33 昼食時の嫌な予感
彼の昼食はギルバートお手製のパンケーキ。芳ばしい小麦色のパンケーキにはカリカリに焼かれた二枚のベーコンと目玉焼きが乗っている。薔薇が描かれた皿の端には数種類の葉野菜と小さなトマト、コーンも付属されている。
紅茶の注がれたティーカップの側には場違いな香辛料の小瓶がひとつ。
「セスは砂糖水で良いのよね?」
「ありがとうございます」
ロゼルはセスの前に砂糖水の入った硝子コップを置く。上部は透明な硝子、下部は紫のアルバ硝子で彩られた宵闇を連想させるコップはさらに金彩で精緻な模様が描かれていた。
ロゼルは食事前の言葉を口にすると、真っ先に香辛料の硝子瓶に左手を伸ばす。セスは眉を寄せた。
「相変わらず……それ、やるんですか……」
「家でくらい良いでしょう?」
ロゼルは液状の香辛料が入った瓶の蓋を静かに開ける。蓋をソーサーの隣に置くと香辛料の中身を躊躇なく紅茶へと落とした。ロゼルの纏うコートと同じ鮮やかな赤いそれはとても辛い。
「本当に、好きですね……」
「大好きよ」
一滴。二滴。三滴。四滴――次々と燃えるような雫が紅茶に飛び込んでいく。
ロゼルが甘い物がそう得意でないと知ったのは、セスがクエスチョンローズに訪れた日の夜だった。ロゼルとギルバートの両親は二人に店を任せると別の店を始めたらしく、ここに住むのはロゼルとギルバートの二人だけ。なのでお手伝いさんを雇っているらしく、それが発覚したのはそのお手伝いさんが作った夕食を食べている時だった。
ロゼルに出された料理だけ、異様に赤かったのだ。そしてそこから漂う香りは、それはそれは強烈で、鼻だけでなく目や喉にまで刺激がきた。
彼は辛いものが好みらしい。
些か、否かなり度を越している。
「そういえば……」
ふと彼の手が止まる。
これで赤い雨が止むかと思った次の瞬間。
「五日も経ったけど、カニバルブーケについては分からず仕舞いね」
今度はパンケーキへと雨が降り注ぐ。
香味料は目玉焼きの白身を赤身へと変貌させていった。
「店に来る人にそれとなく聞いてもいるけど、引っ掛かる話題はないわ。身体の調子もいつも通りで……。ベアトリーチェのお薬のお陰か、傷のほうが先に完治しちゃったわ。すごいわねえ。びっくりしちゃった。傷跡がまったくないの」
「…………」
「呪いの印? みたいなのもないし……。ここまでなにもないと感染していないんじゃないかって思っちゃうわね。ああ。勿論、思うだけで気は配っているわよ。なにかあれば言うわ――って、聞いてる?」
「あっ……なんですか?」
セスは釘付けになっていた香辛料から意識を外した。
「食べたいの? 味は感じないのでしょう? ……ああ、においだけでも楽しむ?」
「いりません」
香味料の瓶を掴む手が伸びてきて、セスは大きく顔をそらした。漂ってくる刺激臭を消そうと一口で薔薇を頬張る。果汁が溢れるように甘味がセスの口内で弾けた。
ロゼルは残念そうに腕を引っ込めるとまたパンケーキを赤く染める作業に没頭する。鼻歌まで奏で始め、セスは味覚だけならば彼も魔女に匹敵するのではないかと思った。
ロゼルは指先まで隠す袖とぶ厚いフリルを捲り、ナイフとフォークを装備した。赤みを増した小さなトマトにフォークを刺して、口に運ぶ。
セスも口内に入れすぎた薔薇を頬を膨らませながら咀嚼する。何回かに分けてどうにか嚥下した。
「ねえ」
「いりません」
「違うわよ。お客様の話」
半熟の目玉焼きにナイフが入る。
「どんな雰囲気のお客様だった?」
蕩けた黄身が赤いパンケーキへと流れていった。ロゼルはベーコンの位置を黄身に絡めるように少しズラすと、下にいるパンケーキごとベーコンをナイフで刻んでいく。
「せっかくきてくださったのに、申し訳ないことをしちゃったわ」
「予約、していなかった人ですよ?」
「予約していようがしていなかろうが、店に来てくださった方には等しく平等に、全力で対応させて頂くの。どんな方だった?」
「……男性です」
「見た目は?」
ロゼルは口と手を動かす。
「ほふほはあひはひら」
丸が扇型ヘと切り分けていくのを眺めながらセスは答えた。
「魔女って独自の言語があるのねえ」
皮肉を口にしつつロゼルはパンケーキを切り分けた。赤いパンケーキを一切れ食べる。とても美味しそうに表情を綻ばせた。
セスは薔薇を飲み込む。
「魔女だって、使うのは大陸原語です。言葉が大陸や種族によって変わったら……大混乱でしょう。そんなおかしな世界、こわすぎます……」
「その通りよ。言語は絶対にひとつだけ。だから大陸原語で話してくれると嬉しいわ」
「ほくろがありました」
新しい薔薇を手に取って、セスは言う。今度は花弁を一枚だけ千切り、口に入れた。舌の上でしゅわしゅわと、泡立つような触感は口内だけでなく背筋まで疼かせた。
「ほくろ?」
ロゼルは口にしまおうとしていたパンケーキを一旦止めた。
セスが頷いて、新しい薔薇の花弁を齧ったところでロゼルもパンケーキを食べる。
互いに歯を動かし、喉を上下させた。
セスは右手でコップを握る。ロゼルはナイフとフォークを置き、両手でティーカップの乗ったソーサーを掴んだ。
それぞれ好みの液体を胃袋に流していく。
はあ……。
と、同時に一息ついた。
穏やかな空間で、光が踊る。
羽毛にでも包まれている気分だ。微睡みが近付いてきている気がする。
それに飲み込まれる前に「ここに」とセスは自分の唇の端を指差した。
「ほくろがふたつ。ありました……」
「ああ、あの方だったのね」
覚えがあったらしい。
「そう。いらしてくださったのね」
その口振りには嬉しさだけではなく安堵感も含まれていた。
ロゼルは緩んだ口で元来の味を失った紅茶を啜る。
「あの人、なにかあったんですか……?」
「ご家族が色々とね……」
「ああ……」
セスは本人から聞いた内容を思い出した。ロゼルの表情からして、彼は娘が元気になったことを知らないのだろう。
男性自身もしばらく来られなかったと言っていた。
「娘は治ったって言っていましたよ」
「え?」
「元気になった娘のために、頑張るみたいです……」
良い知らせは伝えるべきだろうとセスは男性から聞いた内容を述べる。
「亡くなった奥さんには敵わないけど、食欲が戻った子供に手料理を食べさせたいと言っていました。今日も、そのために色々と準備していたみたいで……途中で、ここに」
「ちょ、ちょっと待って!」
「はい?」
ティーカップを叩き付けるようにソーサーに戻し、ロゼルはセスの言葉を遮った。
「いらしたお客様って、口元にほくろがふたつある男性なのよね?」
「そうです」
「金髪で、少し垂れ目の方? 年齢は二十代半ばほどの」
「はい。奥さんは、白薔薇が好きだったと言っていました……」
セスが言葉を綴るほど、ロゼルから血の気が引いていく。
ロゼルは微かに震える唇を噛み締め、ソーサーをテーブルに戻すと自分の感情を整理するように額を押さえた。
彼は少しだけ考え込んでいたが、結局渋い顔のままセスと目を合わせた。その碧眼は酷く困惑している。
「あのね」
意を決するように長テーブルの上で指を組み、ロゼルは息を吐く。
「あそこのお嬢様はもうずっと寝たきりなの」
「え……?」
「自宅療養中で……余命宣告もされて、あとは静かに見守るだけ。こんな言い方はしたくないけど、治るはずがないのよ」
「!」
ぞっ、と。背筋を嫌なものが走った。
室温が下がる。アルバ硝子に反射する美しい光すら、いまは温もりを感じない。
喉元に、ナイフを突き付けられているような沈黙。
「奥様も生きていたはずよ……」
自分の手を握り締め、ロゼルは必死に言葉を紡ぐ。
「お嬢様が余命宣告をされてから、気を病んでしまってずっと見ていなかったけど……亡くなったなんて、知らないわ」
後頭部を殴られた気がした。いまにも意識が霧散してしまいそうな眩暈に襲われる。
セスは息を呑んだ。呑みきれず喉が引き攣った。
嫌な予感。
確信はない。唐突すぎる。
それでも、直感的にセスはこの予感は当たると思った。
「ロゼル!」
衝動に駆られ、セスは椅子から立つ。
「あの人の家、分かりますか……?」
ロゼルは赤いルージュをきつく引き結んだあと、覚悟するように頷いた。
多分、彼も同じ予感を抱いている。
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