「また会いにきたよ」
lager
序
風変わりな男の話をしよう。
時は平安の世。
坂上田村麻呂が蝦夷を征服し、藤原道長が摂関政治の栄華を極め、平清盛が日本初めての武家政権を築き上げた時代。
あるいは、菅原道真が梅の歌を遺して怨霊となり、安倍晴明が鬼神を支配して闇夜に嗤い、牛若丸が鞍馬山の天狗に育てられた時代である。
血の香の溶けた夜闇の中で、人と鬼が、艶やかな歌と楽の音を共に呼吸した時代であった。
男の名は、藤原成範。
……誰だよ。
そう思われたあなたも、ご安心あれ。
この男、歴史に名を刻むような男ではなかった。
かくいう私も、この物語を書くにあたり、初めてこの男の存在を知ったのである。
その姓が示す通り、由緒ある身分の男だ。
藤原南家の流れを嗣ぎ、自らも晩年には正二位・中納言にまで上り詰めた公卿であったが、しかし、これといって政治的な足跡を遺したわけではなかった。
鳥羽法皇やら平清盛やらと同じ時を生きた人間であり、みなさまにも覚えのよい彼らの歴史的なあれこれに関り、時にはとばっちりを受け、時にはその恩恵にあやかることなどもありはしたが、成範自身がその中心にいることはなかった。
彼の名が残っているのは、専ら文化的な歴史においてであった。
これまた、みなさまの覚えもよろしかろう『平家物語』には、彼の名前がこんな文言と共に記されている。
――すぐれて心
人よりもよく風流を解する人であった、というのである。
また、いくつかの勅撰和歌集にも彼の歌が採録されており、その中の一つ、『続古今和歌集』にはこんな一首がある。
ふるさとの
花に昔のこと問わば
幾代の人のこころ知らまし
この時代、単に花とだけ言えば、それは桜のことである。一本の桜の古木から悠久の時の流れを感じさせる、趣深くも壮大な歌だ。
この男、桜を愛した。
いやいや、日本人であれば誰だって桜を愛でる気持ちに持ち合わせはあろう。
だが、桜の名所たる吉野を恋しく思うあまり、町一つを桜木で埋め尽くし、その中に殿を建てて住むほどとなると、どうであろうか。
なかなかに堂に入った桜好きと言えるだろう。
桜町、と名付けられたその町の主たる成範は、いつしか桜町中納言と渾名されるようになった。多分に揶揄を含んだ言葉でもって語られることもあったろうが、成範にしてみれば、実に満足のいく、いっそ誇らしい
公卿となればかなりの教養を身に着けてはいただろうし、文化人とあれば蝉丸法師や博雅三位ほどとまではいかねども、琵琶なり笛なり、それなりにはいじれたことだろう。
爛漫の桜吹雪の中に身を遊ばせ、花の香に酔いながらとろとろと歌を詠む、そんな男の姿が思い浮かぶ。
これから語るのは、そんな桜狂いが唯一主役を張った、なんとも奇妙なお話である。
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