人間アレルギー

双葉 紡

始まりの空は

 白石むくは16歳という若さでこの世界から旅立った。

 葬儀には、たくさんの人達が参列した。彼女の家族はもちろん、クラスメイトや他学年の生徒、学外の友人、知人、多くの人がいた。

 泣き崩れる人もいれば、俯いている人もいる。誰もが彼女との別れを惜しんでいるように見えた。

 僕はその姿を見て怒りを覚えた。

──お前たちが彼女を殺したんだろう、と。

 しかし、それを表に出すことはしなかった。なぜなら彼女の約束を破るわけにはいかないから。

 その日の空は哀しいほどに晴れ渡っていた。


***


 高2の始業式が終わり、僕はいつものように教室の端っこで文庫本を読んでいた。特に本が好きなわけではない。本を読んで静かにしていれば置物みたいにみんなが扱ってくれるから助かるのだ。

 僕は人と関わることを意図的に避けている。それは、誰それの性格が嫌いとか合わないとかそんな話じゃない。食べ物のアレルギーのようなものだと思う。人間アレルギー。それが一番しっくりくる表現だと思う。

 ひたすらに気配を消す。それが僕の日常だった。


***


 春。それは出会いと別れの季節。

 田舎の学校などさして代わり映えしないものだ。メンバーはほとんど去年と一緒。しかし今年の春は、いつもと少し違った。

 「白石むくです。よろしくお願いします」

 そう名乗った彼女は俺の隣の席に座った。

 「これからよろしくお願いしますね」

 可愛い子だと思った。肌が白くて、小柄な女の子。黒い髪を肩で切り揃え、優しそうな瞳と笑顔が特徴的だった。


***

 

 白石むくは、すぐに人気者になった。

 都会から編入してきた彼女は、クラスメイトみんなの興味の的だった。

 人当たりが良くて、明るい。外見も可愛い。それでいてみんなの相談にも、うんうんと笑って話を聞いてあげるのだ。

 彼女の人気ぶりを僕は文庫本に隠れながら、見ていた。恋人どころか、友達もいない僕にはまぶしいくらいの存在だった。

 チャイムが鳴り、クラスメイトの生徒たちが彼女の席から離れていく。そのとき、一瞬だけ彼女の顔が曇ったのを僕は見てしまった。実は性格が悪いのか?とか、そう思わせる表情ではなかった。ものすごく苦しみを耐えている表情だった。それは僕が昔よくしていた顔とそっくりだった。

 まさかとは思ったが、聞くような間柄ではないから、話しかけることもできなかった。


***


 昼休みも彼女は多くの人に囲まれていた。

 「聞いてよ、むくっち。あたしの彼氏がさ、実は浮気してたんだよ。マジ信じらんないよね、ほんとムカつく」

 「うんうん」

 「それでさ。もう別れるって言ったら、謝るから許してくれって言われてさ、ふざけんなって気分なんだけど」

 「あ~そうなんだね。辛いよね」

 また周りの女子の愚痴を丁寧に聞いていた。苦笑いしながらも、こくこくとうなずいて相づちをうっていた。

 その後も別の人の話を聞き、そしてまた別の人と続いた。彼女は終始、笑顔を崩さずに話を聞いてあげる。

 クラスメイト達が帰ったあとに、また悲痛な顔を浮かべる。口を手で抑えている。

 周りの生徒は、彼女の異常に気づかない。

 「え、えっと、白石さん、大丈夫?」

 とっさに僕は声をかけてしまった。彼女はハッとした顔を浮かべて、

 「うん、大丈夫ですよ。少し昼ごはんを食べ過ぎてしまったのかもしれません」

 と答えた。ばつの悪い表情をして、舌をペロッと出している。さっきまでのことが嘘であるかのような変わりぶりだった。

 「君も……なの?」

 「え?」

 彼女は再度、驚いたような様子を浮かべるが、すぐに笑顔に戻る。

 「いや、なんでもない」

 チャイムが鳴る。話はここまでですねと指に手を当てた彼女は、前を向き直っていた。

 このとき僕は確信した。彼女は僕と同じだ。


***


 幼い頃、僕は活発で好奇心旺盛なタイプだった。色んなことに首を突っ込んでは叱られるようなやんちゃな子ども。どこにでもいるような普通の子どもだった。

 異変が起きたのは小学3年生の頃だった。いつも通り友達と遊んでいた。しかしその日は何故か体調が優れなかった。友達のうちの2人がケンカを始めたので、僕はすぐに仲裁しようとした。そのとき、2人の感情というか、心というか、意識の流れみたいなものが僕の中にたくさん入ってきた。僕は突然うずくまってしまい、その場で嘔吐してしまった。

 心配した親がすぐに病院に連れていったが、原因は分からずじまいだった。

 それから僕は人の感情というものに人一倍に敏感になってしまい、人混みや、言い争いの場などには極力近寄らなくなった。普通に生活していても他人の思いが流れ込んできて体調が悪くなる。

 だから僕は解決法を求め、ようやくそれを手にいれた。

 誰にも意識を向けず、向けられないようにこの世界から消える。本当に消えるわけではない。気配を消すと言った方が正しい。それでも人が多いところでは具合が悪くなるけど、それくらいなら耐えられる。

 いつしか耐性もついてきたのか、調子のよい日であれば、少しくらいなら人と話すことも大丈夫になった。

 しかし今日も、僕は教室の隅で影になる。


***


 翌日、白石むくは学校を欠席した。

 昨日の放課後、少しふらついていたのを僕は見逃さなかった。でも、勇気が出なくて声をかけることはできなかった。

 「今日、むくっち休みなんだって」

 昨日、彼女の周りに集まって愚痴をこぼしていた1人だ。

 「えーまじかぁ。もっと聞いてほしいことあんのにぃ。明日、くんのかなー」

 その言葉を聞いて、僕は怒りを覚えた。

 お前たちが彼女にずっと話しかけ続けるからだろう。彼女の苦しみが分からないのか、と。

 怒りはある。だけど、それを面と向かって伝えることは僕にはできない。そんな自分が情けなかった。


***


 次の日、白石むくは学校に来た。顔色は良くなっていて僕はすごく安心した気持ちになった。でもなぜ自分が、こんなにも彼女のことを気にしているのか分からない。もしかしたら、親近感でも覚えているのかもしれない。

 休み時間のたびに、彼女は多くの人に囲まれ、話を聞くこととなった。笑顔は絶やさない。

 放課後、彼女は数人に一緒に帰ろうと誘われていた。しかしちょっと用事があるからごめんねと丁寧に断っていた。

 珍しいなと思いはしたが、僕が気にしても仕方ないので帰ろうとすると、彼女に突然、呼び止められた。

「あ、ちょっと待ってください」

 ゆっくり振り返って自分の顔を指差してみる。

「他に誰がいるんですか?」

と彼女は笑って話した。

「な、なに?」

「一昨日のこと気になったので……。君もなの?とはどういうことなのでしょうか?」

「……」

 やっぱりそれかと思った。素直に答えることにする。

「人の感情とか思いとかが流れ込んでくる感覚って……ない?」

 彼女は一瞬豆鉄砲を食らったハトのような顔をして、すぐに笑顔になった。

「あなたもなんですね。同じような人に初めて出会いました」

 ものすごく嬉しそう顔をする少女。

「どうして……そんな笑っていられるの?苦しいんじゃないの?吐きそうなくらい具合悪くなるんじゃないの?それなのに、どうして他の人の愚痴聞いたり、相談のったりするの?」

 いっとき考えた様子を見せて、彼女は

「あなたはこの体質のことが嫌いなんですか?」

「嫌いだよ」

 即答する。誰が嬉しくてこんな体質になるのか。

「そうですか……」

 彼女は少し悲しそうな顔をして続けた。

「確かに辛いときはありますけど、友達の皆さんが悩んでるよりはずっと楽ですよ。それに皆さんが優しい心を持っていることを私は知っていますから。ただちょっと傷つきすぎたり、表現するのがうまくいかないだけで」

 本気で言ってる目だった。いつもフワッとしていたイメージなのに、今は真っ直ぐに僕を見ていた。

「分からない。全然分からない」

「そう、ですか……」

 言ってることは分かる。でも分かることとできることは違う。僕も昔、恋愛相談を受けたことが一度だけあった。その後、トイレにこもってしばらく吐き続けた。

 沈黙した時間が流れる。

 「あ、私が呼び止めてしまって変な質問をしてしまったからすみません」

 彼女は深々と腰を曲げ、謝罪した。

「いや……こっちもなんかごめん」

「どうして謝るんですか。えっと、でも似たような人がいて、嬉しかったです。じゃあ、また来週ですね。さようなら」

 彼女はそう言い残して帰っていった。


***


「今日の放課後空いてますか?」


 週明けの月曜日に突然、白石むくから今日の僕の予定を聞かれた。

「今日は、特に予定はないけど……」

「じゃあ放課後、街で遊びましょう」

 彼女はにっこりと笑った。


***


 放課後、僕たちは地元で唯一のショッピングモールを歩いていた。

「これなんか可愛いかもです、どう思います?」

「さぁ」

 正直そう答えるしかない。服なんか兄のお下がりで事足りているし、女の子の服の良し悪しなんて分かるはずもない。

 彼女がどんな意図で僕を連れ回すのか全く検討がつかなかった。

 しばらくウィンドウショッピングをした後に僕たちはモール内のファミリーレストランで食事をすることにした。

 「これ、けっこうおいしいですね」

 店で一番人気のグラタンをふーふーしながら食べる彼女は楽しそうだった。普段は聞き役の彼女しか見ていないので、こんなに話す人だったのかと思った。

 のこのこ着いてきたのは、単純に彼女に興味があったから。恋愛的な意味ではなく、体質的な意味でだ。それに不思議と彼女といても体調は悪くなるどころか、良くなっている気がした。

 その後も彼女は話し続けた。

 前住んでた都会の話や最近ハマっている趣味、ペットの愛犬の話や近所の小さい子どもと仲良くなった話。

「って、ちゃんと聞いてるのかな?」

「うん。聞いてるよ」

「ほんとに?」

 彼女は気持ちが高ぶると敬語ではなくなるみたいだった。また新しい発見だった。



***


 彼女の追求がヒートアップしてきたので、僕はトイレに避難することにした。席をたち、少ししてから突然、怒鳴り声が聞こえてきた。声のする方を見ると、50代半ばくらいに見える神経質そうな男性が店員に怒鳴っていた。内容は分からないが、店員が謝っていた。

「料理が来るのは遅いし、来たと思ったら焦げたもの出すし、いったいどうなってるんだこの店は!」

 どうやら店側に不備があったみたいだ。少し好奇心で覗いてみると定番のドリアだった。それほど焦げているようにも見えない。正直、クレーマーかなと思って、店員さん頑張れ。そう、心の中で呟いた。

 話の内容に少し夢中になっていたら、白石むくが隣に来ていて驚いた。彼女は、その光景を辛そうに見ていた。店員の気持ちを哀れんでいるのだと思った。しかし、彼女の目は男性に対しても区別なく向いているように見えた。

 そのとき、4、5歳くらいに見える女の子が走ってきて、彼女にぶつかった。その女の子は、その拍子に転んでしまい、泣き出してしまった。すぐに親らしき女性が来て、子どもの粗相を謝るのだと思った。でも全く違う展開になった。

「娘が怪我したらどうするのよ!こんな細い通路でボーッと、つっ立ってて邪魔になるって分かんないの?」

 僕はとっさに言い返そうとした。しかし、彼女はこちらを見ずに手を僕の前に出した。行動の意味は分かる。口を出すなということだろう。それでも僕はモヤモヤした。

「すみませんでした」

 彼女は腰を深々と折り、謝罪の意を示す。おかしい。彼女は間違いなく被害者なのに。

「謝って済む問題じゃないでしょ!」

 母親の女性は怒り心頭といった様子でしばらく彼女に罵声を浴びせ続けた。ひとしきり言い終えて満足したのか席に戻っていった。

「大丈夫?」

 僕は彼女が心配だった。

「大丈夫です。ありがとうございます」

 彼女はいつものように柔らかい笑みを浮かべた。おかしい。理不尽にも程があると思った。

 おかしいのは、それだけじゃなかった。先ほど店員に怒っていた男性がすごく朗らかな顔で店員と談笑していたのだ。さすがに、その光景には目を疑った。

 彼女はそれを見て、優しそうな眼差しをその2人に向けていた。


***


 白石むくと放課後に遊んだ日から1週間が経った。僕は1つの仮説を立てた。そしてそれはほぼ間違いなく正解だと僕の直感は告げていた。

 白石むくは、他人の感情を吸収するのではなく、他人にふりかかる「不幸」を吸収するのだと。

 もうほとんど確信に近い。不可思議としか思えないファミリーレストランの時のようなできごとに何度も遭遇したからだ。

 体育の時に、突き指をした女の子を彼女が保健室に連れていった。それにも関わらず、体育の授業に帰ってきたのは、突き指をしたクラスメイトだった。彼女の指は治り、白石むくは体調を崩してしまったらしい。

 調理実習のときも同じだった。包丁で指を切った生徒後に、彼女はばっさりと手を切ってしまった。指を切ったクラスメイトの血はドクドク流れていたはずなのに、いつの間にか止まっていた。

 そんなことが何度も続けば僕も確信せざるを得なくなる。

 彼女は他人の苦しみを肩代わりしている。あり得ないような話だが、彼女を見ているとそうとしか思えなかった。

 僕のものとは比べるのも失礼なくらいの痛みや苦しみをたくさん経験しているのではないかと思うと胸が潰れそうなくらい苦しくなった。

 

***


 それから彼女は、定期的に学校を休んだ。クラスでは、優しくて明るいけど身体の弱い人という扱いになっていた。

 僕はそれがたまらなく嫌だった。

 彼女が久しぶりに学校に来た日、僕は彼女を放課後の屋上に呼び出した。

「話ってなんでしょうか?」

 彼女は戸惑った様子を見せる。

「もう、やめなよ。他人の不幸を背負うのは」

「…………」

「君がそこまでして助ける価値のある人たちなの?どうして君ばかり苦しまなければならない。おかしいって、そんなの……」

 彼女は、困ったような笑みを浮かべた。

「……ありがとうございます。心配してくれて。でも、私はこんな素敵な贈り物をしてくれた神様に感謝しています。そして私だけが特別なわけじゃない。誰もが同じような心を持っていると信じているんです」

「そんなわけない。この世はエゴでできている。誰もが自分が一番大切で、一番可愛いんだ」

「そのことは否定しません。でも、他の人を思いやる気持ちは全ての人、いいえ、全ての生き物にあるものだと思います。だから、私は特別なことをしているつもりもありませんし、やめるつもりもありません」

 確固とした決意があった。僕はその言葉に何も反論することはできなかった。

「でも、ありがとう。私を心配してくれて、分かってくれる君の存在は私にとって大切な大切なものです」

 そんなんじゃないんだ。ただ、君を傷つける全てが嫌で、傷つく君を見るのが嫌で、なのに自分も彼女に救われたがってる。そんな自分が一番嫌いなだけなんだ。


***


 屋上で話した日から彼女と話をすることはなかった。教室の一番端で彼女がクラスメイトと談笑するのをただ眺めている。

 変わらない笑顔。青白いとも言える彼女の肌。あまりにも透明で、いつか消えてしまうんじゃないかと思えた。

 彼女には、彼女にだけは幸せになって欲しかった。彼女はああ言ったけど、この世は憎悪や嫉妬、嘘や裏切り、そんなもので満ちている。その思いは変わらない。

 彼女は、そんな濁りきった池に落とされた一滴の真水のような存在だった。穢れなき彼女にだけ備わる特別な力を神様は与えたんだと思う。

 神様は残酷だ。誰よりも優しい彼女に、誰よりも辛い思いを味あわせるのだから。

 そんな彼女が幸せになることを誰よりも僕は願った。


***


 明くる日の朝、担任が言った。

「白石さんが、事故に遭って、入院することになりました。特に仲の良い人はお見舞いに行ってあげて欲しい。病院の住所は………」

 僕は文庫本を手から落とした。

 彼女が事故に遭った。入院。理解するのに少し時間がかかった。

 事態を冷静に把握した僕は激しい後悔におそわれた。あの時、無理やりにでも彼女の行動を止めさせるべきだった。嫌われようが、どうなうが強くうったえるべきだった。そうすれば彼女が、事故に遭うことはなかったかもしれない。いや、きっとなかった。

 担任の言葉を途中から聞き逃してしまった。僕は教室から出ていこうとする担任を呼び止めて、彼女の入院先を聞いた。


***


 放課後、僕は彼女の入院する病院を訪れた。街で一番の総合病院だった。

 はやる気持ちを抑えて、病院に入る。

 彼女が事故に遭ったのはショックだった。けれど最悪の事態は避けられた。彼女は生きている。生きてさえいれば、また笑って話せる。無理やり自分の心を安定させた。大丈夫。大丈夫なんだ。と言い続けた。

 受付で彼女の名前と、お見舞いに来たことを告げる。受付の人は顔を一瞬ハッとした顔をする。しかし、すぐに事務的な態度に戻った。そして彼女の病室を教えてくれた。

 病院では走ってはいけないと分かっていても、気持ちが急いてしまう。

 病室に入ると、白いカーテンが風で持ち上がっていた。壁もカーテンも電気も、そして彼女の横顔も白くて綺麗だった。素直にそう思った。

 一瞬だけ、彼女の周りに無数の管がある映像を浮かべたが、現実はそんなこともなかった。

 窓の外を眺めていた彼女は、こちらを向いた。そこに、いつもの笑顔はなかった。頬が涙で濡れていた。

 僕は動けなかった。人はこんなにも透明で寂しそうで悲しい目をするのかと思った。

 すぐに彼女は目をこすって、笑顔を浮かべてくれた。

 まっすぐ見返すことができない。彼女が生きてくれていたのに、全く僕の心が安らぐことはなかった。

 





***


 それから、先ほどの受付の女性が病室に入ってきた。

「見た目で分かる外傷はないんだけどね。脳に少しダメージがあって、もう二度と話すことはできないそうよ」

 彼女はもう話せない?あまりにも現実味が無さすぎて、逆に淡々と聞こえた。実感が伴っていない。

「僕、身内とか、そんなのじゃないんですけど、話して大丈夫なんですか?」

「本当はダメなんだけどね。彼女がメモ書きに書いてくれてね。同い年の優しそうな男の子が必ず一番に来てくれるから、彼にだけは伝えて欲しいって」

 彼女を見る。彼女はにっこり微笑む。耳は聴こえているらしい。

 自分を信頼してくれている。それはとてもありがたいことだし、本来なら喜ぶべきことだと思う。だけど今の僕には嬉しいと思える余裕がなかった。

 彼女の横までふらふらと歩き、ごめんなさいと繰り返すことしかできなかった。僕が本気で止めていれば良かった。彼女の意見など聞かずに、無理やり。でも、それでも彼女は止めなかっただろうか。

 彼女は困ったように笑っていた。


***


 それから毎日のように彼女の病室を訪れた。

 彼女は話せないので、紙に書いてもらった。彼女はやたらとクラスメイトや学校のことを聞きたがる。話の中身は普段の世間話と大差なかった。それでも、彼女が笑ってくれることが一番嬉しかったし、絶やしたくなかった。

 彼女の肌はより一層、透明さを増していた。それとともに腕なんか小枝のように細くなっているように見えた。

 受付の看護師が言うには、ほとんどご飯も食べていないという。彼女をなんとか笑わせたかったけど、疲れさせてもいけないのでそんなに長居はしなかった。

 帰ろうとすると彼女は一瞬寂しそうな顔をするけど、すぐに笑顔で手を振り、見送ってくれた。そのたびに僕は自分のやっていることが正しいのか、僕のエゴなんじゃないかと考えしまう。


***


 彼女の容態が急変した。命の危険もあるという。昨日まであんなに笑顔だったのに信じられなかった。

 手術の甲斐あって、一命はとりとめたものの、予断を許さない状況が続いた。彼女と会えたのはそれから5日後のことだった。

 病室での彼女は、見るからに痩せ細っていて生気がなかった。正直、見るのも辛かった。

 看護師さんの話では、もう余命幾ばくもないということだった。

 

***


 彼女の大切な時間を僕なんかで消費して本当に良かったのか、本当はもっとやりたいこととか、叶えたいこととかあったんじゃないだろうか、そんなことばかり考えてしまう。家でも教室でも彼女のことしか考えられなかった。

 いつ最期の別れになるか分からない。僕は会える日は全部、彼女のそばに居続けた。僕がそうしたかった。

 何度か彼女の親御さんに会った。僕は学校のクラスメイトだと言うことを伝え、彼女の学校での様子を話した。彼女の母親は我慢できずに泣いていた。彼女の父親もそんなに変わらなかった。僕は、どうすることもできなかった。


***


 僕は夢を見ていた。彼女が僕にあれがしたい。これがしたいと甘えてくるのだ。どうやら僕は、夢に見るほど彼女にご執心らしい。僕は彼女のしたいことを全部叶えてあげた。その時間は優しくて幸福な時間だった。

 目が覚める。先ほどの幸福は夢だったのだとさとる。いつの間にか彼女の眠るベットの横でうとうとしてしまっていた。そんなとき、


──手を、握ってほしいです。


「え?」

驚いて、声が出てしまった。まだ寝ぼけているのか、それとも幻聴が聴こえるほどに疲れているのかもしれない。


──お願い。手を握って。少しでいいから。


また聴こえた。今度はかなりはっきりと。驚いたことに彼女の指がかすかに動いた。僕はギュッと彼女の手を握る。


──ありがとうございます。落ち着きますね。


彼女の心の声が聴こえていようが、僕の心がおかしくなって作り出した幻影なのか、そんなことはどうでも良かった。彼女と話せることが、たまらなく嬉しかった。


***


「何かやりたいこととか、して欲しいこととかある?」

 僕は彼女に優しく語りかける。彼女の顔が少し動いた気がした。

──じゃあ、して欲しいことが1つあります。私の分もたくさんの人に、あなたの優しさを振りまいてあげて欲しいです。あなたが誰よりも優しい人だと私は知っています。だからよろしくお願いしますね?

「君みたいに優しくすることはたぶんできないけど、できる範囲でやってみる。約束する。他にはない?」

──うーん。そうですね。恥ずかしいけど、実はもう1つあります。

「なに?」

──ぎゅっと抱き締めてしてほしい、です。

「わかった」

僕は彼女の身体を優しく抱き締めた。

──嬉しいな。それとあと1つだけ。キス、して欲しい。

「後から怒ったりしない?」

──しませんよ。心配性ですね。

 僕は、彼女の綺麗なおでこに唇をつけた。すぐに身体を離す。

──あ、そっちなんですか。ちょっぴりがっかり。でも、ありがとうございます。私のファーストキスですよ。

「そっか。それはとても光栄だよ」

 彼女の優しい笑い声まで聞こえてくる気がした。その日は面会の終了時間ギリギリまで、僕らは話し続けた。


***


 そして彼女は、その2日後、この世界から旅立った。

 葬儀はしめやかに行われた。火葬も滞りなく終わった。彼女の骨はすごく小さくて白かった。涙は出なかった。もう僕には流すほどの涙は残っていなかった。彼女が入院した日から少しずつ使い果たしてしまった。

 多くの人にイラついてしまったけど、彼女の約束を思い出して顔には出さなかった。僕は彼女のようにはなるになれるんだろうか。正直、自信はなかった。


***


 葬儀の後に、彼女の両親から呼び止められた。何度もお会いしているので、もう顔見知りのようなものだ。

 僕は深くお辞儀をして、お悔やみの言葉を述べた。少し話をしたあと、彼女の母親から一枚の可愛い封筒を手渡された。

「これは、たぶんあなたに向けて書いたものだと思うわ。むくの病室の棚の引き出しに入っていたそうよ。申し訳ないけど、中は見せてもらいました」

 僕はその手紙を受け取り、その場で読ませてもらった。


***


『私は、あなたが思うような綺麗な人間ではありません。苦しみに耐えられなくて、それでこの街に逃げてきました。本当は苦しくて苦しくてたまらなかった。どうして私だけこんな目に遭わないといけないのといつも泣いていました。

 あなたにもいっぱい嘘をついてしまいました。弱いところを見せるのが恥ずかしかったし、嫌われてしまうんじゃないかってすごく怖かった。

 幻滅しましたか?でも、これが本当の私です。屋上であなたが私を本気で心配してくれたこと。本当に嬉しくて嬉しくてたまらなかった。こんなに優しい人が、この世界にもいるんだって。本気でそう思いました。あなたは私の憧れでした。

 

 私はあなたのことが大好きです。


 でも、私の口から直接伝えることはもうできないんですよね。それはちょっぴり残念です。いつかこの手紙を渡せたらいいなと思います。恥ずかしいです。いつになることやら。

 渡すとき、私はおそらく真っ赤な顔をしていると思います。君も少しくらい赤くなってほしいな。

 あんまり長くなりすぎても良くないと思いますし、そろそろ筆を置きますね。

 私は誰よりもあなたの幸せを願っています。


         愛する君へ白石むくより』


***


 彼女がいなくなった世界で10年経った。

 君がいなくなった日の空はむかつくくらい晴れ渡る空だった。今日、職場から見る空も透き通るほどきれいな快晴だった。暖かい空だった。

「ちょっと聞いてよ」

 高校から腐れ縁の女性に引っ張られて、行きつけの居酒屋に行くのも習慣になった。

「あたしの彼氏、また浮気したんだけどどう思う?」

「そりゃ、大変だったね」

「でしょ?でも、あたしにも何か問題があるのかもって最近思ってんの。あいつを傷つけたり、寂しい気持ちにさせてることがあるかもしんないし。というかあるよね絶対。

っていうか、あんたは悩みとかないわけ?いつもあたしばっか聞いてもらってるし、感謝してんのよ?これでもさ。なんかない?」

 全ての人は優しさを持っている。それが傷ついたり、表現が苦手だったりするだけなのだ。

 今やっと、彼女の言葉の意味が少し分かる。そんな気がした。

 もう人が苦手だとは思わなかった。

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人間アレルギー 双葉 紡 @nanimono814

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