Ich bin dein, Du bist mein.

juno/ミノイ ユノ

Ich bin dein, Du bist mein.

Ich bin dein, Du bist mein. (僕は君のもの、君は僕のもの)


 

 見覚えのある伏し目だった。いや、見覚えがあるなんて、生易しいものではない。置かれたアイシャドウの紫貝、白く抜けるような肌、内巻きの金髪。すれ違ったときに不意に鼻を衝いたエスカーダの香りも一緒だ。だからその女を見た。似たような女だから見ないようにしたのに、同じ香りがしたから目を向けてしまった。

 ああ本当によく似ている。愛した人に生き写しで、僕は暫く煙草の灰を落とせなかった。石畳にぼろぼろと侘しい燃滓が零れるのも構わず僕は釘付けになる。特徴的な耳のひだの形、左首筋の黒子。同一人物でないと一致しないようなものまで一緒だ。なんてことだ。一段と高く鳴る胸をおさえつけるようにして咳払いをしたが、彼女はさして僕のことなど気にならないようだった。

 肉感的な唇が男の名を呼ぶ。当然僕の名ではない、聴きなれない響きだ。彼女がヒールを鳴らして、男に駆け寄る。人の好さそうな男は、柔らかな彼女の胸を腕に押し当てるようにして歩いて行ってしまう。一瞬の出来事だ。僕が煙草を吸いに職場の外へ出た、ほんのわずかな時間のことだった。煙草はじりじりと燃えて僕の人差し指を焦がすところだった。感じ始めた熱に、慌てて煙草を灰皿へ押し付ける。


 それが昨日のことだ。そして今、彼女は僕の目の前にいる。


「もう一度やり直したいの」

 彼女が涙を拭う。長い睫毛の伏し目から零れる、涙を受け止めるハンカチからは昨日と同じエスカーダの香りがする。可哀想に、愛用の紫貝は既に半分溶けて落ちてしまっていた。なんとも哀れな姿ではあったが、流石に昨日の今日で何もしてやれることがなさそうだ。僕はすっかり冷めてしまったコーヒーを、持たない間を繋ぐために口に含む。不味いコーヒーだ。これならビールを頼んだ方がよほど良かった。

「話が見えないんだけど」

「だから……! 何度考えても、あなた以上の人なんていないってわかった。私が何回あなたを想って泣いたか、知らないでしょう。毎日とてもつらかった。やり直しましょう。もう、我儘は言わないから」

 こういう時にどのような顔をしたらいいかわからなくて、とりあえず笑うことにした。はは、と絞り出した声はちっとも楽しそうじゃない。僕の知る彼女は愚かで多情ではあったが、嘘つきではなかった。いや、極端なまでに嘘を嫌う人だった。僕のついた些細な嘘……たとえばこないだ殺人犯を捕まえて警察に表彰されたとか、店中のビール樽をすっからかんにするほど飲み明かしたとか、そういう一度聞けばわかる冗談であってもあからさまに眉をしかめたものだ。あなたの冗談が私にはわからない。そう言ってへそを曲げるのは何とも厄介だったので、僕はほらを吹くのをやめた。煙草の量は増えたが、そんなことはどうでもいい。

 僕は全く繋げない間に痺れを切らしてとうとう彼女の前で煙草を吸う。最近の煙草は質が悪くなっていけない。生活にまで影響を及ぼすくらいなら無理に統一なんてしなくてよかったのに。そう思いながら顔色を窺うと案の定嫌な顔をしていたが、頼みごとをしている立場と言うだけあって強くは出られないらしい。

「君がいま言ってるそれはさ、我儘じゃないのか」

「……そうね」

「君の我儘は最大の魅力だから、直さなくていいと思う。僕もそうじゃないと調子が狂うから」

「全然嬉しくないわ」

「だから泣かないで。いや、そういってもらえるのは嬉しいけどね。僕も変わらず独り身だし……」

 問うならば今しかない。昨日、職場の前で君を見かけた。幸せそうな顔をして腕をとっていたあの男は誰だい。僕の知らない男の名前を呼んでいたけれど、あれは君じゃなければ何だと言うのだろう。他ならぬ君を愛する僕が、君を見間違えるはずはない。

 そこまで並べた言葉がうまくかみ合わず、発声まで至らなくて僕は冷静に煙草を吸う。不味い煙草の紫煙の向こうに、美しい化粧を歪めて涙する恋人だった女。安っぽいドラマのようで、やっぱりなんだかおかしかった。騙されようとしているのかもしれないのに、随分と冷静なもんだ。

「ひとつ聴いても構わないか。君はさ……結局、僕のことが好きなの?」

「当り前よ。じゃなかったら、こんなにお願いしないじゃない」

「僕の名前を呼んで好きって言ってくれる?」

「好きよ。大好き。あなたしかいないわ、ウルリヒ」

 甘美な響きに胸がじーんとなる。この数カ月、何度この言葉を夢想して枕を濡らしただろう。別れを告げられてからというもの、煙草もビールも行きつけの店のクラブサンドもすべて砂の味がしたものだ。別れた彼女を女々しく思いやって、何度も何度も思い描いて、やっと会えた瞬間に他の男に抱き着いていたというのに、呆れたことに僕はまだまだ彼女のことが好きらしい。

 肩を竦めて、僕はそっと右手を差し出す。テーブルを挟んでいなければきっと抱きしめていただろう。

「約束してくれる? 今度は、離さないって」

 泣いている顔も綺麗な最愛の人。いいや、もう、喜んで騙されてやる。

 たとえ昨日の君が本物であろうと、今日の君が本物であろうと、僕は君に騙されてあげる。そんなことが些末なことに思えるくらい、愛されている実感が嬉しかったから。




***



 列車を待っている駅のホームで、知った顔を見かけた。彼は仕立ての良いスーツを着て、見覚えのある鞄を小脇に置いて公衆電話でどこかに電話をしていた。

 機械の上に積み上げたコインが長話を物語る。私は売店で新聞を買うふりをして、電話に向かうその人を何度も窺い見る。

 短く刈り込まれた亜麻色の髪、モスグリーンの瞳。冷徹そうに見える薄い唇はよく知っている。間違いなかった。半年前に別れた恋人だ。できることなら会いたくない、と思って別れた人。もう二度と人生で会うことがないと思った。だって、その手を離したのは私だったから。

 嘘が嫌いな私は、楽しませるために色々な嘘をつくその人のことを信じ切ることができなかった。彼はいつだって煙に巻いたような物言いをしたし、私が傷つくのをにこにこと見ているようなところがあって、ニヒルで、皮肉屋だった。その一方でとても頭が良くて、愛に対しては真摯な人だった。でなければ、愛することもなかっただろうし。

 私は電話の近くのベンチに座った。楽しそうに話をする声音を拾い聴く。変わらない優しい声音。私に愛をささやき、同時に小さな嘘を並べたあの声だ。それを聞きながらぎゅうっと胸が締め付けられるような気分になって、なぜだか泣きそうになった。

「……本当だよ。もう別れた。好きだったんだけどさ……仕方ないかな」

 私はなぜだかそれが自分のことであるような気がした。どくん、と一度高鳴った胸を落ち着けるように息を吸う。

 もう一度、今度は缶コーヒーを買うふりをして斜め前から顔を見た。でも彼はこちら側には全く気付かない。意図的に見ないようにしているように、私のことを避ける風な様子でもないのに。

 もう忘れてしまったのかしら。別れた女のことなんてどうでもいいのかしら。私だってずっとそうだったけど、でも、姿を見たら、そしてあの声を聴いたら、いやでも思い出してしまう。愛した日々を。愛された日々を。

「やっぱりね、僕にはウルズラ以上の娘はいないんだよ……息が苦しくって。うん……ああ……そうさ。僕から? ……それは無理だよ。ふられた男が反省してないんだからさ……彼女が戻ってきたら……そうだね、その時考えるかな」

 聴き間違えでなければ、彼が私の名を呼んだ。そして忘れられないと言った。動揺して缶コーヒーを開けられなくて、何度も爪を引っ掛けようとするがうまくいかない。

 彼は私のことをずっと愛していてくれたのかしら。私が、涙に暮れていた日々も。寂しさに堪えかねて他の人とデートをして、でも満たされなくてひとり冷たいベッドに帰った時も、私のことを想っていてくれたのなら、それ以上はないと思った。

 ボタボタと重い雫が手の甲に落ちる。不格好な涙できっとアイシャドウは悲惨なことになっているだろう。今日は、いつもと違って赤いシャドウを乗せてみた。でもやっぱりこうやって泣いたりして、直す羽目になるからいつもの紫で良い。

 そうこうしているうちに列車が来てしまった。残念ながらこの列車を逃すと接続が悪く、1時間は待たないと目的地には行けない。私は声をかけたくなる気持ちを抑えて、彼から視線を剥がせないままとぼとぼと列車に乗り込んだ。

 明日、久しぶりに彼の職場の近くに行ってみよう。そして彼が変わらず独りでいるなら、もう一度やり直したいとちゃんと告げるのだ。

 あなたを信じられなかった私が悪かった。

 あなたのことが好きなくせに見栄を張った私が子供だったの。

 あなたのこと忘れようとしたのに、できなかった。あなたのこと見ただけで、もうだめだった……

 頭の中をぐるぐるとめぐる言葉が列をなして、渦を巻いて踊る。好きだと言ったら彼はどんな顔をするだろう。許してくれるなら、困ったように肩を竦めるだろう。もう一度あの手を握るのだ、もう離さない。

 姿を見ただけで好きだと自覚するような、そんな恋をしていたことがもう昔のことのようで、私は肘をつきながら窓の外をぼんやりと眺めた。




END


男は手元を離れたと思い知った瞬間愛しく思い、女は思われ続けることを愛しく思う、というおはなし

(着想:ドッペルゲンガー)

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