09 意図せず繋がる縁の行方
セスは現実を見据え、思考を切り替えた。
「背中……」
「えっ?」
「背中、大丈夫ですか?」
セスの問い掛けにロゼルは虚を突かれた様子で固まった。
「あ、ああ……痛い、わね……」
ほんの少し間を置いてからロゼルは肩に手を添え、顔だけでそっと自分の背を覗き込む。
「なら、早く戻りましょう」
ぱきり、とチョコレートを噛むように呆気なく空気を変えたセスは続ける。
「カニバルブーケに怪我を負わされたあんたを、こちらとしても放っておくわけにはいきません。人間がどうやってカニバルブーケになるか分からない以上、一人にさせられませんから……好都合です」
セスは都合が良いふりをする。
彼が逃げた際は追わずにいようと決めていたがゆえに、本音は面倒という気持ちが強かったが、口にしたことも嘘ではない。奇病カニバルブーケの感染経路が不明ないま、カニバルブーケに傷を負わされたロゼルが今後どうなるのか気にはなった。
逃げた相手を追ってまで解決したいとは思わないが、相手からこちらに関わろうとするのなら話は別だ。
セスは落ちている衣服に目を流す。
薄い雪に落ちる汚れた服。混濁する残り香に一度鼻を鳴らしてから、顔を真紅に戻した。
予想外の展開だったのか、ロゼルは静かに動揺している。赤いルージュから溢れる二酸化炭素は妙に濃い。人間にはこの寒さは厳しいはずだ。彼は服も破け、傷付いた肌が晒されている。長居は良くない。
「戻りましょう……」
セスが歩き出せば、自然とロゼルの手が離れていく。
二人分の足音だけが凍える夜の森に反響した。
◆ ◆ ◆
「痛みは?」
「少し……傷自体は思ったよりも深くないと言われたわ。ただ、アルバに着いたらすぐに医者に診せるよう言われたけれど」
「カニバルブーケの傷が、人間の医者でどうにかなるとは思えません……」
「そう、よね」
「アルバに着いたら、一緒にきてください……ベアトリーチェに、会いに行きます。ベアトリーチェはとても古い魔女です。彼女に助言をもらいたいと思います」
伝えるとロゼルはゆっくり頷いた。
セスとロゼルは同じ客室にいた。あの後、汽車に戻った二人は狼に追い掛けられて外に出てしまったと乗務員に説明をした。その際にロゼルは狼に襲われたと適当に話を作った。彼は応急処置を受け、色々と乗務員とやり取りをするとセスの客室に移動することで話をまとめた。
ロゼルの客室はカニバルブーケにより酷い有様ではあるが荷物に被害はなく、それらをセスの客室に運ぶと二人はようやく一息ついた。
謝罪の言葉とともに用意されたホットワインをロゼルが両手で包み、口に運ぶ。
「温かい……」
安堵感を含む自然と落とされた感想。
治療を受け、着替え、温かな一等客室で香辛料入りのホットワインを飲むロゼルはようやく肩の力を抜いた。
魔女を恐れず、奇病にこだわり、その赤い薔薇を求める振る舞いから精神的な部分も異常かと思ったがそうでもないようだ。むしろ気持ちが落ち着いて冷静に現実を見直すことができたのか、発光石に照らされるロゼルの顔色は今更になって悪い。
カニバルブーケの影響が出たのかとも一瞬疑ったが違う。そして乗り物酔いとも確実に違う、精神面からくる不調。口数は減り、セスともあまり目を合わそうとはしない。あまりにも普通の人間だ。
ロゼルは呼吸だけを繰り返す。
だからセスも黙って、耳鳴りがするほどの夜の深まりを感じていた。
「セスが《薔薇喰いの魔女》で良かったわ」
しばらくして、ロゼルが穏やかな吐息とともにそう吐き出した。
セスは伏せていた目線を上げ、眼球の動きだけでロゼルを見上げた。
「ボク一人だったら……どうにもならなかったでしょうから」
先程までの威勢はホットワインにでも溶かしてしまったのか。ロゼルは囁くように言の葉を夜気に落とす。
「そう思っているのなら、大人しくしていてください……」
セスは腕を組む。尖った溜め息を投げ付けた。
「カニバルブーケ……まだ、欲しいですか?」
「諦める気はないわ。キミには厄介な相手でしょうけど、ごめんなさいね」
顔色は悪いままなのにセスが呆れるほどの即答だった。
しかも怯みのない屈強な意志が含まれている。同時に、傷を負ったのは自分なのにこちらを気遣うロゼルにセスは何の反応も返さず背もたれに深く体重を預けた。柔らかい背もたれに身体が沈む。テーブルの下でずるずると脚を伸ばす。
「カニバルブーケだけでなく、薔薇にまつわる魔女に出会えたのは……きっと何かの縁ね」
思いふけるような眼差しでホットワインを凝視するロゼルが、か細く零した。
「なにかの、縁……」
セスは首を引き、顔の半分を首に巻く髪の束に隠す。
「……良い縁な気は、しませんね……」
セスの感想はロゼルには届かず、白い雪に飲まれるように髪の中で消えた。
まだ汽車は動かない。
それでも冷静な口調と丁寧な所作で己を着飾って乗客達を安心させようと行き交う乗務員達のお陰で混乱は去った。
セスは自分に用意された蜂蜜入りのホットミルクを前髪の隙間から窺う。
穏やかな湯気。喧騒の落ち着いた空気。
いま奏でられているのは二人分の呼吸音のみ。緊張感から解放されると反動からか眠気が押し寄せてきた。
カニバルブーケは本当にいたのだろうか?
そんな疑念が微睡みとともにセスへと訪れる。
あれは狼だったのではないか?
突然の出来事に錯乱し、見間違えただけではないか?
「………………」
ロゼルの姿がセスの寝ぼけ眼に飛び込んできた。
裂けた服を脱ぎ、真新しい黒のシャツに身を包むロゼル。装飾品のつけられていないシャツは胸元のボタンがみっつ開けられ、随分とゆるく着られている。
そこから覗くのは素肌ではなく包帯。彼の身に、しっかと包帯が巻かれているとセスは知る。
痛々しい様子が、セスに現実を突き付けてきた。
「くだらない……」
半分夢に浸りながら逃避したがる自分の考えを一蹴して、セスは薄く開いている灰眼を完全に閉じた。
◆ ◆ ◆
黒い髪が揺れる。
黒い髪が揺れる。
ケラケラと揺れる黒い髪から、セスは必死に逃げていた。
これは夢だとすぐに気が付いた。
気が付いて、しかし、それでも夢は覚めず――逃げていた。
足が思う通りに動かない。
身体は重くなり、進んでも進んでも進まない。
意地悪な笑い声が後ろからセスを追い掛け、追い詰め――――
彼女は、目の前にいた。
黒い髪が揺れる。
意地悪な笑い声の中に、恍惚とした囁きが混ざった。
「きれいね」
彼女の手には一輪の薔薇。
「とってもきれいね」
宝物を扱うように、大事に大事に両手で抱かれた大輪の赤い薔薇に、彼女はうっとりと囁いた。
この夢は何度も、何度も、嫌と言うほどに見た。
だからこそ、セスは知っている。
このあと、彼女がどうなるのかも。
轟ッ!
と、彼女の小さな身体は一瞬にして炎に喰われた。
赤い赤い炎の中で黒い髪を揺らしながら少女は嗤う。
ケラケラ! と。
ゲラゲラ! と。
赤い花弁が散るように火の粉が舞い、黒い髪がチリチリと焼ける。
彼女自慢の黒髪が、彼女自身が、赤い炎に轟々と喰われていく。
赤い薔薇を愛した魔女は火炙りにされた。
セスは知っている。
これは夢だ。
セスは知っている。
これは夢であり、現実だった。
セスは知っている。
これは夢であり、過去の出来事。
セスは知っている。
赤い薔薇を愛した魔女が誰であるかを、セスは知っている。
その魔女がブージャム同様にもういないことも……
知っている。
「レイシー……ッ!」
自分の叫び声によって起きるのは久しぶりの感覚だった。
しかもそれが人前でというのは初めての体験であり、セスは目覚め早々に軽く混乱した。
炎と紛う真紅と目が合い、しばらく見つめ合う。
「おはよう」先に口を動かしたのは真紅のロングコートを着ているロゼルだった。
身支度の最中であるロゼルは止まっていた手を動かし、大きな薔薇とリボンのついた髪留めで金糸の髪を飾った。
セスは硬直している自分の身体に意識を向ける。寝台を使わずにテーブルに突っ伏していたせいで微妙に全身が重い気がする。もしくは、夢のせいかもしれない。
「……なにか、聞きましたか?」
セスの問いは走行音にかき消されてしまいほどに小さかった。
だが、相手には届いたらしい。
「いいえ」
明らかな気遣いであったが、セスはそれに甘んじることにした。
首の後ろが痛い。深く息を吐き、力む身体を脱力させようと心掛ける。
魔女の呪いと言われる赤薔薇の奇病カニバルブーケ。
それと対面したからか、露骨に嫌な夢を見たセスは自分の精神的な部分の弱さに落胆した。
気にしていないようにしていたが、気になっていたらしい。
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