03 好奇心はほどほどに

 そこでようやくセスは己の失態に気が付き、相手の質問に確信を持って答えた。


「…………部屋……間違えました」


 一拍。

 二拍。

 三拍――――と、沈黙が客室に訪れた。


「乗車、券……」


 ぽつり、と。

 固まっていた気まずい空気をセスの言葉が裂く。


「乗車券が、上着の、右ポケットにあります……確認してください」


 取り敢えず相手の誤解を解く順番として、第一にセスは部屋の間違いを相手に分かってもらおうとした。

 相手の腕が警戒を緩ませずに上着を探る気配がする。セスは相手を刺激しないよう身動ぎせずに待った。


「本物、ね……」


 ややあってから乗車券を確認したらしい相手の呟きが客室に落とされる。

 これで納得してもらえるかと思ったが、後頭部に刺さる相手からの視線に安堵感はなく、背中に回されている腕を掴む手の力も一向に失われない。どうしてなのかセスが訊ねる前に「盗んだものでなければ、本物ね」と相手が警戒心を緩めない理由を溜め息混じりに吐き出した。


「本物、ですよ?」

「本当に?」

「汽車は師匠の友人……ベアトリーチェという方に予約をしてもらったんです。彼女はとても親切な方で……ラストシュガーローズも、彼女からの贈り物です。さっき貰って……盗んでは、いません。なんなら、自分の客室に行って荷物を確認してもらって、も……?」


 説明の途中で拘束が外れた。


「ごめんなさい。嘘じゃないみたい。ボクもいまちょっと余裕がなくて、確認する時間が欲しかったの」


 セスがそろりと顔を上げれば、赤いマニキュアで彩られた右手が伸ばされた。それはセスが身体を起こすのを手伝うという意の仕草だろう。

 けれど、セスは手を借りずに、身体を起こす。

 それに対して「顎、痛みませんか? 舌は? 噛んでいません?」と相手は腕を引っ込めつつセスを心配した。そこにはきちんと相手を労り、尊重する態度が含まれている。

 セスは改めて相手と向き合った。意識すると感じた香りが強くなる。

 甘い香りは目の前の相手から漂ってきていた。

 ドレスかと思ったが、相手が纏うのはそう見えるほどにボリュームのある真紅のロングコート。後ろ腰に形の良いリボンが付き、袖や裾は黒のフリルで飾られている。注視しないと見逃してしまうが、ぶ厚いフリルには同系色の糸で刺繍もされており、全体的に高価な生地だとセスの貧相な目でも容易に鑑定できた。

 身長はセスよりもずっと高く、ヒールも含めれば二メートル近いだろう。顔付きや声質、体格は明らかに男性だが、先程までの口調はどこか女性的に感じられた。


「どう、して……離したんですか? あんなに、警戒してたのに」


 突然の変化にセスのほうが疑問を抱く。

 彼は綺麗に微笑んで、長い睫毛に包まれた碧眼を荷物棚に移動させる。それだけのさり気ない所作なのに、どことなく貴族の淑女を連想させた。


「嘘を吐くには言葉の詰まりもないし、態度も呼吸も落ち着いてる。なにより荷物の位置がどこも、なにも、変わっていない。あとボクのラストシュガーローズは頭の部分だけ。花束にはなっていないのですよ。落ちたの、キミのですよね」


 相手がほぼ花弁が毟られて花束ではなく茎束になっているそれを両手で拾い上げる。骨張った手が、女性的な手付きで花束を抱いた。


「散ってしまいましたね。ごめんなさい」

「いえ……」食べかけですから……とは言わない。

 先程拘束された時に反射的に手放してしまった花束をセスは受け取った。


「……ありがとうございます」

「それと、これ」


 相手はもうひとつ――否、もう一枚拾ってセスに返した。

 それはベアトリーチェからのカードだった。


「…………この花束も、盗んだものだったらどうするんですか?」


 カードを受け取りつつ、なんとなくセスは訊ねてみた。

 相手は碧眼を丸くする。が、すぐに柔和な弧を描いた。


「盗んだものなら、贈り主が書かれたカードはすぐに捨てると思いますけど?」

「……ここに、書かれている相手に、成りすます気だった。……とか?」

「成りすます気なら、服装も考えて一等車に侵入してくるでしょうね」

「そ、その考えが、なかっ、た……?」

「文字を読めるくらいの教養と、一等車で盗みを働く度胸があるのに?」


 セスの灰眼が虚空を泳ぐ。

 なにか良い切り返しはないかとセスは呻いた。自分が泥棒であると思わせるにはどうすれば良いのか。と、なぜか逆のことを思案していると小さな笑い声が零された。


「いまのは好奇心からの質問?」

「なんとなく……気になって……」

「好奇心は大事だけれど、この状況でその発言はちょっと無謀では?」

「無謀……? あ!」


 セスは自分の本来の立ち位置を思い出した。

 セスは盗人ではない。推理ゲームでもしているつもりになってしまったが、本当に必要なのは誤解を解くことだ。


「泥棒じゃありません!」

「分かっていますよ。ちゃんとボクの目を見て会話をするし、落ち着きもある。キミ、本当に間違っただけなのですね」


 相手は可笑しそうに肩を揺らす。

 こちらの迂闊な発言に惑わされずに冷静に推理してくれた彼にセスは胸を撫で下ろした。


「変なこと言ってしまって、すみません……」

「こちらこそごめんなさい。いつもならもう少しちゃんと確認してから動くのだけど……ボク、乗り物に弱くて。少し気が立っていたみたい」

「自分が部屋を間違ったせいですから……それに、こんな見た目ですし……」


 セスは自分の格好を一瞥する。


「警戒されて、当たり前だと、思います……」


 セスが身に纏うのは所々が灰色や茶色に変色した皺だらけの白シャツにサスペンダー付きの黒のズボン。その上に羽織る丸みを帯びた黒の外套がいとうは、色褪せて随分と煤けた色合いになっている。使い古されたそれは全体的にゆるくはあるが、あくまでも女性物。流石のセスには小さくて、肩幅が合わずに二の腕辺りで止まってしまうので、毎回故意に半端な位置で羽織っていた。それでも柔らかい生地のため、きちんと着られなくても支障はない。なにより、もう慣れた。

 靴に関しては表面が剥げ、底は薄れ、雪道や雨の中を歩くと水気が靴の内部に広がる有り様。だがこれにも慣れてしまったので、セスは問題なくこの靴とは呼べない靴で舗装されていない山道も獣道も、どこでも難なく歩行できた。


「乗車券を出した時も、何回も、確認されましたから……」


 セスの格好は本来ならば一等車に乗るには相応しくない。

 自分でもそれは理解していた。

 だからこそ、自分が王都アルバ行きの汽車の一等車に乗車できると知った時は酷く驚き、同時にそれ以上の強い好奇心に駆られて落ち着きがなくなったものだ。それが原因で不審者と勘違いされて質問責めにあったのも、いまとなっては良い思い出である。

 実際に起きた乗車前のゴタゴタを伝えると、相手は形の良い眉を下げ、苦笑いを浮かべた。


「気にしないでください……」


 ぞんざいに伸ばした白髪をマフラー代わりに首に巻いているセスは、乱れてしまった髪を軽く整える。褐色の肌を持つ自分の手は不器用で、癖の強い髪をまとめるのが下手くそだ。

 面倒になって、セスは絡まるのも御構い無しに取り敢えずという雑な形で髪を首に巻き直した。


「本当に……すみません」


 改めてセスはしっかと相手に頭を下げる。

 いまのところそう言う雰囲気は感じられないが、万が一にも後々に賠償云々と騒がれたら、セスは相手が満足する返しができる自信はなかった。真紅の相手は自給自足が板につくセスとは真逆の、明らかに裕福な人間だ。

 どうしようか悩んだセスは「あの、部屋を間違った件……許して、もらえますか……?」と素直に本人に訊いてしまった。

 相手は瞬きを二度。二人の間に奇妙な間が空いた。

 ゴトン! と汽車が一瞬大きく揺れる。

 それを皮切りに、赤に彩られる形の良い唇がゆっくり開いた。


「酔い冷ましに少し話し相手になってくれたら」



 この一言が魔女と人喰い薔薇の奇病を巡る怪事件の――――の、始まり。

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