第4話 金平糖の降る夜に
最後に彼女に会えたのは、夢のなかだった。
森の湖のほとり。夜空の雲間から月光が差し込んで、そこで彼女はオルガンを弾いていた。曲名は分からない。でも強烈に、懐かしいような、胸の底を冷たい風が吹き抜けていくような、そんな音色だった。
僕は、彼女にむかって歩きだす。
その姿は月影に照らされて、淡く光っているよう。丈の長い水色のナイトドレスを着ている。素材は絹だろうか。やわらかそうで、触ってみたくなる。
熱心に弾いているところを邪魔したくなくて、でももっと、そばに行ってみたくて、息をとめていた。年齢は僕より、少し下だろうか。まるい額の下の大きな目が、鍵盤を見つめている。指先が踊るたび、亜麻色の髪が波打って背に流れる。
——と、彼女は僕に気づいたようだった。旋律が途切れ、彼女は僕を見て、目を見開いた。
「いつからいたの? 全然気づかなかった」
「驚かせるつもりはなかったんだけど」
そう言いながら、僕は彼女が誰か分からない自分に困惑した。なぜか、これは夢だという確信を抱きながら。
「本当に来てくれるとは思わなかった。ここは、私の夢のなかだから」
「君の?」
僕はめんくらう。
「僕のじゃなくて?」
試しに聞くと、彼女は被りを振った。
「もちろん、私の夢よ。だってこれは、私のオルガンだもの」
そう言う彼女の声は、ほんの少し寂しそうに聞こえた。もう取り戻せないものを永遠に失ってしまった、そんな悔恨が含まれているような。
オルガンは月光に照らされて、つやつやと光っている。美しい
どうしてこんな場所に、僕はまぎれこんでしまったのだろう。現実の僕を思いだそうとしても、その輪郭は頼りなく霞んでいて、煙のようにどこかへ消えてしまう。僕は、彼女を知っているんだろうか。彼女は僕を、とてもよく知っている風情なのに。
混乱する思考にのみこまれまいと、僕はキッと唇を引き結んだ。
「どうして僕は、君の夢のなかにいるの」
思ったことを率直に口にすると、彼女は口元だけで微笑んだ。
「それはあなたが、そう願ったからよ。本当に、とても強く」
歌うように、彼女は口にする。そう言われても、僕には分からない。彼女が一体何者だったかさえ。
「私は、オルガン奏者だったの」
僕の気持ちを見透かすように、彼女は言った。
薄い色素の明るい瞳で僕を見つめたまま。
「病気で弾けなくなってしまったけど」
ああ、だから彼女の音色は、こんなにも寂しそうなのか。まるで届かない場所へ、必死に手をのばしているかのように。
「君は、僕のことを知っているの?」
信じられない気持ちで僕は聞く。こんな、森の妖精みたいなオルガン弾きの女の子を、僕は本当に知っているんだろうか?
恋人? ——まさかね、と、僕は想像を打ち消す。そうだったら、覚えているはずだ。だってこんなに彼女は美しく儚げで、月の光に溶けていきそうなほど。
僕が見つめていると、彼女はもう一度笑った。状況をのみこめていない僕を見て、その様子を楽しんでいるみたいに。
「知りたい?」
と、彼女が聞く。僕は、声にださずに頷いた。
これがもし覚めない夢なら、ずっと彼女の声を聞いていたい。僕の記憶にはない、彼女の声。
もしかしたら、彼女の存在自体が幻で、僕は都合の良い夢をひとりでみているだけなのかもしれない。これは本当にしたら、あまりにも綺麗すぎるから。
「じゃあ、もう一度弾いてあげる」
彼女は、黒く輝くオルガンの前のスツールに座り直すと、華奢な両手をそっと鍵盤に差し添えた。
一音めがしなやかに生みだされて、絶え間ない旋律が、夜の風にのって、森のなかへどこまでも響き始める。湖には彼女の姿が、きっと映っているだろう。その水面を撫でるように、メロディが波紋を描く。
——と。
唐突に、僕はこの曲を知っている、と思った。僕のなかから生みだされた曲だと。
僕はこれを、聴きたかったのだ。本当に本当にずっと、聴きたかった。その願いさえ叶えることができれば、ほかには何も望まないと思えるほど。
——それはあなたが、そう願ったからよ。
彼女の声が、弾き鳴らされる音の合間に聞こえたような気がした。どうしてだろう。泣きたいような気持ちなのに、涙は出なかった。泣くにはもう、すべてのものが彼方に隔たって、遠くの方へ消えてしまったから。
「もうそろそろ、私は行かなくちゃ」
旋律のなかで、彼女は言った。夜の風にまぎれるような声。
「最後にここで、この曲を弾けてよかった」
そう言うと、彼女の姿は跡形もなく消えて——僕は、彼女の夢から離脱した。
*
目覚めると、僕は病室のような部屋の、ベッドのなかにいた。白昼夢だろうか。鉄格子のはまった窓のむこうに、快晴の空が見える。雲ひとつない青空。
僕は一体、誰だっただろう。
記憶喪失、という言葉が浮かぶのと同時に、今見た夢の鮮烈な印象を必死にたぐり寄せる。彼女の夢のなかにいたことを。
僕はひとりで横たわっていて、どうしてここにいるかも分からなかった。夢のなかと同じだ。それともこれは、夢の続きだろうか。こぶしを握ってみる。感覚はあると思った。湖のほとりで聴いたメロディラインが、ふわっと胸に浮かんで、僕はその音律を再現してみたくてたまらなくなった。ここで、今すぐに。
ノックの音がして、ナース服を着た一人の看護師が部屋に入ってきた。僕が目を覚ましているのを知ると、口元に善良な笑みが刻まれた。
「体調は?」
はあ、と僕は気の抜けた返事しかできない。
「夢をみていました。あの、僕は、どこか悪いんですか」
「薬のせいで、ぼうっとしているのよ。ずいぶん暴れていたから」
「暴れた? 僕が?」
おうむ返しに言う。
看護師は僕の腕を取ると、袋状のベルトを素早く巻きつけた。たぶん血圧を測るつもりだろう。僕が大人しくされるがままになっていると、看護師は肘の関節に聴診器をあてがいながら言った。
「遺体を見せろって、何度も
——ペスト。
その言葉が、僕の頭に殴りつけるような衝撃を与えた。
オルガンを弾く、彼女のことだと分かった。看護師の両目が同情するような色を帯びていることに、僕はこのとき初めて気がついた。
「あなたは作曲家で、彼女のために曲を書いていた。何年も何年もずっと。でも彼女が病気になって弾けなくなるのと同時に、あなたも曲をつくるのをやめてしまった。
病が進行する前に、あなたは自らの手で、彼女を殺して死ぬつもりだったのよ。ここは、刑務所の内部にある医務室」
看護師は、そう語った。現実感のない、遠い物語を聞かせるような声で。
僕は、「過去の僕」が彼女を殺そうとしたなんて話は、信じられなかった。あの旋律をもう思いだせないことも。彼女の名前も、作曲家だった自分も、もやに包まれたように曖昧に霞んでいて、胸の底にはただ、冷たい諦念のような寂しさが、
看護師は血圧の結果をカルテに記入すると、コップに入った水と、丸い形の錠剤を差しだした。
「これを飲んで。もう数日して落ち着いたら、ここで服役してもらうから」
「僕の刑期は何年なんですか」
「それは裁判所の判断にゆだねられるけど、殺人未遂だから、まあ二、三年で出られるでしょうね」
僕は、その刑期が終わってしまうときが恐ろしかった。彼女のいない未来を、生きていかなければいけないという事実が。その思考を読んだかのように、看護師は言った。
「大丈夫よ。あなたは忘れてしまう。彼女は、あなたが曲を作らなくなったことに、責任を感じていた。だから、すべてを忘れるように遺言を残したの。彼女との思い出を。過去のあなたは、それを了承した」
看護師はそう言うと、小さな瓶をベッドサイドにあるテーブルに置いた。ピンク色のリボンがコルクにかけられている。
「これは?」
問うと、看護師は口元を歪めて言った。
「彼女から贈られたものよ。本当は品物の持ち込みは禁じられているけど、特別に許可が降りたの。中身は金平糖。あなたが最後に作った曲のタイトルが、『金平糖の降る夜に』だったから、それを記念して」
少しでも覚えて、いられるように。
いつかすべてを、忘れてしまっても。
そう言い残した声が、ドアのはざまの奥へ消えていって、僕はテーブルに置かれた小瓶を手に取った。色とりどりの星屑が、たくさんなかに詰め込まれている。最後の曲。メロディは、もう思いだせないけれど。
その煌めきのなかにいた彼女は、遠いところへ運ばれてしまって、もう二度と取り戻すことはできない。その絶望感に打ちのめされて、過去の僕は死を選んだのだ。最愛の彼女を手にかけてまで。ずっと一緒にいられる方法が、もうそれしか見つからなかったから。
もしかしたら、恋人だったかもしれない。思いだせないのが歯がゆかった。どうして看護師は、わざわざそんな話を聞かせたのだろう。聞かなければ、永遠に、知らずに終わったかもしれないのに。
病に侵されて紫黒色に染まった彼女の顔が、一瞬思い浮かんだ気がしたけれど、その面影もあっけなく思念の向こう側へ流されていってしまって、僕は心のなかで彼女の名前を呼ぶこともできないまま、終わらない夢のはざまへ行きたい、と願った。
彼女の死のまぎわに、もう一度ひとりで佇むことだけを。金平糖のような、優しい祈りに包まれて眠ることを。
三題噺 星 雪花 @antiarlo
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