
セスにはセスのやることがある。
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