第26話 「騎士の覚悟」
唸る剛腕。
その動き自体は力任せに振っているだけなので読みやすいが、身体のすぐ傍を通るだけで身震いしそうな圧力を感じる。
一撃でももらえば終わり。
そんな状況に身を置くのは、これまでに何度も経験してきた。
だが俺も人だ。恐怖という感情は存在している。経験を積んだことで一般より耐性こそあれ、生物である以上はなくならない。
故に胸の奥底に感じている冷たさや暗いものに屈してしまえば、その瞬間に絶命するだろう。
「ゴロォォスゥゥ!」
頭上から叩き落された右腕が地面を砕く。
その威力を見る限り、直撃すれば木っ端微塵になりそうだ。痛みで苦しみながら死ぬことはないだろうが、そもそも死ぬことなんて望まないだけに考えたくはない展開である。
さてどうする……。
今のヨルクは、ほぼ全身を硬い剛毛で覆われている。天然の鎧を纏っているようなものだ。迂闊に斬り込めば刀の刃を痛めてしまう。そうなれば不利になるだけだ。
防御が薄いのは剛毛に覆われていない顔や手足。関節部も稼働領域を確保するために比較的毛は薄いように思える。狙うならばそのへんになるだろう。
だがヨルクは、今や完全に人の枠を外れた存在。
動きこそ単純だがその膂力は驚異的だ。魔法による身体強化がなければ動きに付いて行くことも危うい。もしも奴に少しでも理性が残っていたり、肉食獣のような狩り能力があったならば防戦に追い込まれていただろう。
仮にもう1体この場に居たなら終わっていた。
しかし、現実はヨルクひとり。それならまだやりようはある。
「ジィィィイデェェェェェッ!」
眼前に迫る右拳。その迫力は巨大な岩が向かってくるかのようだ。
安全を取るなら左右に避けてから踏み込むべきだが、変異が全身に広がったことでヨルクの身体能力や反射速度は上がっている。
また獣の如き本能が表面化しているだけに同じ個所への攻撃は直感的に防ごうとする可能性が高い。
つまり俺が有効打を与えるには最短最速の踏み込みが必要になる。そのためにはこの圧迫感のある攻撃を紙一重でかわす他にない。
「――ッ」
腕に生えている硬い毛が頬を掠めたのか薄皮一枚切れた感覚に襲われる。
だがその程度のことを気にする小心者ではない。さらに1歩踏み込み、盛大に開けられていた口に向かって突きを放つ。
牙にでも当たっていれば別だっただろうが、全体的に硬質化した身体も内部はそうでもないようで刀の切っ先は貫通し後頭部から姿を現す。
ヨルクは声にもならない悲鳴を漏らすが、先ほど与えた首元の傷もすでに塞がっている。常識を逸脱した回復力を有しているだけにこの程度の傷では絶命なんて不可能だ。
魔人を倒すためには脳や心臓を潰すしかない。ただヨルクはすでに俺の知る魔人とも異なる存在だ。この方法が有効かは分からない。
しかし、実体のある生物であるのは間違いない。ならば有効である可能性は高いはずだ。
そのため俺は手首を返して刃の方向を変えると、担ぎ上げるように刀を振り抜き口から頭に掛けて両断した。鮮血が舞い散ると共に怪物の身体から力が抜けていく。
「…………やったのか?」
その問いに答えられる者はいない。
ヨルクのような存在はこれまでに観測されておらず、またこの場に居る者も限られている。判断はこちらでするしかないのだ。
見た限り全身から力は抜けているようだが……。
人の枠から外れた存在を人の価値観で測るのは危険だ。それは理解している。
だがこちらは連戦だったのだ。手にした刀もずいぶんと刃こぼれしており、心身共に疲労が蓄積している。これ以上戦闘が長引くのはご免被りたい。
それに……傭兵の方は動けなくしただけで殺したわけじゃない。もうしばらくは動けないだろうが、長引いて回復でもされたら命を落とすのはこちらだ。
状況の確認のために意識を傭兵の少女へと向けた。直後――
「……ウオォォォガアァァァッ!」
恩讐の籠った雄叫びと共にヨルクが起き上がり剛腕を振るってきた。
それに気づいた俺は回避行動を起こすが完全に避けることは出来ず、硬い毛が額を掠める。
このままでは危険だと思い後方へ跳躍し、安全の確保のために一度距離を取る。
「……チ」
立ち上がるヨルクを見ながら舌打ちをこぼす。
これは奴の規格外の治癒力にではなく、先ほど掠めて出来た傷に対してのものだ。
「おいルーク! 大丈夫なのかよ?」
「ああ、少し切れただけだ」
そう少し切れただけ。
だが頭は傷口が浅くても血が噴き出してしまう。しかも噴き出した血は左目を通るようにして顎まで伝って行っている。
目に血が入るまでに瞑りはしたが、どちらにせよ左側の視界を奪われたのは間違いない。
こういう状況になるのは魔竜戦役の頃に何度かあったので初めてではない。だが普段から片目で生活しているわけではない。右目だけという状況だと多少なりとも距離感が狂ってしまう。
「どうする……」
左側は死角。そちらから攻撃された場合、敵の動きから軌道を先読みすればかわすことが出来るだろう。
だがこれまでのように紙一重で避けることは難しい。少しでも距離を間違えれば、直撃をもらわなくてもあの硬い剛毛に削られる。最悪体勢を崩して終わりだ。
それ以上に問題なのは……俺ひとりでは奴を倒しきれないことだ。
脳にダメージを与えて一時的に動きが止まったところを見ると、奴を倒すには脳を破壊すればいい。ただ最低でも脳を木っ端微塵にしなければならない。
しかし、今の状態ではその機会を作るのも厳しい。
こちらは視界の半分を失っている状態であり、敵は頭部への警戒を強めているだろう。
視界が万全の状態ならばどうにか出来たかもしれないが、そんな仮定の話をしても無意味。今は今の状態で考えるしかない。
心臓を狙うのも手だろうが……鎧のような剛毛と強靭な筋肉を貫くのは厳しい。となれば頭を狙う他にないだろう。
だが俺は強力な攻撃魔法は使えない。
それに敵の回復の速さを考えれば、可能な限り一撃で木っ端微塵にするのが望ましい。なら……
「ユウ、悪いが少しだけ手伝ってくれ」
「わぅ! ルーク、何を手伝えばいいんだ? 陽動か?」
「いや、そっちは俺がする。お前はアシュリーから剣を借りて一撃入れてくれたらいい」
「分かった……って、オレ剣とか使ったことないぞ?」
「大丈夫だ。思いっきり叩きつけるつもりで振ればいい」
アシュリーの剣は、彼女の人並み外れた力に耐えられるように頑丈さを優先して作った魔剣だ。重量も一般の武器と比べると格段に増している。
故に俺では魔法で身体能力を向上させていない状態では振り回される。身体強化していても今のヨルク相手に戦えるかと言われると難しい。人と人外では筋力が違い過ぎるし、何より今の俺は片目しか満足に見えないのだから。
そのため敵を倒すにはユウの協力が要る。
元々身体能力の優れた獣人であるユウならばアシュリーの剣も難なく触れるだろうし、何よりヨルクに対して躊躇がない。まあそもそもアシュリーがヨルクに対して剣を振れないのだからユウを頼る他にないのだが。
「それならオレでも出来るな。よし、ちょっと待ってろ……おいバカ女、話は聞いてただろ。その剣オレに貸せ」
「……ダ、ダメ」
「は? ダメって……お前この状況分かってんのか!」
「分かってる! 分かってるけど……」
あまり意識を割くことは出来ないが、どうやらアシュリーは唇を噛み締めながら腰にある剣を力強く握りしめているようだ。彼女の胸中には何かしらの葛藤が渦を巻いているのだろう。
状況からすれば英断と言えない。
ただアシュリーはまだ20年も生きておらず、戦時も兵士ではなくただの被害者だった。また刃を向けなければならない相手は交流のあった者。感受性が高く情に流されやすい彼女に即決しろというのも無理な話だ。
しかし、そんなことはユウには関係がなかった。
思い切りアシュリーの胸倉を掴むと狼の如き目で睨みつけ感情を爆発させる。
「分かってる? ふざけんな! てめぇは何も分かってねぇよ!」
「分かってるってば!」
「分かってねぇからそんな駄々こねてんだろ! お前、ルークを英雄だとか神様だとか思ってんのか? ちゃんとよく見ろ! あいつは今怪我して血を流してんだよ。オレに助けを求めるほど追い込まれてんだ!」
「そ……それは」
「いいか! あいつは強いけどな、オレよりも脆い身体してる。さっきのだって1歩間違えば死んでたんだ! オレたち獣人だって死ぬときは簡単に死ぬ。お前ら人間はもっと簡単に死ぬ。お前はルークが死なないとでも思ってんのか!」
これまで俺を知る者は、俺を英雄の名を捨てた元英雄として見てきた。その力を間近で目の当たりにしてきたアシュリーも英雄に向けるような感情を抱いていたかもしれない。
だがそれは当然の流れだ。
おかしいと否定することは出来ないし、英雄のひとりとして戦ったことは事実。そのときの名を捨てたとしても俺の過去であることに変わりはない。そして、力が衰えたわけでもないのだからそれを見たものは自分とは別格の存在として見てしまうだろう。
ユウがそういう思考をしなかったのは、ひとつ屋根の下で暮らしていることもあるが大半は種族が違うからだろう。彼女の言うように獣人より人間は脆い。獣人なら生き残る傷でも人間なら命を落としてしまう。
それに……ユウは幼い頃から両親に連れられて世界各地を旅をしてきた。独りになってからも旅を続けていた。残酷な現実は嫌というほど見てきたのだろう。
「だ、だって……」
「だってもクソもねぇ! ルークもお前と同じ人間なんだよ。お前より少し長生きしてて争いごとに慣れてるってだけでお前と変わらない人間なんだ!」
「っ……」
「大体お前騎士なんだろ? 人を守るのが仕事なんだろ? だったら……斬りたくないとか甘っちょろいこと言ってないで、嫌な想いとか全て呑み込んでオレやルークのこと守ってみせろよな!」
その激情のままユウはアシュリーを突き飛ばすように放す。
俺が意識を割けたのはそこまでだった。ヨルクが憤怒の形相で襲い掛かってきたのだ。動きこそ直情的だが片目で捌かなければならないため、わずかに反応が遅れてしまう。
「どうすんだ! あのままじゃルーク死んじまうぞ。自分で斬れないって思うならさっさとその剣渡せ。また渡せねぇとか言いやがるならぶん殴ってでも奪い取るからな!」
「……やる。……あたしがやる!」
「本当に出来んのか!」
「出来る出来ないじゃない! やるって決めたの! だってあたしは……みんなを守るために騎士になったんだ。みんなを守る剣に、みんなを守る盾になるんだから!」
どうにか捌ききり再び距離を取ると、腰にあった剣を勢い良く抜き放つアシュリーの姿が見えた。
今のアシュリーの瞳には怯えも見えはするが確かな決意が宿っているように思える。以前見せた一時的な激情による克服ではない。
おそらくアシュリーは見つけたのだろう。
自分だけの斬れる理由を。騎士としての在り方、そして覚悟を。
「アシュリー、本当にやれるんだな?」
「うん! あたしが……ヨルクを斬る!」
「だったら俺が奴の動きを止めたら走り込んで来い。念のために言っておくが迷うなよ? お前が迷えば十中八九、俺は死ぬからな」
「人が覚悟決めてやるって言ってるんだからプレッシャー掛けるのやめてくれる!」
そう言うな。こっちは命懸けで敵の動きを止めるんだ。死んでからでは文句は言えない。先に言っておく権利くらいもらってもいいだろう。
まあ……普段通りの反応が返ってきたあたり、気負い過ぎてることはないだろう。
これまでアシュリーを頼りにしたことはないが、不思議と今は任せられる気がした。だからこそ前に進む足も軽やかになる。
「ゴォォォォォロオォォォォォスゥゥゥゥゥゥゥ……!」
「ああ、いい加減終わりにしよう」
左腕の袖で額から垂れる血を拭い左目を開く。
血が止まったわけではないため視界が開けるのは一瞬ではあるが、状況把握と先読みは片目で行うより精度が上がる。
殴り払うように振るわれる剛腕を紙一重のところでかわして更に踏み込み、その足を軸にして回転。比較的毛の薄い膝裏を斬り裂く。その時には血が再び左側の視界を奪ったが気にする必要はなかった。
断ち斬ることはおろか深手を与えることは出来なかったが、体格そのものが変化し重量の増した身体を支えるには万全な状態でなければ難しかったのだろう。予想以上にヨルクの身体は沈みバランスを崩す。
それを補うために地面に着いたヨルクの右手目掛けて跳躍し、全体重を乗せて地面ごと貫いた。
ヨルクは悲鳴を漏らし暴れるが、刀によって地面に縫い留められた右手はわずかだが確かな時間拘束される。刃こぼれしていたのが良い方向に働いたかもしれない。
「やあぁぁぁぁぁぁぁッ!」
その隙を逃さず気合を発しながら走り込んできたアシュリーは、思い切り地面を踏み切り高く跳躍する。重量のある
「……ごめんね」
――一切の迷いなく振り下ろした。
並外れた筋力と硬度に優れた魔剣の一撃は、怪物の頭部を爆ぜるように粉砕するだけでなく地面すら割り砂塵を巻き上げた。
この国の騎士団長である大男が放ったなら納得も行くが、騎士になったばかりの少女が放つ攻撃としてこれはどうなのだろう。直撃すれば一瞬かつ一撃で即死である。
頭部を失ったヨルクの身体は少し痙攣などを起こしたものの徐々に力を失った。
また回復するかもしれないと思い警戒は解かなかったが、傷口が再生する兆しは確認できない。どうやら無事に討伐出来たようだ。
「あ…………ぁ……」
肉を裂き骨を断つ感触。命を奪った実感が沸々と込み上げてきたのか、アシュリーの顔色が一気に青ざめ身体が震え始めた。
俺はゆっくりと近づき……切っ先が揺れていた血の付いた魔剣をアシュリーの手から抜き取る。
人の温もりに触れたからか、視界から得物が消えたからか。緊張感の解けたアシュリーの顔には一瞬血の気が戻ったが、すぐに口元を押さえるとこの場から走り出し……少し進んだところで盛大に胃の中のものをぶちまけた。
その様子に過去の自分が重なる。
このまま進めば彼女も俺のように平気で人が斬れる人間になってしまうのだろうか。その方が彼女は苦しまないのだろうが……
もしもガーディスが言っていたような時代が訪れるならば、どうかそのままであってほしい。
当たり前のように正義を語れて、当たり前のように命の奪うことに抵抗を覚え、当たり前のように人の死を悲しめる。その純真さを忘れないで欲しい。
そう思うのは俺のエゴだ。
だがそれでも……アシュリー・フレイヤは騎士なのだ。
世界のためでもなければ王のためでもない。助けを求める者を、困っている者を助ける騎士なのだ。もしその在り方が変わってしまえば、俺のように血に塗れるだけの英雄になるかもしれない。
騒がしくてうるさくてウザったい。甘えた考えの構ってちゃんだが……どうかこれからもそのままで。
醜さのなくならないこの世界で、アシュリー・フレイヤの在り方は美しいものなのだから。
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