05 ブージャムの忘れ形見

 存在してはならない存在は関節の動きを無視した動作で四肢を歪ませ、可動域を超えた量用で上体を捻る。


「……お前……!」


 赤い薔薇頭が向いた先がどこなのか、すぐに勘付いた。

 セスは無理矢理に身を捻る。立ち上がるのも惜しんで、腕を伸ばした。


「しゃがめ!」


 先程自分が客室に押し込んだ相手の、高いヒールを履いている脚を掴む。セスは力任せに真紅の片脚を引っ張った。

「――わっ!」と、短い悲鳴。真紅のロングコートがはためき、人一人が床に落ちた振動が床を伝ってくる。

 倒れた真紅の上を獣の動作で飛躍したそれは、勢いを殺さずに窓硝子へと突っ込んだ。

 二重窓を易々と砕き、赤い花弁は夜へと消える。


「待て!」


 セスは飛び退く猫にも勝る速さで瞬時に身を起こすと、呻く真紅を飛び越えてテーブルに乗り上げた。

 宝石の如く散りばめられた極彩色の硝子片を踏み、外を覗き込む。

 まだ微かに居座る雪の気配。

 冷たい夜気が皮膚を滑った。

 森を切り開いて引かれた線路は静寂に包まれている。そこに佇むこの汽車の中だけが騒々しい。


「どこに……」


 セスは幽寂に支配される森を睨んだ。

 人を喰らう赤薔薇――奇病カニバルブーケ。

 実在していた。

 さっきまで鼻で笑っていた胡散臭い噂を、セスは目の当たりにしてしまった。

 叩き付けられた身体に走る鈍痛が、目撃したそれを現実だと教えてくる。

 夢でも、幻でもない。


「あれって……」


 震える声にセスは振り返る。

 後頭部を撫でながら真紅が上体を起こしていた。どうやらセス同様に相手もクロスに隠れていたものを見たようだ。


「まさか……カニバルブーケ、なの?」


 セスは答えられない。


「……手荒な真似をして、すみません」


 テーブルからおりつつセスは足を引っ張ってしまったことだけに答え、謝罪した。


「いいえ。助けてもらわなかったら反応できなかったでしょうから……ありがとう」


 相手は表情を和らげるものの、どことなく態度がおかしかった。

 セスの背後を、割れた窓硝子を気にしている様子だ。

 だがその理由を聞き、相手を落ち着かせようと気を配る余裕はセスにはなかった。申し訳ないが、これ以上目の前の真紅に構っている暇はない。この時間すら、惜しく感じた。


「危ないですから、誰かくるまでじっとしていてください……」


 セスは告げると大股に相手の隣を通過して廊下に出る。

 各車両の廊下の天井付近に装飾に紛れて設置された車内放送に利用される拡声装置から、感情を押し殺した声が降ってきた。車掌と名乗ったその声は一等二等の乗客は各客室で待機し、三等の客は動かないで欲しいとの指示を出す。


「待って! キミはどうするつもり?」


 車掌の放送も真紅からの質問も無視してセスは自分の客室に入る。ざっと内部を見渡し、床に落ちていた瑠璃の杖だけを拾い上げた。

 右手で掴み、左手に持ち替えて具合を確認する。歪みはない。


「…………よし」


 この美しい杖はいまは亡き足癖の悪い師匠から譲り受けた物。それなりの代物ゆえに簡単になにかあることはないだろうが、もしもを考えると背筋が震えた。

 セスは息を吐く。前を向き、綺麗なテーブルを躊躇なく靴底で踏みつけると二重窓硝子を全開にした。

 尖った夜気が室内に侵入する。


「まさか、カニバルブーケを追う気なの!」


 窓枠に右足を引っ掛けたところで真紅はセスの行動の意味を察したらしい。


「あれは魔女ブージャムの呪いと言われて」「違います」セスは答えた。


 今度は答えられた。


「あれは……魔女ブージャムの呪いじゃない」

「どうしてそう言い切れるの? 魔女は昔に絶滅したから? そんなの、本当か分からないでしょう? 現にいま――あれは」

「そういう意味ではないです」


 セスは振り返る。


「単純に、魔女ブージャムはそんなことをしません。あれは、彼女の美学に反します……」

「美学? ……キミは、なにを言って」

は呪いなんて回りくどいことをしません」


 セスは最後まで聞かず、自分の持つ真実で相手の意見を強く塗り潰した。


「魔女ブージャムは、嫌いな相手がいたら自らの手で……いや、足で完膚無きまでに踏み潰します……己の足で相手を痛めつける感覚を楽しみ、見下しながら言葉で刺し、屈服した者を嘲笑うのが彼女の楽しみ方なんですよ」


 魔女ブージャムがどんな魔女なのかも知らず、ただただ彼女が《薔薇咲きの魔女》と呼ばれるがゆえに広まっていく陳腐な嘘。セスはそれが嫌だった。


「ブージャムは、そういう性悪な魔女です……カニバルブーケは、方向性が違いすぎる……」


 セスは知っている。

 師匠は死んだ。

 師匠は蘇ってはいない。

 師匠はどこにもいない。

 なぜなら、セスは確かに師匠の最後を看取ったのだから。

 魔女は間違いなく死んだ。

 定位置である薄汚れた長椅子ソファで、最期まで楽しそうに世界を小馬鹿にしながら、セスの育ての親でもある恩師は笑って死んだ。

 セスは知っている。

 師匠とは二度と会えない。

 どんなに願っても、絶対に。

 蘇ってはくれない。


「それに……」


 魔女ブージャムが赤い薔薇を生むなど有り得るはずがない。


「師匠は、赤薔薇は咲かせない」


 セスは師匠のことを誰よりも知っている。

 その身から咲き誇る澄み切った青の美しさを、誰よりも知っている。


「魔女ブージャムの薔薇は、青いんです……」


 セスは囁かれるくだらない噂を否定する。

 魔女ブージャムは確かに傲慢で暴君で極悪非道だ。

 だからこそ自分自身で相手を叩き潰し、踏みつけ、高笑いをしないと気が済まない性分である。何度それに付き合わされ、八つ当たりで蹴られたか、思い出したくもない。

 足癖が悪い魔女は己の死期を悟ってからも衰えなど見せなかった。

 自慢の足で、なにもかも蹴落として、笑い続けた。

 笑って、笑って、世界を馬鹿にして笑って、笑って、笑いながら、死んだ。

 世界のすべてをちっぽけだと笑いながら。

 最期まで楽しそうに。

 笑って死んだ。

 満足げに、笑って死んだ。


「魔女ブージャムは、あんなものを生み出さない……」


 長い間、魔女ブージャムの側にいたセスには分かる。

 魔女ブージャムはこの世界を嘲笑い、馬鹿にして、踏み付け、愛していた。

 呪う理由はない。

 呪うはずはない。

 まったくの逆だ。

 きっと魔女ブージャムはカニバルブーケを嫌っただろう。


「キミは……」


 半ば呆然と、独り言にも近い声量で零された疑問にセスは答えた。


「自分は《薔薇咲きの魔女》ブージャムの忘れ形見――」


 胸を張って、答えた。


「《薔薇ばらいの魔女》です」


 セスは深い夜に双眼を戻す。


「あれは、師匠とは無関係です……」


 セスは魔女ブージャムとカニバルブーケも関わりを断固として否定する。

 否定しなくてはならない。


「弟子である自分が保証します」


 弟子であり、魔女ブージャムの唯一の家族として。

 セスは彼女を信じている。


 足癖の悪い師匠から譲り受けた瑠璃の杖をきつく握る。


「師匠の汚名は、弟子が晴らします……!」


 カニバルブーケが消えた森を睨み、セスは迷わずに窓枠を蹴った。


「待って!」「ンッが――!」


 黒外套を掴まれた。

 前傾姿勢が強く引っ張られて後方に下がり、セスはバランスを大きく崩した。

「ああっ! ごめんなさい!」相手が外套を慌てて離す気配。

 そうなれば元々車外に出ようとしていた身体は支えを失って、ただ落ちる。

 騒がしくも一瞬の出来事で、なにもかもが予期せぬ出来事。

 体勢を崩されたセスは薄い雪の積もる地面に無様な格好で落下した。否、させられたと言っても良いだろう。


「…………は?」


 理不尽に起きた、一歩間違えれば事件といっても良い出来事。

 横っ面に氷と大差ない温度を有する石の冷気を味わいながら、セスはまばたきを三度。

 それから、軋んだ人形のようにぎこちなく緩慢に身体を起こす。


「………………」


 セスの頬から細かな砂利が落ち、側で真紅がはためいた。

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