23 崩れたタルトの始末の仕方
セスは汽車でカニバルブーケと化した者が誰であるかを実は知っていた。正確にはカニバルブーケとなる前の姿を、人間としての姿を、多分セスは見ている。つまりカニバルブーケは紛うことなく、元は人間だ。
噂通りに赤薔薇と変異し、人を喰らうようになってしまう奇病――カニバルブーケ。
人が化物と化すおぞましい噂は、真実だった。
ロゼルもあの人間と同じように薔薇が咲くかもしれない。そうなったらセスはあの人間と同じように、カニバルブーケと化したロゼルを喰わねばならないだろう。
しかし、セスにとって男とロゼルは同じではない。
セスはロゼル個人を知ってしまった。
ただの人間ではなく、名を知り、中身を知ってしまった。
汽車の中で世間話を交わした時から彼には好印象を抱いた。それゆえカニバルブーケが現れた時、彼に危害がないようわざと魔女と名乗り、彼を遠ざけようと考えた。それが裏目に出た。
そこからは、後悔の連続だ。
「崩れてしまっただけ。食べられるわ」
ベアトリーチェが食器棚へと足を動かす。
セスは緩慢に青くなった顔を上げる。ベアトリーチェの背中をどこか恨めしい眼で見て、それから力のない動きで扉へと視線を流した。
「…………」
扉に隔てられた向こう側。廊下の傍らにある書斎の先を見透かすように、セスはじっと扉を睨む。セスの表情には濁った焦燥感が滲んでいた。
きつく噛み合わされた歯がぎちりと鳴る。
セスは扉から顔を逸らし、目を瞑った。箱から離れていた手がテーブルの上で指先が白くなるほどに握られる。
「………、……ッ」
これ以上後悔をしないようにと距離を取ろうと考えたが、結局セスはそれができなかった。
あの男にとった態度と同じように、興味がないふりをすれば良かった。
心配など、していないふりをすれば良かった。
ロゼルがカニバルブーケになってしまったら、いまのセスはロゼルだったカニバルブーケを殺せない。
だからこそ、セスはベアトリーチェを頼った。
ベアトリーチェに傷を診てもらうという理由で彼を彼女の元に連れて行き、ベアトリーチェにロゼルを片付けてもらおうと願った。
カニバルブーケが本当に呪いなのかは分からない。けれどもそう噂が立ち、実際に人間がカニバルブーケになるのであれば、魔女としてはカニバルブーケは厄介な存在だ。
平穏に暮らすためにも、魔女は絶滅したと思われていなくてはならない。
魔女の呪いと呼ばれる奇病カニバルブーケが実在すると世に知られれば、それが魔女の呪いであろうとなかろうとお構いなしにまた人間は魔女を狩ろうと躍起になるだろう。それだけは阻止しなくてはならず、その想いはセスよりもベアトリーチェのほうが格段に強い。
セスはそれを利用しようとした。
平穏な暮らしを望む魔女ならば、カニバルブーケになるかもしれない人間を放ってはおけない。
ベアトリーチェはセスよりも断然強く、ブージャム以上に人間に厳しく、誰よりも恐ろしい魔女だ。ブージャムの不始末をベアトリーチェが裏で片付けていたことを、セスは知っている。
ベアトリーチェなら、カニバルブーケに感染したかもしれない人間をそうしてくれるとセスは確信をもっていた。
確信をもって、セスはロゼルをベアトリーチェの元へと連れてきた。
そんなセスの狡い考えは彼女にはお見通しだったらしい。
「…………」すみません。
と、言いたくなったが、すみませんで済むはずはないとセスは嫌に乾いた唇を噤む。それでもなにかを言わねばと、妙に急き立てられた。
セスは無理にでも喉を震わせようとして「食べなさい」
食器棚から戻ってきたベアトリーチェに一足早く銀のケーキサーバーを差し出され、セスからはひゅと掠れた息だけが零れた。
セスは中途半端に開いた唇を閉じ、生唾を飲み込む。
「……自分は、味を感じません……」
「そうね。でも、食べられるでしょう?」
ベアトリーチェの細い指先がセスの右腕に触れた。
セスはつい腕を引っ込めそうになったが、それよりも早く蛇が絡み付くようにベアトリーチェがセスの手首を掴む。
「味のないものを食べるのはいやよね。けれど、食べられないわけではないものねえ……」
彼女は冷え切ったセスの手にケーキサーバーを握らせた。
ケーキサーバーを掴むセスの右手を、ベアトリーチェは両手で包み込む。
逃がさない。と、言われている気がした。
逃げるな。と、叱られている気がした。
「持ってきたものは、自分で食べなさい」
ベアトリーチェの言っているそれがケーキを指す言葉ではないと理解できないほど愚鈍ではない。
「大丈夫よぼうや」
ベアトリーチェはケーキサーバーを握るセスの手の甲を慰めるように撫でた。
「なにかあれば、仕上げだけはお手伝いしてあげるわ。安心して」
ベアトリーチェの手が離れていく。
もうその手にすべてを頼ることは許されない。
セスはケーキサーバーを強く強く握り締めた。自分の顔を映すほどに光沢のある銀のケーキサーバーが、ナイフに思えた。
「本当に、まだまだ目のはなせないぼうやだわ」
セスはベアトリーチェに擦り付けようとしたのだ。
責任を擦り付けようとした。
自分の罪悪感を薄めるために、ベアトリーチェにすべてを擦り付けようとした。
「わたくしは彼を診てくるわ。彼が彼のままだったら……傷が残らないよう処置してあげる」
そしてそれは、駄目だと叱咤された。
そんなズルは許されない。
「んふふ……随分と待たせてしまったわね」
ベアトリーチェが沸騰している湯に向かう。
蓋を鳴らすやかんを黙らせた。
「きた時は人間だったけれど……いまは、どうかしら?」
ベアトリーチェの笑い声を聞き、セスは彼女がわざと時間をかけているのだと悟った。
故意にゆっくりと動き、書斎に残したロゼルがカニバルブーケに変異しないか様子見をしていたのだろう。
もしかしたら、セスに荷物を理由に廊下を行き来させたのも、意図的に書斎の前を通らせて中でなにかが起こった際にセスへといち早く気付かせるためだったのかもしれない。
実際に廊下を通る度にセスは書斎を意識してしまっていた。もし書斎から少しでも異音がすれば、確実に中を確認していただろう。
「セス。紅茶の淹れ方は知っているわよね?」
「師匠に、淹れていました……」
「では、頼んだわ」
スカートを両手で楚々と摘み上げると、ベアトリーチェは足音もなく廊下へと消えていった。
セスは廊下の動きを探って神経を研ぎ澄ました。
「………………」
これといった異音はしない。
セスは扉を、扉の向こう側を座視する。少しの間、凝然と気を配っていたが、なにも変化はなさそうだった。
ただ窓から差し込む光が白から蜂蜜色に変わってきただけ。
これからすべてがゆっくりと赤に染まり、昼の短さを名残惜しむように深い黄昏がしばらく世界に居座るだろう。
世界が金色に輝く夕刻に太陽を惜しんで開かれる茶会は金の茶会と呼ばれる。いまはお茶をするにはまさに丁度良い時間帯だ。
「………………」
ベアトリーチェは戻ってこない。
セスは立て掛けてある瑠璃の杖を見る。五秒、十秒――三十秒以上見つめ、湯が冷めてしまうと視線を逸らして動き出した。
ティーポットとカップを温めたら潰れたタルトをどうにかしようと考える。
自分の手で、どうにかしなければと考える。
セスはぼうやだが、片付けができないほどのぼうやではない。
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