19 非現実的な空中散歩
「ッ――なっや、ええっ! なにやって」
「体勢、辛いですか……?」
「そういう話じゃなくて!」
「じゃあ行きましょう。あまり騒ぐと、舌を噛みますよ」
セスは自分が伝えたいことだけ述べると返事も待たずに勢い良く白い石畳を蹴った。佇む集合住宅だろう高い建物の壁へと飛躍すると素早く外壁を蹴り付け、それを繰り返してセスは人ひとりと荷物を抱えたまま難無く屋根まで到達する。
あってないような薄い靴底が固い屋根を叩いた。
「っ」
透き通った風が抜ける。
「…………うわあっ!」
前髪が風に遊ばれて浮き上がり、視界がひらけた。
砂糖菓子のように白い縦長の建造物達の隙間で極彩の影が踊る。
高い青空の中心にいる小さな太陽の光を増幅させ、爛漫と咲き誇る花の如く優美さを兼ね備えた白い世界で微笑む光の影にセスは鳥肌が立った。背筋を気持ちの良い疼きが駆け上がり、四肢が震えそうになる。妙に目の奥が熱い。
風に絡め取られたロゼルの甘い香りがセスの周りに漂う。そのせいもあって、花畑を見ている錯覚に陥った。
「すごい……」
息が詰まり、胸が締め付けられた。
心地良く、なのにどこか切なく、うまく言い表せない熱量を身体の奥で感じる。
「……師匠にも、見せたいなあ……」
思ったことを独り言のように口にした時、視界の端で師が笑った。「!」セスは素早くそちらを向く。
ロゼルに預けている瑠璃色の杖が太陽の光を受けて高らかに笑っていた。
師匠の咲かせる薔薇と同じ色の杖。
師匠が大層気に入っていた、師匠の杖。
「………………」
セスは真っ直ぐに顔を上げて、彩られた世界を見渡す。
「……すごい、ですね」
セスは言った。
今度は独り言ではない。
笑う師匠に伝えるために、言った。
傍で、ちかりと瑠璃色が豪快に笑う。セスも熱をもった頬を緩ませた。
「ボクも、すごいと思うわ……」
抱えるロゼルがげっそりと零す。
弱々しい声に、セスは大きく反応した。
「本当に、すごいです。美しいです!」
「ああああっ落ち着いて! 落ちる! 落ちる!」
「白いのに、キラキラしてます! すごいですね!」
「ああああああああっ!」
斜めになっている屋根の上で、セスはロゼルを抱えたまま安定しているどころか楽々とした動作ではしゃぐ。高揚感に包まれるセスが嬉々と飛び跳ねる度にロゼルの顔から血の気が引いていった。
セスが落ち着いた頃にはロゼルは汽車で初めて出会った時と同じ表情になっていた。
「どうしました? もしかして……乗り物だけでなく、魔女酔いもするんですか?」
訝しむセスにロゼルは答えない。ただ「空中散歩って素敵ねえ。空がきれいだわ」と現実を見ていない答えをか細く洩らした。
「大丈夫ですか?」
「キミが、これ以上飛び跳ねなければ……」
「分かりました。……で、ベアトリーチェの家の方向は?」
「ああ……ええと……」
ロゼルは薄い雲の流れる青空から目をそらし、地上を眺望する。
セスに道順を説明をしながら道を顎でしゃくった。が、あいにくとセスにはその道のりが面倒に感じられた。
なのでロゼルが教えてくれた下から行く道順ではなく「あそこに行けば、すぐよ」と、最終的な目的地にのみ注目した。
「そこの通りに降りましょう。あそこなら人目はッ!」
セスはロゼルの提案を無視して屋根を蹴った。
アルバは大通りを外れると建物が密集し、道幅も狭いので屋根伝いに移動できた。
セスはロゼルと荷物を抱え、建物と建物の間を軽々と飛び越える。
ロゼルが最終的に示した場所に近付くにつれ、人のざわめきが減っていく。建造物も減り、建物同士の密集具合もなくなって距離が出てきた。
中心部から離れて行くのを感じつつ、セスは人間ならば飛び越えるなど有り得ない幅も易々と飛躍し、民家の屋根から街灯へ飛び移ると細道へ飛び降りた。
近くにいた若い御者が落ちてきたセスに裏返った悲鳴を上げる。側にいた白馬も驚いて頭を振り乱し、前脚を持ち上げた。御者がすぐさま馬を落ち着かせるための緩めていた手綱を引いて、声をかける。
セスは側で繰り広げられるそのやり取りにも顔色ひとつ変えず、ロゼルを下ろした。
「ここから、どう行くんですか?」
返答がない。
「酔いました?」
「…………精神的に」
壊れる寸前の自動人形よろしく緩慢な動作でロゼルは空を仰ぐ。彼は静かに深呼吸を繰り返した。
「杖、ありがとうございます」
どことなく目が据わっているロゼルから杖を返してもらおうとセスは手を伸ばす。ロゼルが杖と鞄を一緒に持っている腕を掲げ、そこからセスは杖だけを受け取った。
「こっち。少し歩くけれど……」
「どれくらいですか?」
「五分もかからないわよ」
「顔色が良くないですし……抱えましょうか?」
「地面に足がつくって素晴らしいことね」
ロゼルが感慨深く前を見据えながら先に歩いて行ってしまう。地面に叩きつけられるヒールの音はどこか幸せそうだ。
赤い足音と並んで進むそこは、随分と落ち着いた区画だった。賑やかな中心部から適度に離れ、建物以上に木々が増え、うっすらと雪化粧をした緑が溢れている。
白い外壁にも蔓草が絡み付き、薄い太陽を極彩色に着飾らせるアルバ硝子の輝きを気持ち良さそうに受けていた。
明らかに市外に向かっていると分かる風景だ。
「…………急に、馬車や車が出てきましたね」
「ここの辺りは規制区域じゃないからね」
ロゼルの意識が広い道に向かう。
道の真ん中には旗を両手に持ち、口に警笛を加えた制服姿の男性がいた。
「アルバは
「していました!」
セスが鼻息荒く頷けばロゼルは赤いルージュの端を緩やかに持ち上げた。
アルバの街並みにセスは始終気持ちを高ぶらせる。
ゆえに、セスは目に付くもの興味を惹かれたもの、余すことなくロゼルに訊ね、表情筋を和らげて答えてくれる彼につられて口元を緩めた。
師匠亡き後、山奥でずっと一人で気持ちの整理をしていた時期はセスにとって悪いものではなかった。
それでも、やはり、一人は寂しい。
だからこそこうしてまた誰かと会話ができるのは嬉しかった。
魔女と知りながら普通に接してくれることにも嬉しさを感じた。
嬉しくなってしまった。
理性より感情が先走る。
幸福感が、先走る。
嬉しくて、嬉しすぎて、あれほど自分に言い聞かせていた距離感をセスは呆気なく崩し、人間と対等に笑い合う。
そのせいでセスはこのあと突き付けられた現実に、喜んだ自分を心底殺したくなるほど悔やんだ。
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