32 時間外の来客
男性は「えっ」と背後の扉を振り返った。
「あっ……ああ! ごめんごめん。看板、出ていたね」
男性は気まずそうに首の後ろを撫でながら目線をセスに上げる。
セスは中二階の奥を確認。まだ店主は戻ってきそうにない。きっとギルバートにパンケーキを作ってもらっているのだろう。
セスは一段飛ばしに階段を降りて男性の元まで進んだ。
「予約の方ですか? それとも、別の……?」
取り敢えず用件だけでも聞いておこうかとセスは訊ねる。
ストライプの三つ揃いを着た二十代半ばほどの男性は、金眼をセスへと向けた。薄い唇の下にはほくろがふたつついている。
特徴的なほくろを持つ男性は「予約ではなくて」と手を振った。
「もし良ければ……フラワードームの中身を交換してもらおうかと思ったんだけど……」
「交換は、予約の人が優先になっています。予約でない、となると……」
「だ、だよね! 知ってる知ってる! あははははっ……あー……知ってる、んだけど……ちょっとね、うん」
目を伏せ、男性は妙に落ち着きのない様子で頭を掻いた。腕を下ろし、また持ち上げて今度は首を掻く。
「実は……」
男性は首を掻いていた右手で自分の左腕を掴んだ。
「床に伏せていた娘が、ようやく元気になってね。運良く、腕の良い人に巡り会えてね。食欲も戻ってきて、最近はよく食べるんだ。前以上に、元気に動くようにもなって……」
男性の右手に力がこもる。
セスは男性の左腕に包帯が巻かれているのに気が付いた。
「……ああ、これ?」
セスの視線に男性が左手を上げる。手の甲から手首の少し下まで巻かれた包帯に男性は自嘲を零した。
「元気になった娘に手料理でも作ろうと意気込んだんだけど……料理は、いままで妻に任せっきりでね。このザマさ」
「……慣れないと、難しいですよね」
「でも娘はおいしそうに食べてくれるんだよ! 嬉しいなあ」
男性は自分の左手を見つめ、幸せそうに表情筋を緩めた。男性の頬は少しやつれているようで、精神的な疲労が垣間見える。
「せっかくだから、妻には劣るけれど頑張ろうと色々考えてるんだ。考えながら……ふと、ここの前を通ってね。ずっと、来られなかったから……見たら、つい足がね」
店内を見回す男性は懐かしむように目を細めた。
「ここは、妻が一番お気に入りの店だったんだ。だから」
男性の表情が曇る。
「妻にもって、思ったんだけど……いや! すまないね。突然すぎたね! ああっ、それ以前に肝心のフラワードームも持ってきていなかったよ。はははっ」
笑い声を上げながら、男性は逃げるようにセスに背中を向けた。
「マスタークエスチョンローズによろしくと伝えておいて。それじゃあね」
「待ってください」
ノブに手を掛けた男性をセスは呼び止める。
「待っていて、ください」
ノブを握ったまま動きを止めた男性に再度セスは言った。
「そこで、待ってください。勝手に、出て行かないでくださいよ……?」
男性を注視しつつ、セスは中二階へと大股に進む。階段の途中で「行かないでくださいね」とまた男性にしつこく伝えた。
何度も頷く男性を意識しつつ、セスは急いで中二階に上がるとそれを掴んですぐさま下へと戻った。頭上に疑問符を浮かべている男性に「これ」と持ってきたものを差し出す。
目線をセスの手元に下ろした男性は「これは?」と浮かべる疑問符の数を増やした。
「ラストシュガーローズです」
セスは自分の握る白薔薇の品名を答えた。
「ラストシュガーローズの薔薇言葉はいくつかあるんですが、その中に『苦難の終わり』というものがあります」
「へえ……それは知らなかった」
「差し上げます」
「えっ!」
男性は目を見張る。そんな男性を気にもとめず、セスは続けた。
「大丈夫です。これは、自分のですから……自分からの贈り物です。ただ」
セスは店内に吊されるフラワードームを見上げる。
「自分はこれをフラワードームに入れる技術はないので、ピンで留めたり整えたり、飾ったりとかはできません……」
元来フラワードームに入れる花はそのまま入れるのではなく、同じ品種や異なるものを二輪選び、それを専門のピンで留めていた。その際に葉を飾り付けたりもしている。
ロゼルの作業を間近で観察していたので、手間暇が掛かるのは承知だ。
店内に飾られるフラワードームも二輪の薔薇が一輪に見えるように調整されている。
「それでも良ければ、もらってください」
「いや、いやいや! お金は払うよ! ラストシュガーローズって、シュガーローズと違って高い薔薇だろう?」
「気に入りませんか?」
「き、気に入ったよ。妻も薔薇では特に白薔薇が好きだったからね。ラストシュガーローズなんて、きっと大喜びだ」
「なら、良かったです」
「でもね。君、そういう意味でなくて……」
「フラワードームの花は本来は二輪で一輪らしいですが……自分が自由に扱えるラストシュガーローズはこれだけです。半端ですし、貰ってください」
「え、えええ……」
「ここの店主が言っていました。この店の薔薇は、誰かのために心を込めて選ばれるって……。この店に突然足を運んだってことは、突然誰かのために心を込めたくなったんでしょう? なのに、そのまま帰るのはどうかと思います……」
困惑している男性の手を取り、セスはそこに薔薇を乗せた。
「なんでもない日、おめでとうございます」
セスが祝うと男性はしばし白薔薇を凝視する。
男性は両手で薔薇を包んだ。
「あ、ありがとう……!」
満面の笑みで礼を言う男性の目元は微かに潤んでいた。
鼻を啜ってから男性はもう一度、今度はセスの手を強く握って礼を述べる。それからセスに大きく手を振り、兎のように飛び跳ねる足取りで去って行った。
「…………」
ベル音の余韻を感じながらセスは男性に握られた右手に灰眼を下げた。
「……ラストシュガーローズ。あれだけなんですよね……」
セスがロゼルからもらったラストシュガーローズはあの一輪のみ。数に限りがあるラストシュガーローズは値が高く、自分で買うことなどセスには無理だった。
かと言ってロゼルに強請るわけにもいかない。ラストシュガーローズは商品だ。しかもクエスチョンローズでは完全予約制の、限定商品として取り扱われている。
先程のように、タダで一輪もらえただけでもセスには儲けものだった。
「……さすがに……ラストシュガーローズのお代わりは、させてくれないだろうなあ……」
右手を握り締め、重い溜め息をついた。
セスもラストシュガーローズをとても気に入っている。見た目だけでなく、香りも、味も、大好きだ。
残念で、悲しい。
悲しいが、礼を言った男性の笑顔を思い出すと悲しいよりも嬉しくなった。
先程のロゼルの言葉が頭の中で反響する。満足感に包まれた。
「誰かの想いになるなら……良いか……」
腹が鳴る。
空腹だ。
空腹だが、セスは満たされていた。
「そっちでなにやってるの?」
降り注がれた疑問にセスが天井を仰ぐと、中二階から蝶が舞うように真紅の袖が振られた。黒いフリルが光を吸い込みながら揺れる。
真昼に浮く月と紛う金髪が、極彩色の輝きを受けて美しく瞬きながらセスを眺めていた。
「いま、お客さんが……。鍵、掛かっていなかったみたいです」
「嘘ッ! やだ、ごめんなさい。看板は出てるわよね?」
「そっちは出てます。それを言ったら、本人も慌てていました……気付かなかったみたいです」
「対応ありがとう。大丈夫だった?」
「休憩中と言ったら帰っていきました。ロゼルに、よろしくと……」
セスは中二階に上がる。柵の側に立つロゼルに「鍵、閉めました」と報告しながら席についた。腰を下ろしきる前にテーブルに手を伸ばし、小振りの薔薇を捕まえて口に運ぶ。
「行儀が悪いわよ」
咎めるようにヒールを強く鳴らし、ロゼルはセスの向かいに腰掛けた。
長テーブルにはパンケーキが置かれている。
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