35 それは誰の愛しい薔薇? *

 どづっ! と、凄まじい音がした。

 否、凄まじい音が

 部屋の奥。天蓋付きのベッドの厚い布の内から、音がしている。

 なにかを叩き付ける重い音。

 子供部屋に入った途端に一等えげつない強さとなった異臭から、その狂った気配をセスは察していた。

 見るまでもない。

 見る必要もない。

 ゆえに。

 見たくは、ない。


「………………」


 セスは奥歯を強く噛む。

 見たくない。

 それでも、足はベッドに近付いた。

 自分の無機質な足音が、軋むベッドからの異音に消される。


「…………はっ……」


 呼吸とは違う息が洩れた。唇が嫌に突っ張り、乾く。

 見たくない。

 どうせ分かっている。

 分かっているから、見なくてはならない。

 セスは左手の杖をいつでも動かせるよう構えながら、右手で天蓋より垂れ下がるぶ厚い布を強く引っ張った。

 内側に鮮やかな夜空が描かれている布がはためき、ベッドの中にいた〝それ〟を露わにした。


「なッ……!」


 凄惨な部屋にはさらなる惨状があった。

 ベッドの上にいたものはセスが予想した通りのものだった。

 赤い薔薇。

 人の顔面から咲く、人を喰らう呪いの赤薔薇。

 奇病カニバルブーケの感染者が、そこにはいた。

 幼い身体付きに見合わない巨大な赤黒いブーケの頭と、黒く鋭利に変質した四肢。小さなカニバルブーケは高いベッドヘッドに背を預けるように座らせられ、上半身を二本の無骨な革ベルトで固定されていた。

 裂けた口には捻った布が噛まされている。湿ってボロボロになった生臭い布の隙間から、厚ぼったく長い舌が歪に零れていた。空気に晒されて乾いた舌先が、蛆のようにピクピクと蠢いている。

 と、小さい身体に相応しくない大きさの黒い足が浮き上がり、ベッドを叩いた。


 どづっ!


 ベッドが軋む。

 赤錆た黒ずみに汚されたマットレスが衝撃を受けて激しく痙攣した。

 おさまらないうちに、また――――どづっ! と、黒い踵が叩き付けられた。


 どづっ! どづ……!


 繰り返される。


 どづっ……!


 何度も。何度も。

 何度も。何度も。何度も。

 何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。

 何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。繰り返される。

 呆然と、その光景を瞳に写す。

 セスもロゼルもなにも言えなかった。

 なにも、できなかった。

 嫌な予感はあった。

 この家にカニバルブーケがいるのではないかと予想をしていた。二階に上がり、感じたことのあるあまったるい異臭を鼻にとらえた時、すべてを確信に変えて、覚悟を決めて、ここにきた。

 しかし、こんな異常な光景は想像できていなかった。

 どう考えてもこれは、誰かがカニバルブーケをここで世話しているようにしか見えない。

 そして誰かとは、この場合一人しかいないだろう。


「わっ!」


 セスとロゼルの表情が一斉に強張った。

 弾かれたように声の聞こえたほうを振り返れば、扉の前にトレーを持った男が立っていた。


「えっ、あれ? 君は……ああっ! 店での! あれ? そちらは……マスタークエスチョンローズ? 驚いたあ。ええっと、うちになにか?」


 口元にふたつのほくろがついた男性は店で会った時と変わらない様子で言う。

 いや、少し困った様子だが些細な変化だ。変化が酷いのは彼の表情ではなく服装。嵌められた手袋は赤く染まり、上着を脱ぎ、腕捲りをされているワイシャツにも生臭い染みが広がっていた。


「もしかして、話を聞いてお見舞いにきてくれたんですかね? 嬉しいなあ。まだ外には出られないから、誰かと話せるのは娘も喜ぶよ」


 男性はニコニコと笑顔を浮かべ、一目散にベッドへと進む。

 セスとロゼルの身体は自然と男性を避けた。


「待たせてごめんね。これで最後だから中々手放せなくて……」


 身を捩り、黒い踵でベッドを叩き続けるカニバルブーケへと男性は近付いていった。

 二人はそれを止めることも出来ずに、唖然と見つめる。

 現実が現実に思えない。思いたくない。

 意味が分からなかった。

 なにが起こっているのか、理解が追い付かなかった。否、嘘だ。

 セスもロゼルも、なんとなく察している。

 ベッドに括り付けられたカニバルブーケが男性の娘であると、気が付いている。


「■■■■」


 男性が誰かの名を口にした。

 愛おしそうに吐き出されたその女性名にロゼルは覚えがあったらしい。咄嗟に口元を押さえたロゼルの手から発光石が落ちる。床に転がった発光石をそのままに、彼は現実から目を逸らした。

 慄然と、ロゼルはふらつきながら数歩後退する。

 震える指の隙間から呻きが洩れる。

 セスでさえ痛々しさに言葉が失われた。セス以上に色々知るロゼルならば、余計に辛いだろう。


「待たせたね。ごはんだよね。足りないと思って増やしたんだけど……自信はないなあ」


 男性はトレーをベッド脇のサイドテーブルに置いた。


「パパはママと違うからなあ」


 男性は眉を下げ、苦笑う。ほくろが皮膚に引っ張られて歪む。


「けど、パパ頑張ったから……また喜んでほしいな」


 赤い薔薇に右手を伸ばした。

 愛しい娘の頭を撫でるように赤薔薇の束を撫でようとし「ッ――危ない!」

 セスは叫んだ。

 群生する赤薔薇の隙間から黒い茨が伸び、男性の手が薔薇に触れるよりも早く絡み付いた。

 セスは咄嗟に杖を構え、踏み込もうとした。だが――――「ああっ! ごめんごめん」

 男性は微動だにしなかった。

 笑顔のまま、自分の右腕に絡む細い茨を手袋を嵌めた左手で解く。

 鋭く蠢くおぞましい茨を引っ張り、伸ばし、扱う。防ぎきれずに手袋の固い生地を貫通した棘が左手の肉に刺さっていた。それでも男の笑顔は崩れない。額に汗が滲むだけ。持ち上がっている口端が震えるだけ。


「お腹すいてるんだもね。いま準備するよ」


 なにも危険なことではないと言わんばかりに。

 これが自分達の日常であると言わんばかりに。

 至って普通に、接する。

 親が子に接する当たり前の態度だった。

 当たり前の振る舞いが、壊れた空間の異常さをより一層濃密にした。

 そしてその異常さは、次の瞬間さらに濃くなった。


「食欲が戻って良かったけど……前より食べるから少し心配だよ」


 トレーに乗っていた銀の食器蓋が開けられる。


「これで最後だから、ママにありがとうって言うんだよ」


 とてもとても大切なものを扱うように、男性はそれを皿から持ち上げた。


「パパはママと違っておいしいか不安だなあ」


 男性が両手に持っていたのは、女性の生首だった。

 ぞっ、と肌が粟立つ。

 さすがのセスも、身が竦んだ。


「ママが全部なくなったら……パパは満足させられるかなあ」


 不安げに微笑み男性は生首を見る。

 丸刈りにも近い形で切られた髪は凍結し、冷凍処置がされていたと分かる。

 乾いた皺の深い紫の唇。のっぺとした現実味のない白い肌。筋肉の凹凸がくっきりとして立体感は強いが、生気は無論ない。削がれた両耳の断面には血液の結晶が付着するどす黒く変色した耳介筋が静かに覗いていた。閉じられた瞼は深く凹んでおり、奥の眼窩に眼球が留まっていないことを物語る。

 セスはそれを作り物だと判断した。したかった。

 無理矢理に、生々しい悪趣味な作り物だと自分に思い込ませた。


「……奥様……っ」


 ロゼルの掠れた声が、セスの懇願を打ち砕く。


「どう、して……だって……なんっ……ッ」


 混乱したロゼルがまくし立てるように自分の中に湧き上がった疑問を次々と口にする。が、すべてを言語化しきる前に様々な感情に飲み込まれてしまったのか、彼の声は徐々に力を失い、掻き消えた。

 なぜこんなことになっているのか?

 カニバルブーケがどんな存在であるか知るセスとロゼルならば少し考えれば答えには簡単に辿り着く。


「それが……食事ですか……?」


 セスは吐き気にたえながら訊いた。

 返事が返ってくるとは、思わなかった。


「そうだよ」


 ゆえに、この歪な空間で唯一自分こそが正常であると言わんばかりに普通に答えた男性の姿にセスは戦慄いた。

 この部屋にいる狂った存在は、カニバルブーケだけでない。

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