ある年のことである。

 今年もまた桜の季節がやってきたと、成範はまだ花の蕾も膨らまぬうちからそわそわとしていた。匂いもしない花の香を探すようにぼんやりと空を仰ぎ見ることが多くなり、日々の仕事にもいま一つ気が乗らない。

 そんな様子も家人や周囲の人間からすれば慣れたもので、「ああ、また始まった」と苦笑しつつも、どこかほのぼのとした目で気もそぞろな成範の姿を見ていた。


 しかし、この年の成範の懊悩は、いつもとは一味違っていたのだ。


 ――情を四方にめぐらせば。心に洩るるかたもなし。然れども恨は花盛。


 折角咲いた桜木も、たったの七日で散ってしまう。

 今に桜町全体に満開の花が咲き乱れようが、それも一週間かぎりのことなのだ。


 ――余りに名残惜しい。


 何も咲く前からそんなことを考えずともよさそうなものだが、一度気になると成範はいてもたってもいられなくなった。

 何とかして、花を長持ちさせる法はないものだろうか。

 そこで目をつけたのが、泰山府君の祭だったのである。


 泰山府君とは道教の神であり、日本では閻魔大王の名の方が通りがよい。

 死者の魂の善悪を裁く神であり、人の寿命を司る神でもあった。

 陰陽師・安倍晴明の祭神としても知られ、泰山府君の祭といえば、瀕死の病人を快癒させ、時には死者を蘇らせたこともあると伝えられる、秘儀中の秘儀である。

 成範は、それを桜の花の寿命を延ばすことに使おうとしたのだ。


 言っておくが、この男、大真面目である。

 いくら教養人であれ、彼が陰陽道の秘術までもを会得していたとは思われぬから、どこぞの名のある陰陽師にでも教えを請いに行ったに違いない。


「何卒、私めに泰山府君の祭を授けては頂けぬでしょうか」

「いやいや。これはおいそれと人に伝えることのできるようなものではなく、またおいそれと使ってよいものでもござらん。人の生死は世の理。大事な人を蘇らせたいという気持ち、痛いほどによく分かるが――」

「桜の花を、長持ちさせたいのです」

「…………なんて??」


 凡そ、このような遣り取りが交わされたであろうことも、想像するには難くない。

 とまれかくまれ、成範は形式ばかりに祭事の手順を教わることに成功し、意気揚々と屋敷へ帰って行った。

 そうこうしているうちに幾日かが過ぎ、やがて葉を落とした桜の枝にぷっくりと淡い蕾が萌え出でると、そこからはいくらの時も経たず、桜の花弁がその姿を現わした。


 想像できるだろうか。

 町中に植えられた木々が一斉に白い花を咲かせ、世界を彩ったのである。

 その下で酒など飲み交わそうものなら、杯にはらりはらりと花弁が舞い降り、一口含む毎に芳醇な桜の香が鼻腔を満たしたことだろう。

 風など吹こうものなら、舞い上げられた花弁が天を覆い尽くし、まるで一本の巨大な桜木の下に町がすっぽりと覆われてしまったかのように見えたに違いない。


 やがて日も暮れて、花弁が月光の真白を含んでいよいよ妖しく散るようになると、成範は満を持して泰山府君の祭を執り行った。

 場所は屋敷の庭の、一際立派な一本の前である。

 準備は万端。

 成範は普段参内する時と同じ、いやそれ以上に気を使って身なりを整え、教わった通りの手順に従って朗々と祝詞を上げた。

 庭には気の利いた楽士が数人侍り、それに笛や鼓を合わせた。

 日頃より気心の知れた成範の友人たちも数人屋敷に集まり、酒を酌み交わしつつそれを眺めている。

 宴であった。


「成範殿。なかなか良い声をしておられる」

「うむ」

「よく通るのう」

「どうじゃ、来月の歌合せ。成範殿に講師(歌を詠む係)を頼んでみては」

「おう。それはよい」

「いや、確か成範殿、御自らも歌を奏じようとしておらなんだか」

「そうであったなあ」

「題は?」

「決まっておろう」

「「「桜じゃな」」」


 いかな桜狂いの成範とて、なにもこの祭でもって、桜の花が永久に散らぬようにと願っているわけではない。いや、むしろ誰よりも桜を愛したこの男だからこそ、散らぬ桜になんの意味もないことは、よくよく理解していたに違いない。

 けれど、せめてもう少しだけ、この至上の時が永く続きますよう。

 そんな願いを込めて成範は祭を行い、そんな桜狂いの意気に感じ入った酔狂な男たちも集まって、共に今宵の桜を愛でようではないか。

 そういう趣向の宴であった。


 やがて恙なく祭の儀も終えられると、緊張に汗をたっぷりとかいた成範もその酒宴に加わり、夜も更けてなお、(自称)粋人たちの騒ぎは続いた。

 さやさやと照る月明かりに晒され、その光を孕んだ花弁がはらはらと舞い、楽の音がそれを撫で上げる。

 祝詞を上げた際の成範の美声も囃され、歌や詩も吟じられた。

 夜闇が包む天と地に、桜色の光がぼんやりと浮かび上がっている。

 堪らぬ、春の夜であった。


 夢心地の成範は、果たして気づくことはなかった。

 自分と客人たちに酒を注いで回る女房の一人に、見知らぬ女が一人混じっていることに。

 長年彼に使えてきた使用人たちでさえ、自分たちの中に一人知らない人間が混じっていることに、気づいていたものはいなかった。

 その女はいつの間にか屋敷にあって、いつの間にか祭事と宴の切り盛りを手伝い、客人たちに酌をしていたのである。初めて見る顔のはずなのに、なんだかずっと前から一緒に仕事をしてきたような気がする。それでいて、ふとすれ違って顔を見失うと、今すれ違った女がどんな顔であったか、靄がかかったように記憶が薄れ、薄れたこと自体の記憶もまた薄れていく。


(ああ~。もう、早く潰れちゃってよ、この酔っ払いどもめ)


 にこにこと愛想よく振る舞いながらも、心の中でやさぐれた声を漏らすこの女、人間ではなかった。


(あんまり綺麗に咲いてるんだもの、枝の一本でも貰ってみんなへのお土産にしようかと思ってたのに……)

 

 女は、雲の上から来た。

 天女である。

 下界への使いを命じられ、その任を終えて帰途につこうとしていたところ、何やら宴の用意があることを察してこっそりとそこに潜り込み、見物ついでに土産物の一つでも拝借して帰ろうかと画策していたのである。

 そこで、庭の桜に目を奪われた。


 ――妙なる桜の気色かな。妙なる桜の気色かな。


 どうにか一本だけでもその枝を持ち帰りたい。

 そのためには、ここで馬鹿騒ぎをしている親爺どもがどうにも邪魔だ。天女は頑張って愛想よく酌をし、酔っ払いたちを潰しにかかった。

 

 その甲斐あってか、月が傾き風が出始める頃には宴もお開き、酔っ払いたちはそれぞれの従者に肩を借りながら、めいめい己の屋敷に帰って行った。

 ものはついでと、天女はその片付けまでをも手伝って、これはもう正当な報酬といっても過言じゃないはずだと己に言い訳をしつつ、喧騒の止んだ庭へと抜き足差し足忍び込んだ。

 しかし。


「ああ。よい夜じゃ」


(まだ起きてたのか、親爺!!)

 屋敷の主たる成範が、一人濡れ縁に座して、月のかかる夜桜をぼうっと見つめていたのである。

 笛もなく、酒もなく、ただぼんやりと、散りゆく桜木を眺め続けている。

 天女は冷や汗をかいた。

 もう下界での仕事は終わっているのだ。そうそうのんびりともしていられない。今晩中には帰らなくてはならないのだ。

 それなのに。


 ――あまりに月のさやかにて。手折るべき便なければ。徒に更くる夜の間を待ちつるに。


 冴え冴えとした月光に照らされ夜闇に浮かび上がる桜木は、こっそり近づこうにもその隙がない。今不用意に顔を出せば、流石に怪しまれてしまうだろう。じれじれと無為な時間が暫し流れた、その時だった。

 天の風が、雲を動かした。

 月が真黒い雲に隠され、音もなく光が絶える。


(今が、チャンス!!)


 天女は物陰から飛び出し、目を眩まされた成範がその闇の中にさえ薫る桜の香にうっとりとしている隙をつき、ついに一枝手折ることに成功した。


(よっしゃ、ミッションコンプリィィィト!!)


 木陰でガッツポーズを決めた天女は、もはや用は済んだとばかりに、その身に羽衣を波打たせた。

 その体が、ゆっくりと透け、宙に浮かび上がっていく。


 ――天つ羽衣立ち重ね雲居遥に昇りけり。


 鼻唄交じりに空へと上る天女は、最後にもう一度、夜の底に咲き誇る桜町の花の海を見下ろした。


(まったく、手間取らせてくれちゃって。……でもまあ、宴、楽しかったよ、おじ様)



 さて、話がここで終わっていれば、何の面白みもない、ただの酔狂な宴があっただけのこと。

 桜の枝の一本くらい、失われた所で気づく人の方が稀であろう。勿論そこは桜町中納言のことであるから、翌朝改めて桜木を看て、その枝が一本欠けていることにも目敏く気づき心を痛めたことであろうが、実際にはそのような時が訪れることはなかった。


 一体、宴に参加したもののうち、何人かがそれを覚えていたかは定かでないが、成範が執り行った泰山府君の祭は、ひっそりと成功していたのだ。

 この場合の成功とは、即ち祭神たる泰山府君に、その願いが届いていたということである。

 そうは言っても、所詮は素人が一朝一夕に身に着けた形式ばかりの祭事であったので、効果覿面というわけにはいかなかった。この神様が件の桜木の前にお立ちあそばされたのは、宴もとうに終わり切り、丁度天女が不埒な行いをして空に帰ってから、少しばかりの時間が経ってからのことであった。


 泰山府君がどのような姿をしていたか、本来はみなさまそれぞれのご想像にお任せしてしかるべきことではあるが、ここではそれらしく、いかにも厳めしい顔つきをした、黒髪の大男ということにしておこう。


 ――我人間の定相を守り明闇二つを守護する所に。上古にも聞かざりし。花の命を延べん為我を祭る。


 よくもまあそんな用事で呼びつけてくれたものだと、流石の泰山府君も呆れかえった。

 しかし。


 ――よくよく思へば道理道理。


 その気持ち、分からないでもない。

 確かに見事な桜木である。

 たった七日の命とあらば、ほんの少し、それを長く愛でたいと思う気持ちも自然なことであろう。


(しかしなあ。成範よ。それは適わんのだ)


 自分が喚んだ神が桜を眺めているのにも気づかずに、うっとりとした顔で同じ桜を眺めている成範を見て、泰山府君は目を眇めた。

 命には定められた時というものがある。

 それを徒に歪めることは、いかな古の神と云えど、みだりに行ってよいものではない。

 

 何かほどよい瑞兆でも残して、今日の所は帰るとしようかよ。

 そう思い、見れば見るほど美しいその桜木に一歩近づいた時、泰山府君は気づいた。

 気づいてしまった。

 見事に咲き誇るその大樹の、枝の一本が折られていることに。


 その時、天上を俄かに黒雲が覆い、稲妻が奔った。

 草木も震え、山河が鳴動する。


「……誰の仕業ぢゃあああああ!!!」


 神、激おこであった。

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