08 薔薇喰いの魔女
セスはロゼルを突き飛ばすようにして立ち位置を変えると杖を真横にし、顔の前へ構えた。
「ぐッ……」身体全体を
予想よりもずっと強い衝撃。
突進したカニバルブーケに蹴散らされた木々の枝や葉が舞う中、セスは素早く両手で横にした杖を支える。
間近で目にしたそいつの手は黒ずみ、恐ろしく爪が伸びていた。爪というよりも、もはや指そのものが硬く尖っている。
狼の爪とは比べ物にならない禍々しさだ。
「これの狙いはあんただ!」
セスはロゼルに叫ぶ。
状況が状況なだけあり、それだけでもセスが言いたいことの本質は通じたらしい。通じたが、ロゼルは動かない。
「キミは――!」
反対にロゼルは慌てて姿勢を正し、セスを気にかける。
「自分は……どうにでも、なりますっ!」
鋭く折られた枝の先端に酷似した指に集中したままセスは声を荒らげるとカニバルブーケの腹部へと左足を打ち込んだ。が、手応えはない。
腕へ掛かっていた負荷も突然失われた。
カニバルブーケは蚤のように飛び退いた。高く跳んだそいつは、人間とも獣ともとれない関節の可動域を逸脱した動きで木々を避けると、地面に四つん這いで着地。骨が入っているのか疑わしいほどに、ぐにょりと上半身を揺らしながら起こす。
直立したが、カニバルブーケはやはり全体的にどこかバランスがおかしかった。素人の人形師が操る人形のように、重心がない。
「……とにかく、あんたはここから離れてください」
「いやよ!」
確固とした意思表明。
セスの眉間に皺が集まる。
「そんなにカニバルブーケが好きですか! 新聞記者でも
「違うわ! ボクは職人! あの赤薔薇が欲しいのよ!」
「カニバルブーケでなにを作る職人ですか! 気持ち悪い!」
「気持ちッ……! カニバルブーケでは作らないわよ! ボクが欲しいのはウィ」
言い争いは唐突に終了させられた。
「!」
「ッ――」
二人は互いに左右に飛び退く。木々に邪魔され、雪に足を取られそうになるがセスは片手を地面につきながらうまく姿勢を整える。
二人が立っていた場所ににカニバルブーケが飛び込んできた。鋭利な左腕が地面に刺さったかと思った二瞬目、有り得ない捻り方でカニバルブーケは身体の向きを変える。
その矛先は、やはりと言うべきか。
「……クソッ!」
キャハハハハ! と気味の悪い雑音が夜を裂く。
カニバルブーケが餌へと襲い掛かるより先に、魔女は人喰いの薔薇に突っ込んだ。
瑠璃の杖を振るえば、カニバルブーケの意識がセスに向く。セスは大振りに反撃してきた凶暴な黒い豪腕を避けると、片足を軸に自分の体重を移動させる。素早く踏み込み、腰を落とすとがら空きの腹部に肘を打ち込んだ。
ふらついたカニバルブーケの隙を逃さない。
相手は薔薇。
人を喰らう薔薇。
相手が薔薇であるならば、セスがとれる手段は物理的な攻撃の他にもうひとつある。
そしてそれは、確実にこのおぞましい薔薇を無効化できた。
人前では絶対に行いたくなかったが、背に腹はかえられない。
「こんな薔薇……」
セスは下から顎を突き上げるようにカニバルブーケの頭部――赤黒い薔薇の軍勢へと、右腕を突っ込んだ。
薔薇の一部を、思い切り素手で握り締める。
「絶対に食べたくないのにっ!」
セスは薔薇を掴む手に、忌々しげに力を込めた。
刹那――――
ザアッ!
と、カニバルブーケが弾け散った。
一瞬にして湿っていた赤黒い薔薇は無様に萎れ、乾いた血液よりも黒くなり、あっという間に霧散する。
薔薇や茨が枯れ果てると身体のほうも干からび、はらはらと崩れていった。
夜風がカニバルブーケの残骸を運ぶ。
白い森に鎮座する冷えた闇に、枯れた花弁は跡形もなく飲み込まれた。
「……なにを」
名残惜しげなあまったるい空気の余韻に、ぽつ、と疑問が零される。
「いまの、なにをしたの?」
ただ目の前で起こった一瞬の出来事にロゼルはついていけていない様子だった。
魔女の呪いと噂されるカニバルブーケはどんな医術や錬金術を駆使しても治せず、どうにもならない奇病だと噂の中では語られる。そんなカニバルブーケが一瞬にして散った現状はロゼルには不可思議でならないのだろう。
「食べただけです……」
「……食べ、た?」
「言ったでしょう。自分は《薔薇喰いの魔女》だと……」
セスはカニバルブーケを散らした右手を、状況の飲み込めていないロゼルに見せ付けて振った。
「薔薇であるなら、自分には食べ物です。ただ……あんなもの、味わう気はないですけど……」
「どういう意味?」
「口から食べると味を感じるんです。人間と同じですよ。だから……こう、手で………なんて、言うんでしょうか。生気だけを食う感じ、ですかね?」
「つまり、キミはカニバルブーケを食べたの?」
「そう言ったでしょう」
セスは苦々しく息を吐く。気分的にはっきりと頷きたくないので、目だけで緩慢に頷いた。
味は感じないが、カニバルブーケを食べたことは事実。
気を抜くと精神的な胃もたれが起きる気がした。
「食べ、た……カニバルブーケを……食べた? 嘘でしょう……」
ロゼルは顔を真っ青にしながら口元を押さえた。身体が震えている。
いくら怪奇現象や非錬金術的なものに強い興味を持とうとも、紙面で読むものと現実で目の当たりにするものとではわけが違う。
魔女に、奇病――有り得ない存在の絵空事のようなやり取りを目撃し、身体に傷も負った。これには流石に嫌悪感や不快感、恐怖心を抱いてくれたはずだとセスは予測する。
眼前の彼が逃げたら、追わずに放っておこうと決めた。
「どうして食べたのよ!」
「……え……っ」
逃げたら追わずに放っておこうと決めたが、両肩を掴まれ至近距離で怒鳴られたらどうしようかは決めていなかった。
なのでセスは目を三角にしたロゼルに肩をきつく掴まれたまま硬直する。
「ボクはあの薔薇が欲しかったの! 言ったわよね? 言ったわよね! なのに、どうして! どうして食べちゃったのよ!」
セスは相手の苛烈な豹変に圧された。
凄まじい剣幕に、なにを言われているのかを理解する前に身が竦んだ。
自分が悪いと勘違いしそうになる。いや、実際に勘違いをしてしまい空気に飲まれたセスは「す、すみません……」と謝罪を口走っていた。
「信じられないわ……こんな、こんなことって…………」
悲愴と苛立ちが入り混じる表情。眉間に刻まれる皺は深く、爆発しそうな感情を堪えるように握り締められた拳も震えている。
「……いえ、まだ道はあるわ」
なにかを決意した碧眼がセスを刺す。と、彼の手がセスの手首を掴んだ。カニバルブーケを食らった魔女の右手を、躊躇なく握り締める。
「赤薔薇を手に入れるまで、ボクに付き合って!」
カニバルブーケを渇望する人間は魔女に詰め寄った。
セスは必死なロゼルを凝視し――――たっぷり十秒後。
「冗談ですよね?」真顔で訊ねた。
「大真面目よ」真顔で答えられた。
手首に掛かる相手の力が強くなる。あまりの力強さに、指先が痺れた。
「カニバルブーケがキミに食べられたいま、キミしか頼りはないの! 魔女の側にいれば、きっとまたカニバルブーケにも出会えるはず。そうすれば、あの赤薔薇を手に入れる機会が訪れるかもしれない。お願い! ボクにはもうキミしか頼りがないの! アルバに越すんでしょう? なら好都合だわ。ボクもアルバ住みなのよ。一緒に行きましょう! ここで諦めたらきっと後悔する……逃がさないわ!」
ロゼルの懇願は脅迫紛いに変化していく。
頑なな意志に頭と鼓膜を殴られ、セスは軽い頭痛すら覚えた。
断って逃げ出したいが、こうなってはそうもいかない理由ができてしまい、セスは息を吐く。
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