36 不器用な父の食事の支度 *
「食欲旺盛でね。妻はもうこれしか残っていないんだ。足りないだろうから、迷宮区から適当に準備してもいるんだけど……難しいんだ。しかも今日はあまり良いお肉が手には入らなくてね。自分のを足してみたんだけど、自信がちょっと」
男性は左腕を掲げる。巻かれている包帯には血が滲んでいた。
真新しい血が、滲んでいた。
間違いない。
彼は既に壊れてしまっている。
この悪夢に、喰われてしまっている。
「お二人が来てくれて良かった。二人分もあれば、まだ足りる。まだこの子は元気でいられる。まだ……妻をあげなくてすむ」
男性は生首を労わる手付きでサイドテーブルに優しく置いた。
血の臭いにあてられたカニバルブーケが激しく騒ぐ。ベッドヘッドが軋み、皮のベルトが身に食い込む。サイドテーブルのほうへと、自分のほうへと、身を捩って暴れるカニバルブーケを気にもとめず、男性はセスとロゼルに意識を刺した。
血走った目に宿るのは不気味な陰。
店で会った男性と、同じとは思えない。
男性の皮を被った別の何かのよう。
男性が膝を折る。
ベッドの下から、ずるりと鋸が引き抜かれた。
おぞましく変色した刃は既に何度も料理に使われているのだろう。
鋸を握り締めた男性の姿も様になっていた。
セスは杖の持ち手に右手をそえる。茨の棘の装飾が施された持ち手の下部の、一部分だけ出っ張っている棘の仕掛けに親指の腹を引っ掛けた。
「ロゼル!」
前方を意識しつつ、セスは背後で固まっているロゼルを顔だけで振り返る。
「部屋の外に出――――」
セスの指示は突如として響き渡った大音に掻き消された。
硬直していたロゼルの肩が跳ね上がる。
ただでさえ硬直していた険しいロゼルの表情が驚愕と悲愴と恐怖と――負の感情の何もかもを煮詰めてごちゃ混ぜにしたような、引き攣ったものになった。
徐々に目を見開いて、震えた唇を唖然と開き、それでも彼の喉からはひゅっと掠れた息しか出なかった。
「!」
セスが顔を戻した時には、人間の頭の中がぶちまけられていた。
黒い爪が頭部に喰い込み、髪を千切りながら頭頂骨を易々と砕く。頭蓋骨という壁を失った脳髄が、沸騰した鍋から溢れる泡のように飛び出した。しかしそこに泡のような軽さはなく、どちゃ、と重く飛び散る。
カニバルブーケが鋭利な爪をベッドに倒れた男性の肩に突き刺し、自分のほうに引っ張った。
息絶えた男性の下っ腹からは何本もの茨が出ている。それらが蜘蛛の足のように蠢いて、皮膚を裂き、肉を掻き分け、骨を退かし、内臓を混ぜていく。
茨はカニバルブーケの頭から伸びていた。それらは男性だけではなくカニバルブーケを拘束していたベルトにも巻き付き、革製のベルトを一本壊したらしい。
カニバルブーケの胴についていたベルトは二本。まだ一本ついている。右腕にもベルトはついたままで、カニバルブーケは左腕と茨だけを使って男性を自らの側に引き寄せて、喰らう。
喰らう。
父親を、喰らう。
やまない粘液質な音。引きずり出された乳白色の膜や筋をまとったピンク色の臓腑が、鮮血に混ざってベッドに溶け出す。重力によって元来の形よりもやや平たくなった臓の間からは、黄褐色の脂肪が潰れたプリンのようにとろけ落ちてくる。
セスの目の前で、ぶぢぶぢぶぢぶぢ……と、新たに肉が裂かれた。
首に噛み付き、人間と同じ形状の歯で、幼い乳歯で、人間の筋肉を裂いた。胸鎖乳突筋が音を立てて引っ張られ、椎骨動脈が喰い千切られる。
連なる筋肉や血管が傷付き、大量の体液が溢れた。
遅れて、セスを飲み込むように押し寄せてくる猛烈な血と脂の生臭さ。
「ぅえ……!」
容赦のない暴力的な臭みに、真っ先に拒絶反応を起こしたのはロゼル。
崩れ落ち、汚れた床をせり上がってきた胃の中のものでさらに汚した。長躯を丸め、肩を小刻みに震わせながら激しくえずく。
「げッ、……ぇぐっ……」
消化途中だったろうパンケーキをすべて外に出しても吐き気は治まらないのか。はたまた吐き気ではないなにかに追い詰められているのか。ロゼルは痛苦に喘ぐ。
「まだ……欲しいですか?」
セスは感情のない声で問う。
意味は通じるだろう。それ以上は言わず、黙ってロゼルを見下ろした。
ロゼルは頑なに首を振らなかった。
懊悩し、逡巡している。
こんな惨状を目の当たりにして、何を戸惑う必要があるのか。
自分の身すら危ういというのに。
なぜこんなものにこだわるのか。
しばらくしてから、ロゼルはただ一言。
酷くか細い、吐息じみた声で。
カニバルブーケの咀嚼音に掻き消されてしまうほどの声で。
「ごめん……」と、だけ。
呟いた。
セスは杖を左手から右手に持ち変え、床を蹴る。
カニバルブーケが赤い頭を勢い良く上げた。
一瞬で間合いを詰め、セスはベッドに乗り上げた。
下から上に、薔薇のブーケを刈り取るように杖を振るう。
だが振り上がる前にすべての黒い茨が杖に絡み付き、動きを止められた。カニバルブーケの左腕がセスに襲いかかる。
セスの表情は変わらない。
持ち手の下部に施された出っ張っている棘がセスの親指に強く弾かれる。握りとシャフトの間にうっすらと空間が開き、てらりと輝く刃が顔を覗かせた。
茨に固定されたシャフトから伸びた刃が、カニバルブーケの腕を遮る。
アアアアアアァァアアアァアァァァ――――!
カニバルブーケが悔しそうにソードスティックの刃を掴んだ。
生臭い唾が飛ぶ。劈く悲鳴に、耳だけでなく五感すべてが揺れた。
そこに、理性はない。
黒い腕が暴れる前にセスは体重を前にかけ、横にしているソードスティックでカニバルブーケをベッドヘッドへと押さえ付けた。
赤薔薇が激しくベッドヘッドに叩き付けられ、ベッド全体が揺れる。
首と手の平を刃に押し付けられたカニバルブーケが衝撃で動きを止めた隙を逃さず、セスは左手の手袋を乱暴に口で外す。
真っ正面から赤薔薇に触れた。
父親には劣るが、それでも、できるなら優しく。
頭を撫でるように、セスは赤薔薇に侵食された小さな頭に触れた。
赤薔薇が、弾ける。
真新しい血液で湿っていた薔薇は瞬間的に枯れ、跡形もなく散った。
それでも充満する膏血の臭いに変化はない。
凄絶な現実の残骸がはっきりと子供部屋には残ったまま。
「……………」
ベルトの内側に残ったのは血に塗れたワンピースパジャマ。
セスは消えゆく茨から解放され、落ちそうになった仕込み杖のシャフト――鞘になる部分を素早く掴んだ。
ベッドから降りるとジャリッ、と室内で感じるべきでない触感を靴底から感じた。不快ではあるが、無視してセスは瑠璃のシャフトに刃をしまった。
手袋を嵌め、左手に師匠愛用の仕込み杖を持ち直す。
深く息を吐いてから、歩き出した。
「あの子が、カニバルブーケになった理由を調べます」
床にへたり込んだままの真紅の前で止まると、セスは平坦な声でやるべきことを伝えた。
「こんな状態です。……なにかしら、あると思います。自分はここを調べますから…………あんたは、別の部屋を」
淡々と言い放つセスにロゼルは俯いたまま反応を示さなかった。
「なにかあったら、言ってください。分かっていると思いますが、勝手に家の外には出ないでくださいね。……あんたも、どうなるか分からないんですから……」
セスはロゼルに背を向ける。
取り敢えず、それなりに原型を保っている棚に向かった。広い子供部屋ではあるが、その大半を占めているのは遊具や絵本。ぱっと見は手掛かりがあるようには感じられないが、現場である以上無視はできない。
ロゼルに任せるわけにもいかないだろう。
そもそもいまの彼の精神状況では見つかる物も見つけられない気がする。なのでセスは調べものは自分一人でするつもりだった。
とにかく彼にはさっさと部屋から立ち去ってもらって、多少なりとも気持ちの整理をしてほしかった。
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