身ひとつの月

juno/ミノイ ユノ

身ひとつの月

                   

 ふと立ち止まって見上げた月は何か恐ろしいほど煌々と輝いていた。あまりに大きく青白く、それを美しいと言うには言の葉が足りないような気がして、私は暫くぼうっと馬上に呆けた。

「どうした?」

「いや……月が」

「ああ。今宵は望月か、美しいな」

 軽々しくその言葉を口にできる友を羨ましく思う。月を愛で、讃える歌は古来幾千と紡がれてきたに違いない。しかしその歌の何れもが、今宵の月には不似合いであるように思えてならなかった。

「すっかり月が上ってしまったな。急がねばならん」

 馬の腹を蹴り、友は足早に闇を駆ける。私もそれを追うように手綱を引いた。宵口の生温さが纏わりつくようだったが、不意に吸い込んだ息は思ったよりも冷たく、秋の訪いを感じずにはいられなかった。


 私と友が生国を立ってよりおよそひと月になる。官を辞し、かねてよりの望みであった古の都へ下るのを打ち明けると、友は是非にと随伴を申し出た。私も一人旅は心苦しく、かといって旅連れに出来るような友もそう多くはないため、快くそれを受け入れたのである。

 この山を越えればもうそこは憧れの旧都であった。私は都に生まれ育った殿上人の身分ながら、幼い頃より旧都への憧れを一心に募らせて生きてきた。縁のあるものもないのにと一族が訝しんだが、当の自分もその由はわからぬままであった。ただ、昏く遠い南の山を思えば、いい尽きせぬ憧憬に胸が焦がれた。

 明かり一つない夜道を行くのはみすみす賊に命を差し出すようなものであったので、私も友も用心に用心を重ね、牛の如く遅々として歩を進めてきたのであった。しかし、今はすでにこうして宵の口に差し掛かってしまっている。宿は未だ先にあり、友は気が急いていた。

「夜道が明るうて助かった。見ろ、石など光っておる」

「あの先よ。月の下に彼の都があるぞ」

 次第に私自身も逸る気持ちを抑えられず、それが馬にも伝わったようだった。手綱を引くのが甘くなり、その一方で馬の腹へ入れる脚だけは確りと入る。

「待て、そなた……」

 友の声が遠くなりゆくのに気付いたのは既に夜霧に辺りを取り囲まれてからであった。気付けば蹄の他に音はなく、虫の音すら遠い有様で、私の背を冷たい汗が流れた。

 このひと月、友と逸れないようにとそれだけを心に留めていたが、こうして現に逸れてしまった時の心細さは尋常ではない。私は歩みを止め、友の名をひたすらに叫んだが、もの悲しい風の音の他に応える者もなく、まるで夜霧に何もかも吸い込まれるような心地がした。今の私を導くものは月よりほかにない。濃い霧の向こうに揺蕩う月が気紛れに照らす夜道を行くより他はなかった。賊にも狼にもくれてやれる命ではない。蹄の音が闇夜に木霊した。


 暫く山を行くと、ようやく霧も晴れつつあったが、相変わらず友の姿は見当たらなかった。馬の歩みもどことなく心もとない。私自身も汗をかき過ぎたせいか、喉の渇きが足元を覚束なくさせた。改めて月の照らす遠くを見据えると、なんと泉がある。私は今一度馬の腹に蹴り入れ、その泉のすぐ近くまで寄った。

 それはなんとも怪しげな泉であった。

 清らかと言えば清らかだが、澄み切っているわけでもない。月の光を波一つない水面が映し出す姿は神々しいものであったが、同時に生き物の気配も感じず、まるで常世のもののように見えた。馬は馬らしく音を立てて水を飲み始めたが、私はどうしても手を付ける事すら躊躇われ、畔に座り込むより他なかった。

 どのくらいそうしていただろうか、馬は水を飲むのを止め、傍らに体を折り曲げて鼻を鳴らしたきり動かなくなった。歩き詰めで疲れたのだろうと気にも留めなかったが、鳥も虫も鳴かぬ静寂の中で馬一頭の息遣いすら聞こえないことを訝しんだ私は何の気なしに馬の鬣を撫でた。しかしその体は既に凍えるように冷たく、馬は息をしていなかった。私は喉を締め付けるような声で叫び、その声が恐怖にひどく掠れていることに気づいた。自らの草の根を踏む音にまで怯えながら、這い出るように泉から離れようとした。

 その時、背を向けた泉から水音がした。無論風はなく、蛙の声すらない。私の本能が振り向くなと告げていたが、引き寄せられるように泉を見据えてしまう。何か大いなるものに従っているようであった。

 何か魔性の者が潜んでいるに違いない。私は抜けた腰をなんとか奮い立たせようとしたが、歯の隙より息が漏れ出るばかりで一切体に力が入らなかった。そうして怪しげな光は次第に辺りを照らし、私に迫るばかりで……。


「まあ、そのようなことが」

 一命を取り留めた私は、気が付けば苫屋暮らしの女に拾われて介抱されていた。一刻ほど気を失っていたらしく、月はとうに高く上ってしまっていた。粗末な身形の女は甲斐甲斐しくぼろ布を濡らしては私の額に乗せた。年のころは十四、五といったところか。ほっそりとした白い指が額を撫でた。

「馬を……弔ってやりたかった」

「左様でございますか。されど、お馬様はおられませなんだ。貴方様のみが、畔に倒れておいででした」

 女は少し癖のある喋り方をした。聞きなれない調子だったが、古い都の者は我々と違う言葉を喋ると聴く。殿上に侍り、狭い都しか知らぬ我々は言わば箱庭に生かされているようなものだ。このひと月の旅路は、そう思わされることばかりだった。

「大和へはこの前の道が近うございます。今宵は何もない苫屋でございますが、ゆるりと過ごされませ」

 見れば苫屋には女しか暮らしていないようであった。私とて殿上人の端くれ、女を知らぬわけではないが、出先にて都への足掛かりにと言い寄ってくるような女を傍に置くほど不自由はしていなかった。此度も人の手引きがなかっただけで要は同じことである。身形で私が民草の者ではないことはすぐに知れる。道中でもこのようなことはないではなかったのだ。そうした女は友が代わりに請け負ってくれていたのである。

 ただ私は疲れていた。そして、友はこの場にいなかった。いくら下賤の女とはいえ、女に恥をかかせて貴族の端くれに座すことは矜持が許さなかった。

「そなた、名は」

「……名乗るほどの者ではございませぬ。では」

 しかし女は不思議なことに名を告げようとしなかった。名を宣ることから男女の縁は紡がれると言うのに、その気が全くないようである。私も同様にあの光のことが案じられてならず、なかなか眠りに着けない。幾度か寝返りをうつ最中、苫屋の隙から月の光が差し込んでいるのが見えた。これでは雨の折など水浸しではないか、と思ったが、このような山の苫屋で一人暮らす若い女が「雨を避ける術」などいくらでもあるではないか、とさして気にも留めなかった。


 ところが再び目覚めてもまだ月は沈んでいなかった。

「そなた、朝はまだ来ぬのか」

 女ははい、と申し訳なさそうに答えるのみである。私はもう十分すぎるほどに寝たと思っていた。それなのに、月は傾くどころか相変わらず煌々と輝いている。先程よりもその明るさを増したようにすら見えた。

「今宵の月は長うございます。どうか御気兼ねなくお休みなされませ」

「月が長いなど……馬鹿な。私が奴と逸れた時にもう月は出ておったのに」

「人の感じ方などそのようなものでございます」

 私は女が止めるのも聞かずに苫屋の外へ出た。鬱蒼と生い茂る木々の向こうに丸々と望月が輝いていた。なるほど月は友と眺めた折より二回りは大きく見える。あまりの輝かしさに言葉を失っていると女は美しゅうございますわね、と背後から声をかけた。私はそれには答えず、苫屋の奥へ入って茣蓙の上に寝た。気味が悪かった。そして月は美しかった。


 --宮中の由無し事には疲れ果ててしまった。そう父に打ち明けると、父は無い髪を逆立てて烈火の如くお怒りになった。私の家は大した家柄ではなかったが、学を貴び、心から帝にお仕えすることを慣わしとしていたため、祖父や父の後ろ盾を持ちながら宮を下がってしまった、私のような者をお許しにはならなかったのである。

 私はまた、宮中には留まれぬ由があった。妻が帝の御手付きとなり、離縁も別離も正しく交わさぬまま二目と会うことが叶わなくなった。このような心持ちのまま帝に仕えるのが怖くなった。友は国司の交代に伴ってそのまま宮仕えを辞めるつもりだったが、私は逃げるようにして都を出るほかに道がなかったのである。

 今も臥して目を閉じると妻のことを思い起こすことがある。しかしもう一年も経つと覚えておったはずの顔すら上手く描けず、あれほど望んだ今ひとたびの逢瀬も求めないようになった。ただ今宵のように美しい月を眺めていると、妻の酌で飲んだ酒を思い起こしてしまう。古都の月は格別だと誰かが言っていた。古都へ向けて旅立ったのはそうした事情もあってなのかもしれぬ、と今では思う。


 三度目覚める。月は未だ傾く素振りもない。私は夢を見ていた。昔のことを思い起こし、そしてはたと気づいた。

「あなた様」

「そなたは何故私を殺さぬ?」

 女は不思議そうに小首を傾げた。しかし私は見据えることをやめず、敢えて尋ねる体にして問うた。

「そなたこの世の者ではなかろう」

「……何を」

「月と、そなたの手だ。月は何故動かぬ? 先程から差し込む光の濃さも、太さも変わらぬ。そしてこのような苫屋暮らしにしては、指が美しすぎるのだ。まるで、姫君のようだ」

 女は悲しげな笑みを浮かべたまま何も言わなかった。私は恐れ、震える声でさらに続けた。

「そなた、池に住まう魔性の者か。ならとって殺すが良い。私は……連れ合いを寝取られ、既に帰りを待つ者もおらぬ。旅連れの友とは逸れてしまった。殺すなら殺せばよい」

 一息にそこまで言うと女はゆっくり首を振った。

 なりませぬ。

 その言葉が耳に飛び込んだ瞬間……私は水の中に放り出されていた。

「!」

 揺さぶられ、息を奪う水の感覚に四肢の自由を失い、それでも必死でもがき、光の差す方へ泳いだ。上か下か、前か後ろかもわからぬ水の中で、私は必死に月を追いかけた。暗い水の中に楕円の光が踊っている。あれは、常世で迎えでないとするならば、月だ。天上に光り輝く夜の王なのだ。

「っはあ!」

 月は相変わらず頭上に煌々と輝いている。そして、畔には馬がその体躯を折り曲げて居た。私が気を失った池のようだ。私は慌てて馬の方へ泳ぎ寄り、陸へあがってすぐさま脈をとった。馬らしい温かみのある脈が指の下を通る。ああよかった、馬は死んではいない。そして、私も生きている。なんとも不思議なことだった。まるで狐狸の類に化かされた気分だったが、私は女の指の感触をはっきりと思い起こすことが出来た。

「おうい、おうい」

 何やら雑多な人の気配がする。私はおうい、と返事をしてみた。すると数多の坊主がどやどやと押し寄せて、大事ないか、旅の者かと口々に騒ぎ立てた。

「何ぞあったのか」

「貴方様が池に溺れたと」

 聴けば坊主どもはこのすぐ近くの寺に勤める者たちで、池に旅人が溺れていると聴いて駆け付けたらしい。しかし、当の私は溺れた心地などしなかったし、女の魔性の夢を見た、と言うと坊主どもは一斉に顔を見合わせて囁き合った。

 ひとまず宿坊へ、と促されて案内されると、友は既にそこで寛いでいた。再会を祝しあうもつかの間、高位の坊主から話があるとのことで私は友と共に別の坊へ促された。

「貴方様は、池に幻を見たと仰せですな」

「いかにも」

「ここ興福寺の猿沢池にはかような伝説がございましてな」

 曰く、その昔帝の寵を賜っていた采女が、心変わりを受けて帝に捨てられ、その身を恥じて身投げした池であると言う。かような望月の夜で、采女の御霊は以来望月になると騒ぎ出すらしい。友はそれを聴いて震え上がっていたが、既にその御霊と言葉を交わした私は、あの女が哀れでならなかった。

「この中秋の名月の頃は特に殿方を惹きこんでしまう。我々も社を建て、その御霊をお鎮め申し上げております。されどその社も不思議な力で池に背を向けてしまう有様でしての……。ほとほと困り果てておるのです」

「貫主様、私にその采女殿のお祈りをさせていただけませぬか」

 私の申し出に友は驚いていたが、私は私の選択を何一つ悔やむことはなかった。坊主は深く頷き、拝むように手を合わせて采女も喜びましょう、と言った。私もまた深々と頭を下げ、再び彼の池に歩を進めた。

 私は池の畔で扇を取り出し、友の手に握らせた。

「おい。この扇は、そなたの妻の……」

「良いのだ。既に妻とは今生で会うことが叶わぬ。それに、あの采女は昏い水底で私を待っている」

 友は意外そうな顔をしたが私にはわかっていた。あの女はずっと、私を待っていたのだ。そうだ、あの顔つきは妻とよく似ている。今生では二度と会うことの叶わない最愛の妻に。

「おい、待っ……」

 思えば妻と杯を交わしたのは月の美しい宵だけであった。月の光を背に微笑む妻は衣通姫もかくあるまいと思われるほど美しかった。忘れたことはなかった。妻の顔を忘れていたのではなく、妻の顔は元より私の中にあったのだ。

 采女は月の光も届かぬ水底で私を待っていた。古き時代の衣を纏ってはいたが、その衣の清浄さは一目見て明らかであった。采女のか細い指が私をひしと抱く。私はこのために旧都への郷愁を募らせてきたのであろう。妻との出会いも、理なき別れも、全ては……。

「貴方様」

「長い間、淋しかったであろう」

「いいえ。……お待ち申し上げておりました、御君」

 月の照らす水底は何一つ昏くなかった。私はひしとその体を抱き、己の肚に残った最後の息を吐き出した。くらり、と揺らいだ視界の中央にいとしい女が立っている。女は私を御君と呼ぶ。私たちは現世で添い遂げられぬさだめを繰り返していたのやもしれぬ。妻の姿を、御君の姿を、互いの水鏡に見立てているのやもしれぬ。どちらでも良かった。私は、そなたの姿を焼き付けて朽ちることができるのだから。



***



 奈良県奈良市、興福寺のほど近くにある猿沢池では、例年中秋の名月に肖って采女祭が行われる。その長い歴史の中で、采女の心に殉じて身を投げた男の事はあまり知られていない。

                  


 了

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