07 奇病カニバルブーケ *
セスは頭を抱えた。
もっと早く、相手に配慮などせず、本気で撒けば良かったと後悔する。
いまからでも遅くはないかもしれない。適当に隙をついて森の中に逃げ込み、カニバルブーケを追ったあと、ベアトリーチェには悪いが汽車には戻らずにそのまま徒歩で王都アルバに向かおうかとセスは内心で呻いた。
上着や荷物を置いてきてしまったが、なくて困る物ではないし、愛着があるわけではない。この程度の寒さは耐えられる。
セスにとって必要なのは師匠の形見である黒外套と瑠璃の杖のみ。この二点が手元にあるならば、何事も問題はなかった。
問題は現状。
セスは相手に背を向ける。どうしようかと杖で地面を叩いた。
背中に刺さる碧眼からの視線は強い。
それでも真紅の服装や靴の高さは雪化粧をした夜の森を走るには厳しいものがあるはず。本気で脱兎すれば逃げ切れる自信はあった。
では、どうやって気を逸らすかとセスは首を捻り――――ふと。
「?」
あまいにおいがセスの鼻腔に侵入してきた。いや、甘い香りはロゼルと再会してからずっと香っていた。ロゼルの香水かなにかだろうと気にしていなかったが不意にいま、本当にたったいま。
違和感を抱いた。
そのあまいにおいは、ロゼルから漂うとはまた別のあまさ。
気持ちを穏やかにする華やかな甘い香りではなく、背筋をくすぐる不快なあまさ。
死臭とすら表現しても良いかもしれない。
あまい腐臭。
嗅いだ経験があるにおいにセスはすんすんと獣のように鼻を鳴らし、硬直した。
「逃げ――」セスは叫ぶが、最後まで言い切れなかった。
そいつは、既にロゼルの真後ろにいた。
振り上げられた両腕。
突如草木の隙間に潜む闇から飛び出してきた脅威に反応を示す暇はなく――――ロゼルの背後で豪快に赤が散った。
「ロゼルッ!」
セスは咄嗟に腕を伸ばす。バランスを崩したロゼルを力任せに引き寄せれば、彼はそのまま地面に崩れ落ちた。
真紅のコートの背が、ベロリと失われていた。
「ッ……」
「無事ですか……!」
セスはロゼルを庇って壁になるように前へと出る。
飛躍したカニバルブーケはもはや獣とも呼べない奇怪な動作で木々の間に飛び込んだ。
「っ……な、んとか……あーあ、お気に入りだったのに……」
ロゼルは茶化す笑顔を作るが、暗がりでも分かるほどに表情からは血の気が引いている。
ロングコートは完全に駄目になった。下に着ていたシャツのほうも何本か縦に線が入るように破け、隙間より覗く肌からは血が滲んできていた。ロゼルの様子と出血具合からして傷自体は深くはないだろう。が、傷の大きさに関係なく不意打ちにより傷付いたという事態は普通ならばそれだけで恐怖心を煽り、精神的ダメージを与える出来事だ。
にも関わらず、ロゼルは弱々しく下がった眉をつり上げる。
きゅっと唇を引き締めてセスから鋭くなった碧い瞳を退かした。
「………………」
碧の奥に宿るのは、恐怖にも勝るなにか別の感情。
セスはその感情の種類を読み取れなかった。だから無駄に探ろうとはせず、ロゼルの目線を追う。
木々の向こう側。少し先の、ややひらけた場所。
冷気を纏った風にあわせて月明かりが迷い込む。
満月に照らされたのは赤黒い薔薇。
いくつもいくつも重なった、ブーケを連想させる赤薔薇。
月光を反射させる雪の絨毯の上で、赤い塊が悠然と咲き誇る。
人の顔面を覆い隠すほどにぎっちりと繁殖した薔薇がセスの視覚を刺激した。
改めて目にしたそれは、どう考えても師匠の趣味に反する。
「最悪だ……」
反射的にセスは吐き捨てた。
カニバルブーケは両手を薔薇に覆われた顔面に突っ込んでくちゃくちゃとなにかをしていた。
濁った、濁音のついた耳障りな水音が白い夜に染み渡る。
背を丸めて俯いているのと密集する赤黒い薔薇の量でなにをしているのか正確には判断できない。それでも、一心不乱な動きが余計にセスの不快感を煽った。
引きずり出した臓物を連想させる赤黒さの醜い薔薇。
セスが先程唐突に感じた嫌なにおい。
それは、眼前の相手から漂っていた。
あまったるい腐臭。
自分の好みの香りに似た、しかしそれを腐らせた不快な香り。
一度嗅いだら忘れはしない。
「いた……!」
ロゼルが感情を無理矢理押し込めている低い声で言った。
ようやくセスは感付いた。
彼が澄んだ瞳の奥で燃やしていたものの正体に。
それは好奇心と――――歓喜だ。
眼前の異形に、ロゼルは喜んでいる。
セスの推測は彼から放たれた次の台詞で確信に変わった。
「やっと、会えた!」
流石のセスも眉を顰めた。
「やっぱり、実在していたのね……」
「ロゼル……!」
光に誘われる羽虫のように踏み出したロゼルにセスはすかさず釘を刺す。
「言ったでしょう! ボクはあれに用があるの!」
「カニバルブーケは人を喰う! その背中! もっと痛い目にあいますよ!」
「それでも、ボクはあの薔薇を――っ!」
ロゼルの咆哮が途中で切れる。
気持ちの悪くなる水音を掻き消すように夜風が走り、ゆらり、とカニバルブーケが蠢いた。
丸まっていた背中が歪な動作で起き上がる。
肌を撫でていた腐臭が濃度を増した。
水を与えすぎて腐ってしまった薔薇の香り。
一呼吸で肺を膿ませそうなおぞましいあまったるさ。
赤薔薇のブーケを──頭部を持ち上げたことで、相手がなにをしていたのか理解した。
にちゃり、と。鼓膜をねぶる音。
カニバルブーケは自分の指を舐めていた。
どこかバランスの悪い体躯。汚れて上質さが失われた衣服。
赤薔薇に埋まった顔は、有り得ないほどに裂けて笑っている不気味で異様な口元だけが唯一露わになっている。
黄ばんだ歯から覗く厚ぼったい舌に自分の両の指を絡ませ、薄い唇で挟み、じゅるりと音を鳴らして吸い上げながら、しつこくしつこく指を――正確には指に付着した液体を。
ロゼルの血を、
人間の血液を、
恍惚と味わっていた。
ぞっ、と辺りの気温が下がった。
そう錯覚するほどの悪寒。
ロゼルもことの異常さを把握したのだろう。ひゅ、と息を飲む。
戸惑いから逆に冷静を取り戻したらしい。ロゼルは踏み止まった。
残念ながら、その青い瞳孔は輝いたままだが。それでも突っ込んで行かないだけましだ。
「――……リ……ぃ……」
奇異な音が漂ってきた。
錆びた扉の開閉音に似た、硝子を金具で引っ掻いた音に似た、甲高い音色。
「た、リ……ナィ……――」
ノイズ混じりのそれが声だと判明した時にはカニバルブーケの口腔から赤黒い唾液が滴り落ちていた。否、唾液ではなくそれは薔薇。
「ぁ、まイ……――ォ……ミズ……タ、りなぃヨ……」
頭部しかない赤薔薇。
それがカニバルブーケのヒビの入った唇から壊れた異音ともに零れる。
ひらりと薄い花弁は地に触れた瞬間ビヂャリ! と変異した。
真っ白な雪が、赤黒く侵される。
花弁は可憐に雪に落ちるのではなく、ビジャリ、ビジャリ――と。
白を湿らせ、汚していった。
「たりナ、ィヨぉおオオオオ――――!」
冷たい針を鼓膜に刺し込まれるような鋭い高音の歪んだ悲鳴と、なにかが欠落した人形じみた動作が現実感を蝕む。
「――下がれ!」
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