31 誰かの想い

 ◆ ◆ ◆


 色鮮やかなアルバ硝子の嵌め込まれた窓から極彩色の光が射し込んでくる。

 フラワードーム薔薇専門店クエスチョンローズの中二階にある長方形の作業台の傍ら。セスは窓辺の床で縮こまっていた。

 下から柔らかく響いてくる店主と客のやり取りは、夢現な思考でははっきりと聞き取れない。まず、聞く気もない。

 ぼやけた音は七色に輝く昼下がりの太陽光の温もりと穏やかに混ざり合い、セスの微睡みは深まっていく。もはや自然と落ちてくる瞼の重みすら心地良い。視界がホットミルクよりも白くなった。

 視覚が完全に閉じる。

 それでもなぜか他の感覚は敏感で、セスは自分が起きていると思う。

 ふ、と角砂糖が転がるように、どこからか甘い香りが漂ってきた。


「なんて格好で寝てるのよ」


 途端にセスは双眼を見開いた。


「……あ……」


 自分でも驚くほど勢い良く顔を持ち上げたセスは碧眼と目が合うと硬直した。


「起こしちゃった?」


 動きは早かったくせに頭は回っていないセスはその問い掛けに瞬きだけを繰り返す。

 セスは自分の背後にある窓から流れ込む極彩の輝きを吸い込む濃い真紅を見つめ――甘い香りに改めて殴られてから、ようやく現実に焦点を合わせた。


「……寝て、ないです……」

「明らかに寝ぼけていたわよね?」


 相変わらずのドレスじみたロングコートが強い存在感を放つ。今日の服は長い袖につくフリルが、黒フリルとレース生地の二段構えだった。裾の部分もそうで、ボリュームがとても増している。頭には薔薇に飾られたベール付きの小さなトーク帽が乗っていた。

 彼は毎回似たような格好だが、似たようなであって絶対に同じではない。セスはそこにまた強いこだわりを感じた。


「意識はありました……ただ、……ぼうっとして……」

「今日は暖かいものね」


 赤いルージュに彩られた唇を三日月にしたロゼルにセスは欠伸を返す。

 まだ身体がふわふわとして、脳味噌がぶれている感覚に抱かれた。嫌な気分ではないがどことなくむず痒い。

 まるでマシュマロでも詰められている気のする頭をセスは軽く掻いた。


「お客さんは……?」

「お帰りになったわ。待たせてごめんなさいね」

「殆ど記憶にないので……待った気はしません」

「やっぱり寝ていたんじゃない」


 ロゼルは小さく肩を揺らした。彼の薄い耳朶を飾る長いチェーンのピアスについた飾りは、アルバ硝子からの光を反射してより美しさを際立たせる。

 あれから五日。ロゼルは変わらずにロゼルだった。

 警戒してラジオや蓄音機などの音響機器からは極力離れ、外出も必要最低限にしてもらい常にセスが付き添っていた。買い物の時はていの良い荷物持ちにされていた気もするが、お下がりで服を何着かもらったり、新しい服も買ってもらってしまったので文句はない。むしろ、最近ではそれくらいしか出来ることもないので進んで荷物持ちになっている。

 店では人間以外の客が紛れていないかと、営業中は中二階で警戒していた。が、この五日間店内は勿論、店外にもこれといったおかしな気配は感じられない。

 三日目の昼にベアトリーチェが訪れ、傷の確認とともに話をしたが相変わらず呪いを示す印はロゼルのどこにも見られなかった。記憶障害や、体調不良などの変化もない。

 ベアトリーチェ曰わく、呪いに有効期限などはないので症状が出るまで待つか、呪いに感染していないという明確な証拠が見付かるまでは離れないほうが良いだろうと。無論、セスもそのつもりだ。ここまできて、途中で放るなど有り得ない。

 それにこの店にいるとセスにとって利益になることもあった。


「セス。これ今日の分」


 ロゼルが艶やかな絹張りの箱をセスに差し出した。手刺繍で小花模様が描かれているそれはご丁寧に真珠貝性の鍵穴がついていた。


「待っていました!」


 セスは飛び跳ねるように腰を持ち上げると、ロゼルに右手を伸ばした。

 開かれた箱の中には数輪の薔薇が入っていた。

 すべてが茎のない頭だけの状態で、花弁は弱々しくなっている。やや変色している部分もあり、すべてが枯れ始めている薔薇だった。

 これらはフラワードームに入っていた薔薇だ。

 クエスチョンローズはフラワードーム薔薇専門店。掲げている通り取り扱う花は薔薇のみであり、そうなれば客が交換を頼むフラワードームの中身も薔薇のみである。


 交換され、破棄される薔薇の存在を知ったセスはロゼルに頼んでそれらを譲ってもらっていた。

 物価の高い王都でタダで食事ができることはセスにとって最高の至福。しかもクエスチョンローズの薔薇はどれも品質が良く、多少枯れた程度で味は薄れない。

 セスは箱に手を伸ばし、一輪摘んだ。


「なんで、いらない薔薇までこんな綺麗な箱に入れるんですか?」

「いらなくはないわよ」

「いらないから、交換を頼まれたのでしょう……?」

「確かにこれらは枯れ始めて交換を頼まれた薔薇だわ。でもね、同時にこの薔薇達は選ばれた薔薇なの。誰かが誰かのために心を込めて選び、フラワードームに大切な想いとともに飾られていたのよ」


 ロゼルは慈しむように枯れ始めた薔薇を見た。


「フラワードームから出されたからって、決していらないわけではないわ。役目を終えただけで、想いはそのままよ。このあともまた、想いは新しい薔薇に紡がれていくわ」


 濃厚な白さを持つ花弁を指先で柔らかく撫でる。彼が触れる中輪八重房状平咲きの豪華な薔薇は結婚式で好まれる品種だった。


「……想い、は…………」


 セスは自分が摘んだ薔薇を注視する。

 小輪半八重い咲きの明るいオレンジ色の薔薇はトイローズと呼ばれ、出産祝いや子供の成長を祝って誕生日に贈られることが多い薔薇だ。


「無駄にしていい想いなんて、この世には存在しないとボクは思うの。いらないものなんてないわ」


 薔薇に見入っていたセスは顔をもたげる。

 光に撫でられるロゼルの表情は、とても和らいでいた。


「さて、お昼の準備をしなくちゃね」


 ロゼルは箱を作業台を兼ねた長テーブルに置くと他の薔薇を見繕い始めた。手際良く複数の薔薇を集め、真っ白な布を箱の側に引くとそこに薔薇達を乗せる。


「もう……お昼ですか……?」

「うん。寝てて感覚が狂っちゃった? ごはんの時間よ。お店は休憩。他の従業員もお昼を買いに出て行ったわ。セスも、それだけじゃ足りないでしょ? これ、食べて。待たせたお礼にラストシュガーローズもどうぞ」

「良いんですか……?」

「うん。先に食べて待ってて。足りなかったら増やすから」

「ありがとうございます」

「いいえ。ボクも昼食の準備をしてくるわね」


 ロゼルはロングコートを清楚な仕草で翻した。カッ、とヒールが鳴る。彼の仕草はひとつひとつが美しく整っているとセスは思う。

 その横顔は常に凛と前を向いていて、カニバルブーケの脅威に晒されているのを忘れそうになるほどだ。

 真紅が中二階を去っていくのを見送ったあと、セスは改めて手元の薔薇へと注目した。


「誰かが、誰かに……か」


 ここ数日、店にくる客とロゼルのやり取りを密かに眺めていたが、フラワードームに入れる薔薇に悩む者はとても多かった。好みの花形や色で選ぶだけでなく、薔薇言葉を意識してロゼルと相談しながら客達は薔薇を選定していた。

 そして皆、最後には必ず笑って「ありがとう」と店を出て行った。

 セスがもらう薔薇達も、最初はああやって誰かがたくさんの想いを詰めて選んだもの。

 そして役目を終えたあとは、次の薔薇に役目を引き継いだ。


「確かに……いらない薔薇では、ないですね」


 セスは食べる前に、考えを改めた。


「たくさんの想いが詰まった薔薇を食べられる自分は、とても贅沢なのかもしれません……」


 誰かのためを想われた薔薇に、感謝を込める。

 感謝を込めて、セスはそれを口に含んだ。


「――――あの!」

「ぶほっ!」


 扉の開く音が店内の甘い空気を揺らした。

 ベルの音に混ざって中二階まで響いてきた声に、完全に油断しきっていたセスは飛び上がり、衝撃で噎せる。


「ぇほっ……! ぐッ、んんッ!」


 変な場所に入った花弁が逆流し、鼻から出てきそうになった。胸を叩き、喉の半端な位置にいる薔薇を強く飲み込むと「は、はい!」とセスは柵から下を覗き込んだ。

 両開きの扉の片側を開け、店内に男性が入ってくる。

 アルバ硝子製の扉から滑り込む光に照らされて明るい金髪が輝いていた。


「すみません……いま、ッ、休憩なん、です……」


 セスは柵に片手をつきながら言う。喉がまだおかしい。口元を袖で押さえながら鼻を啜った。

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