02 薔薇を喰う青年

 入ってすぐ目に付くのは、防犯と防寒を兼ねた二重窓。一等車の豪勢な部屋の景観を損なわぬよう透明な硝子ではなくアルバ硝子グラスという色付き硝子によって、小花が咲く蔦柄を利用した網目模様が描かれている。

 アルバ硝子とは王都アルバ発祥の、色が付いた硝子の総称だ。美しさは勿論耐久性も高いととても有名で、山奥で暮らしていたセスでも認知している。


「……さすがは、ベアトリーチェですね」


 セスは薔薇を見つめたまま列車内とは思えない広すぎる室内を進む。

 純白の花びらがアルバ硝子から反射される極彩色の光を浴びて清楚な微笑を深めた。その蠱惑的な艶やかさに、セスは生唾を飲み込んだ。

 腹が鳴る。


 食堂車で用意された食事は、なにもかもが初めて目にする豪華なものだった。

 バターで炒めた穴熊の燻製くんせいが香りの強いチーズとともにキューブ状にカットされてビスケット生地に乗せられた前菜。枝豆と山羊乳のスープ。野兎を赤ワインと香草でマリネにし、マリネ液ごと複数の香味料でじっくり煮込んだ料理や、チョコレートソースが鉄格子のように細くかけられ、薔薇に見立てて切られた可憐な苺がブルーベリーやミントと一緒にてっぺんに飾られた円形のミルフィーユなど…………

 次から次へと出される料理は優雅な盛り付けで、美術品を観賞している楽しい気持ちになったが――それだけ。

 セスの腹は満たされない。

 量が少なかったわけではない。

 ただ純粋に、同時にのだ。


 食堂車で出された食事は、セスにとって見た目の美しさと温かさ冷たさを楽しむだけのもの。

 本音で言えば、見るのは良いが咀嚼するのは控えたかった。まったく味の感じられない物を口にするのは存外不快感を伴う。それでも大勢の手前、そしてなによりサービスの良い一等車の客として下手に食事を断って従業員に余計な心配はされたくなかった。そうなったら面倒だとセスは料理の説明を聞き、適当に旨味を感じたふりをして実際には無味の食事を残さず勢いで平らげた。

 どんなに豪華な食事でもセスにとっては珍しさしかなく、好奇心は満たせたものの食欲は微塵も満たせない。

 セスの味覚を刺激し、食欲を満たせるものはただひとつ。


「こんな、価値のある薔薇を……ありがとうございます」


 セスは王都で自分の到着を待ってくれているベアトリーチェを想い、感謝を述べた。

 顔を埋めるようにセスは白い花束を抱き締める。無意識に口内に大量の唾液が溜まっていくのを感じた。空腹感が増す。

 セスはゆっくりと口を開き――――白い花弁に


「んん……」


 瞬く間に芳醇な香りが口腔で花開く。

 いつまでも舌に乗せていたくなるなめらかな食感。歯を使わずに舌で潰すように圧迫すれば、肉汁が溢れるが如く甘味が広がってくる。溢れた唾液と絡み合う深々とした清楚な甘さ。遅れて、おずおずと顔を覗かせる塩気。

 ひやり、と一瞬の冷たさが舌に波紋を広げ、冷水が滴るように背筋を心地良く震わせた。

 こくり、と嚥下すれば「……はあ」


 自然と満たされた吐息が洩れた。


「おいしい……」


 空腹感に後押しされ、セスはテーブルの前で直立したまま白薔薇の花弁を貪った。

 右手で薔薇の頭だけを毟り、頬張る。ほぼ一口で半分以上を喰らい、砕けた角砂糖の破片のように手の平から零れそうになった花弁を舌ですくう。


「甘さの中に、ほんのりとした邪魔のない塩気。素晴らしい……!」


 夢中になっていると唐突に背後で音がした。

 白薔薇を口に含んだままセスは反射的に振り返る。


「………………」


 食していた薔薇とは正反対の色が、セスの思考を止めさせた。

 開いた扉の前には豪快なフリルのあしらわれた真紅のドレスをまとった長身の人間が立っていた。

 項が晒されるほどに短い金髪。耳にはネックレスを千切って作ったのかと疑問視してしまうほどに長いチェーンピアス。胸元では巧緻な細工が施されたアルバ硝子のブローチが豪奢な光沢を携えていた。


「…………」

「…………」


 セスの灰眼と相手の碧眼が一直線に交わる。

 化粧で整えられてはいるがそれでも些か顔色が悪い様子の相手を正視したまま、セスは半端に咥えたままの薔薇をきちんと口内におさめ、咀嚼した。


「…………」

 もぐもぐ。

「…………」

 ゴクン。

「…………」


 セスが白薔薇を嚥下したその時「ボクの、ラストシュガーローズ……」

 相手が赤いルージュのひかれた唇を微かに動かした。

 次いで、相手は酷く綺麗な笑顔を形成する。

 どれほどの研ぎ澄まされた平衡感覚を有すればあんなに細くて高いヒールをはけるのか、と心底セスが疑問を抱いてしまう靴の底を軽快に歌わせながら相手は大股にセスへと迫ってきた。

「あの……」自分の客室に侵入してきた相手に言葉を発する前に、相手の腕が伸びてくる。「?」

 セスの意識と目線は突然伸ばされた真紅を追った。

 フリル付きの、指先まで隠れる長い袖。

 猫の尻尾のように垂れ下がったそれが、勢い良く唸った。


「――――ぁ、ッ!」


 乾いた音がセスの顎から脳天へと貫通する。

 一瞬眼前が真っ白になり、二瞬目には視界には天井が映る。そこでちかちかと星が瞬いていた。なぜ自分は上を向いているのだろうか? と、セスが疑問符を星に混ざらせる前に今度は世界が回った。

 思考が追いつかない。


「ッだ!」


 身体に衝撃が走る。


「………………?」


 頬にテーブルの無機質な冷たさを、顎には鈍痛を感じながらセスは瞬きを二回。

「………………ああ」成る程。と、遅れて理解した。

 ぶ厚いフリルのついた長袖で顎を下から強打され、その隙に足を取られてテーブルに叩き付けられたのだ。と、セスは自分の状態を理解した。

「ええっと……」理解はしたが、どうすれば良いのかと対応に困惑する。


「随分と落ち着いているわね」


 甘い香りとともに降ってきた冷たい声音にセスは眼球だけを持ち上げる。それが自分をテーブルに固定している真紅の声だと把握するのに時間は必要なかった。

 この客室には、セスと相手しかいない。


「状況に、追いついていないだけです……」


 セスは素直に答える。


「いきなり組み敷かれる理由が、分からないんですが……」

「キミがボクのラストシュガーローズを盗んでいたからでしょう?」

「ラストシュガーローズを?」


 ラストシュガーローズとはセスが贈られた白い薔薇の品名だ。

 シュガーローズは雪の中でしか育たない白薔薇。

 甘い香りで、花型は大輪半八重平咲き。開花期は十月から二月。雪が降るのが早い場所ならば九月の半ばには咲き誇る。

 ラストシュガーローズはその名の通り暖かくなる前の、シュガーローズ栽培期の一番最後に咲く白薔薇だ。

 二月末に一斉に摘まれるラストシュガーローズは査定が一気に厳しくなり出荷本数が限られるため、ただのシュガーローズよりも重宝されている。大変稀少価値がある薔薇だ。

 薔薇をしょくすセスにとっては、期間限定の高級菓子と表現してもいい。


「あれは……自分が、頂いたものです……」

「質問を変えましょう。キミはなぜ、ボクの部屋にいるの?」


 間髪入れずに問い返された。

 冷静で、一字一句を脳に直接吸収させるようなはっきりとした声音を耳にうけ、セスは目線だけを動かした。

 ゆっくりと客室を見渡す。

 窓際に置かれた裂地張りの長椅子に、清澄な彫り込みを施された木製のテーブル。横に広い室内の右手側の奥には清潔感溢れる純白のベッド。壁には花の形に削られ真鍮の細工で整えられた発光石が絵画とともに飾られている。

 内装はセスの知る一等車両の客室。

 しかし、より細部まで確認すれば席に置いていたはずの自分の荷物はなく、知らない青い鞄や派手な装飾の帽子があった。


「あれ……?」


 自分が押し付けられているテーブルには飴やチョコレートなどを入れる丸いアルバ硝子製の菓子器がひとつ。これは各一等客室に常備されているものだ。セスの客室にあったのは青いアルバ硝子の容器で、真鍮の細工に彩られ、逆三角形のような脚の部分に豪奢な彫り込みが施されていた。が、いま視界に入っているのは赤いアルバ硝子の菓子器。銀の蔦を象った装飾で飾られ、葉のデザインを持つよっつの脚がついている。

 この客室でセスに見覚えがあるものは、羽交い締めにされた際に落としてしまった食べかけのラストシュガーローズの花束だけ。

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