無花果

三津凛

第1話

「無花果」


まただ。

英治は顔を上げた。ヤニで曇った窓硝子に頬をすりつけるようにして、離れを見た。

今夜は新月で、灯の所在がよく分かる。離れはまだ起きている。この頃は虫の音もひっそりとして、それだけ登美子と花江の声がよく通った。

笑うとも、歌うとも、泣くともつかない2人の声が時折ここまで聞こえてくるのだ。

英治は初め、それを鬱陶しく思った。もともと登美子に対してあまり良く思ってはいなかったから、苛立ちは尚更だった。だがふとしたことから、英治は俄かにこの不思議な関係の女2人に関心を寄せるようになった。それは男の覗き根性そのものだったが、英治は頑なにそれを認めなかった。



母の死んだ姉に、登美子というひとり娘がいた。女学校を出て、しばらくは外国人の老夫婦の元で手伝いをしていた。だが夫婦が国へ帰る頃、登美子の母が急に死んだ。登美子の父も若くして胸を病んで死んでいる。仕事も無くし、帰る家も無くし、登美子はいつの間にか母の妹であった英治の母の元へ居着いた。銀行の理事をしている英治の父は立派な家を構えている。その母屋の離れに、昔置物のように住み着いていた中年の女中の住まいがあった。彼女は庭を剪定していた若い男と年甲斐もなく通じて、ある年に駆け落ちした。それ以来使われなくなっていた離れに、登美子は勝手に居着いたのだ。母は面白くないようだったが、当の父は多少英語もできて恐らくはクリスチャンである登美子を悪くは思っていないようだった。だから家賃も取らず、好き勝手にさせている。

登美子は晴れの日によく池の淵にある大きな御影石に腰掛けてなにか読んでいた。それは大抵洋書で、英治には読めない代物だった。

英治が登美子を嫌うのは女には不似合いな教養を感じるからで、その辺は父とはまるきり逆の考えであった。登美子は換気のために昼間開け放たれた父の書斎に、野良猫が勝手に入り込むように足を入れる。父の蔵書は莫大なものがある。登美子はそれを平気で見て回って、何冊か抜き取っては御影石に腰掛けて日がな読んでいる時もあった。父はむしろ嬉しそうに、「登美子嬢がまた書斎を荒らしたそうだね」と食卓に着くなり言った。母は「野良猫じゃあるまいし、勝手な」と露骨に嫌がった。父はそれを見て不機嫌になる。英治もどちらかといえば母寄りだったが、黙っておいた。なにせ、2年も大学を浪人している彼は何かと肩身が狭いのだ。

登美子はそんな母屋の葛藤も知らずに、いい気なものだった。仕事はなにをしているのか分からない。だが時折登美子は出かけていく。そのあとは大抵、綺麗な着物に着替えて買い物に行っていた。映画や美術の展覧会も、たまに観て回っているようだった。登美子の生活は万事気ままで、そしてどこか優雅だった。父は時折離れの入口に菓子を包んで置いている。登美子はそれを摘みながら、日当たりの良い御影石に腰掛けて父の洋書を読んでいる。そしてどこで見つけてきたのか、和紙で作られた栞を挟んで父の書棚に本を返す。父は「ふうん」とそれを眺める。母はまるで不貞を見つけたように、陰で怒った。英治も登美子を嫌っていながらも、観察することはやめられなかった。

死んだ母の遺産もそうないだろうに、登美子はひと月に一度は新鮮な脂の乗った魚を焼いて1人で食べている。

その匂いがまた美味しくて、英治は気に入らなかったのだ。



花江がその離れに住み着いたのは、登美子が居着いてから半年も経たない頃だった。

珍しく母屋の縁側に、登美子が腰掛けていた。英治は思わず、「ちょっとあんまり馴れ馴れしくはしないかい」と毒づいた。すると庭の木立の隙間から、登美子より幾分若い女の子が「ほら、登美子。やっぱり怒られたじゃないの」と顔を出した。

英治はその風貌に痛く惹かれた。

登美子はどちらかといえば肉付きの良い骨太な女である。だが太っているというほどのことはない。目鼻立ちは墨で殴ったようにはっきりとして、いやでも目立つ。髪は肩まであるものの、結ぶことはしなかった。たまに眼鏡をかけるのが英治から見ていても大層洒落ている。その日も読みさしの本が縁側に置かれていて、2人で読んでいたと一目でわかった。登美子の眼鏡は鼈甲色をしていて、所々に薄い茶色の縞が入っている。それが少しずり落ちて、丸みを帯びた鼻梁に引っかかっている。そこからのぞく裸の眼で、少し馬鹿にしたように英治を見ている。

「じゃあ離れに戻ろうじゃないの、花江」

花江と呼ばれた女の子は縁石を飛びながらこちらにやってくる。紺のスカートから伸びた脚が引き伸ばされたように細い。色の薄い首は笑うたびに静脈が遠慮がちに浮いた。眉も目も鼻も唇も花江は薄かった。どこか薄命の公卿を思わせる。

「お客様となら、いいんだよ登美子。縁側だと腰が悪いだろう、中へお入り」

英治は慌てて言った。そして媚びるように登美子を見た。

「いえ、いいの。ここの日当たりが良くて当たってただけですから」

登美子はぱたんと本を閉じた。栞すら挟まない強い手つきに、本当にこの2人は本を読んでいたのかと英治は疑った。

「なにをカッカしてるの」

花江は見知ったように気安く縁側に腰を下ろした。英治だけが突っ立って、まるで道化のようだった。

「ねぇ、わらび餅があるの、食べましょう」

花江は包みを取り出して広げた。登美子は黙って食べている。

「あなたは登美子のお母様の妹さんの子息でしょう?」

「えぇ、その、英治といいますが」

「あなたもどうぞ」

花江は事務的な調子で言った。英治は居心地の悪さを感じた。

3人でわらび餅を突つく間は何も話さなかった。

「あなたって、浪人生なんですってね」

ようやく箱が空になった頃、花江が思い出したように言った。英治は思わず登美子の方を振り向いた。登美子は知らん顔をしている。花江は屈託なく続ける。

「こんな昼間から篭らずぶらぶらとしてるのだもの。首尾は悪いんでしょう?」

英治は黙っていた。

「どうせ同じ家に住んでるなら、登美ちゃんに見てもらいなさいよ。登美子が英語を教えてた子はこの間、帝国大学に受かったのよ」

英治は眩暈がした。それは登美子の頭にではない。一瞬だけ花江の虚をついて漏れた「登美ちゃん」という呼びにである。

当の登美子はまるで知らん顔をしている。それが英治の癇に障った。

ひとつ文句を言おうと英治が口を開くと、登美子は縁側から立った。

物も言わず、登美子は指先についたわらび餅のきな粉をぱんぱんと払った。それが午後の光を浴びて金粉のように舞った。それは軽い渦を巻きながら、漂っている。

思わず文句を言うのも忘れて、英治はその行方を見守った。



花江もまた、いつの間にか居着いたのだ。登美子のように。父は何も言わなかった。母は相変わらず面白くなさそうだった。英治は登美子の方はともかく、花江のことは気に入った。恥をかかされたにも関わらず、その屈託のなささえ愛おしいと思った。

だがほどなくして英治の淡い想いは切られることになるのである。

ある夕方のことである。その週、母は旧知の友人の結婚式で遥々九州まで下りて行っていた。父も多忙で帰りは遅い。このところの英治はまるきり昼と夜が逆で、日の落ちる頃にようやく寝床から起き上がった頃だった。

湯殿から淡い湯気が外に伸びていたのは、煙草を喫むために庭を歩いている時に見つけた。英治は湯気の出る格子の下まで歩いて顔を上げた。

なんとも言えない石鹸の香りがする。中からは登美子と花江の声がした。耳を澄ますと、どちらかの髪を流す音や背を洗う音、石鹸を泡立てる音や手拭いを絞る音が聞こえてくる。英治は煙草をくわえたまま、2人の姿態を想像してみた。2人は何かひそひそ話しているようだった。呆れるほど長い入浴であった。

そのうちに泣き声のようなものが聞こえてきた。英治は思わず背を伸ばした。だが不思議なことに泣き声以外は他に何も聞こえなかった。そのうち湯の微かに動く音がして、「あんまり声を出しちゃだめよ」と登美子の含み笑いがした。

英治はぞっとして後ずさった。花江は明るく笑っている。それからまた、あの泣き声に戻った。

まだ火のついたままの煙草を捨てて、英治は自室に戻った。落ちた木の枝を踏む音を聞かれたかもしれない。2人はしばらくして、離れに戻って行ったようだった。

それから間もないうちに、決定的なものを英治は目の当たりにした。帝大に通う友人と飲んだ帰りのことである。なんとなく、離れの勝手口から英治は母屋の方へ歩いて行くことにした。離れの方はまだ灯がついている。

「随分と夜更かしな」

英治は眉を顰めた。だがそこで、ゆるい寝巻きを纏った花江の姿態を自然と思い浮かべてしまった。疑念はこの頃には半分確信になって、英治は花江への関心を失いかけていた。

そっと英治は離れの破れた障子から中を覗いて見た。綿のよく詰まった布団が捲れて、その上に2人の女が寝そべっている。英治は首を伸ばした。

「今日は新月ね」

花江がなんとなく、寂しそうに言った。登美子の方は黙ったまま、何かを読んでいるようだった。花江は落ち着かない腰をもぞもぞとさせている。

それから不意に花江は登美子へ覆いかぶさった。ふっくらとした登美子の脹脛が割れるのが英治には見えた。

花江の腰は寝巻きの上からでも細くて、アキレス腱の硬いのがより痩身を強調させている。花江は意外なほど荒っぽく、切羽詰まって登美子を剥いた。よく洗われた綺麗な肌が、糊のきいた敷布団に映える。登美子の方は、何がおかしいのかしきりに笑っている。花江は何も言わない。からからと小石を転がすような登美子の笑い声だけが、静かに続いた。

それが不意に止んで、英治には花江がそれを塞いだのだと思った。花江の背に、登美子のふっくらとした指が扇を広げるようにして伸ばされる。

2人はそのまま絡まりあった。

英治はそこまで見て、あとは振り返らずに母屋へひっそり帰って行った。それ以来、花江への想いは二度と考えないようにした。




登美子と花江は、気ままに暮らしていた。登美子は時折頼まれて家庭教師をしている。その時だけは、まるで夫の帰りを待つ女房のように花江は登美子を待った。だがそれが段々と苦痛になってきた。花江は赤ん坊でもできればいいのに、とそればかり思うようになった。

だが今更どこぞの男と通じて、赤ん坊をこさえる気はない。登美子の愛は裏切れなかった。登美子が外で稼ぐたびに、花江は自分と登美子を繋ぐものが欲しいと思った。

寝床でそうやって甘えると、登美子は決まって「猫でもいいじゃないの」と言った。

「それじゃだめなのよ。やっぱり赤子じゃないと。猫は猫よ、毛玉じゃないの」

花江は思いつめて、泣いた。

「勘違いしないでね、登美子。花はなにもね、一般的な家庭が欲しくて言ってるんじゃないの。登美子が仕事してる間、花は独りきりでしょう?たまらなくなるの」

「さみしんぼ」

登美子は幾らか優しい声色で呟いた。

「えぇ、花はさみしんぼだもの」

「でも女同士で赤ん坊はできないわよ。猫か犬か、兎でもいいじゃないの」

「だめよ、赤子でなきゃ。登美ちゃんと花とが繋がってるって思えるものじゃなきゃだめなのよ」

登美子はじっと言い募る花江を見た。駄々っ子のようで愛おしい。

「じゃあ、花江は男と作ってくる?」

「いやよ、いや!」

「私だって、いやよ、今更ね」

登美子はふと思い立って、呟いた。それはまったく冗談で深い意味のないものだった。

「そんなに欲しいなら、花江はどこかで赤ん坊を誘拐してくるのね」

登美子は軽く声を立てて笑った。

だが花江は笑わなかった。登美子の言葉は、花江には神の声のように聞こえたのだ。花江は人知れず、十字を切った。

その夜はなお一層激しく花江は登美子の肌を吸った。



最近の登美子は忙しい。家庭教師の評判が良いようである。おかげで昨日は鰻を食べに行った。花江は喜ぶべきなのに、不機嫌だった。登美子の不在が長くなるほど、花江の憂いと暗い決心は募った。

登美子が朝早くに出掛けたあとで、花江は昼頃起き抜けた。しばらく庭を歩いた後で、浪人生の英治が縁側に降りてきて花江を呼んだ。

「おや、君も随分なお寝坊さんだね。朝飯食ってないのなら、一緒にどうだい?そこのカフェーに食い行ってもいいよ」

おかしなほど上気して、英治は言った。花江は白けて無視した。英治が下駄を履いて庭に降りてくる気配がしたので、花江は足早に表に出た。

表は乾いた風が吹いていた。憎らしいほど良い天気で、こんな日に屋内にこもって勉強ばかり見ている登美子が花江は哀れになった。

しばらく歩くと、大きな池を湛えた公園が見えた。花江はそこへ足を向けて、木目の綺麗なベンチに座った。ぼんやりしていると、若い女が赤ん坊をおぶって怠そうに歩いているのが見えた。一目で地方から送られてきた女中と分かる疲れて、どこか反抗的な気配のする女である。若いのに頬は赤くかさついて、髪も干し草のように艶がない。

赤ん坊は反対に玉のようである。肉付きが良く、栄養の詰まっていそうな体躯をしている。花江は締まりのない唇を池の面を滑る鴨に向けている女中を、哀れに思った。そして、内心では嘲った。

「随分と大人しい赤子ね」

花江の声に、女中は振り返った。

そこには望まぬ子守を押しつけられた苛立ちすら感じた。

「はあ……」

「ちょっと抱かせてくれないかしら。赤子を見るのは久し振りなの」

そこで若い女中は身構えた。

「そう怖がらなくても大丈夫よ。あなたも息抜きしたいでしょう?そうね、15分ほどその辺を散歩してらっしゃいよ。見ててあげるから」

女中はしばらく逡巡しているようだった。花江はだめ押しに、百円札を何枚か握らせた。女中はそれで、何かを溶かしたようだった。


なんと安い女だろう。


花江はこれからしようとしていることを棚にあげて、女中をいっそう哀れに思った。

赤ん坊はまだ人見知りもしない時期であった。むずがりもせず、花江の腕に抱かれる。その餅菓子のような抱き心地に、花江はうっとりとした。知らずのうちに微笑が漏れる。

花江は若い女中を安心させるために、静かに腰を落ち着けた。女中は振り返り振り返り、池の淵を歩いて遠ざかる。何か買いたいものでもあるのか、百円札を握りしめている。花江は女中が見えなくなるまで、じっと座っていた。

そして見えなくなった途端に立ち上がって、来た方とは反対側の方へ歩いた。なるべく怪しまれないように、ゆっくりと歩いた。赤ん坊の顔をなるべく胸に押しつけて、すれ違う人に見られないようにした。

花江は次第に歩みを早くした。赤ん坊は無邪気に見知らぬ電柱が頭上で流れていくのを見ている。花江は誰にも呼び止められることもなく、離れに辿り着いた。赤ん坊は機嫌が良かった。



登美子は赤ん坊を抱えた花江を目の当たりにして、一瞬言葉を失った。

花江は朗らかに言う。

「要らない子なんですって、だから貰って来たのだわ」

登美子は赤ん坊の丁寧に包まれた形を見て、それが嘘だと分かった。

「可愛いでしょう」

「女の子ね」

登美子はそれだけ言って、あとは追求しなかった。

2人の生活はそれから、赤ん坊を中心に回り始めた。登美子は時折家庭教師に出かけて行ったが、それもやがてしなくなった。

2人は日がな赤ん坊の世話をするようになったのだ。花江にとって、それは幸せの極みであった。世界は閉じられていた。

母屋の方ではちょっとした騒ぎになった。さすがの父も苦い顔をした。母の方は意外と静かで、口を開くこともしなかった。

花江は要らない子を貰ったと言い張ったが、英治はどこかでさらって来たに違いないと思った。だがそうだとしても、誰も世間には公表することは考えなかった。

母は赤ん坊が来てから、一等新鮮な無花果を離れの2人に贈った。無花果は花をつけずに実をつける。嫁へ行かずに母になる。無花果は母一流の嫌味で怒りだったのだ。

聡い登美子がその意味に気づかぬ訳はなかっただろうが、眉ひとつ動かさず慇懃にそれを受け取った。赤ん坊の泣き声は時折聞こえて来た。それは本当の家を乞うようなものではなかった。だから結局、世間は知らないままで流れていった。

しかし2人の幸せは長くは続かなかった。終幕は悪意のない手で引かれた。

無知な花江が赤ん坊に蜂蜜を含ませたのである。粉の乳よりかは栄養があろうと試した矢先であった。

赤ん坊はあっけなく、雪が往来の水溜りに落ちるように死んだ。

あまり泣く子ではなかった。だから、離れの異変には母屋の誰もがすぐには気がつかなかった。ただ早朝の池の鯉のみが、大きな荷物を抱えて出ていく女2人の背中を見ていた。




昼近くになって、登美子と花江は駅舎までやって来た。それまで2人は、あてもなく街中を歩いていた。最後に行き着いたのが、この駅舎である。土埃と人波の中で、2人は腰を落ち着けた。

「赤ちゃんも死んじゃったわね」

「……そうだわね」

登美子と花江はそれからむっつりと黙った。もう離れへは帰らない。赤ん坊はむしろ重荷だった。だからといって、行くあてもない。荷物をまとめたもののそれだけで2人は満足してしまっていた。この宙ぶらりんな、大海を流れゆく浮島のような身の上に登美子と花江は酔っていたのである。その酔いが、2人を惑わせた。

2人は手を繋いで、ごった返すフォームをあてどなく歩いた。少し離れたところから、鋏を持ったまま駅員がそれを見ていた。大きな荷物を持った女2人は、しかし旅行者のようには見えない。駅員は訝しげに女たちを眺めた。さながら亡霊のように、人波を彷徨っている。

登美子と花江は滑り込んでくる列車を見た。

「登美ちゃん、あれに乗ろうかしら」

花江がふっと息を漏らした。

「あたし、ああいう色好きじゃないの」

登美子は鼻に皺を寄せた。

2人はもたもたしていた。その締まりのない甘い背中を、人波に揉まれた誰かが押した。

登美子はその手触りを背中にはっきりと感じた。踏み止まることもできた。顔を上げると、列車が熊のように唸りながら近づいてくる。瀑布のような衝動が登美子に急激に押し寄せた。それが知らず知らずに一歩を出させた。花江は固い結び目のように登美子と手を繋いでいた。

2人は勢い、空へと飛び出した。

無数の人波が列車へ飛び出す2人の女を認めた。

2人は静かに、しかしはっきりと列車と線路の隙間に消えていった。




離れはやたらと静かである。耳を澄ませば聞こえてくる2人の笑い声も、密やかな嬌声も絶えたままである。英治は無性に落ち着かなかった。悪い癖だと思いながらも、登美子と花江の居る離れをいつぞやのように覗きたくなった。


なにを臆する。登美子と花江は居候だ。堂々としていればいいのだ。


英治が思い切って離れを訪れると、そこはもぬけの殻であった。

登美子と花江が使っていた寝床が、微かに膨らんでいる。英治は「猫でもいるのか」と何気なくそれをめくった。

膨らみは死んだ赤子のものであった。干からびた、なにか悲鳴を刻んだような姿態の赤子が、物言わず横たわっていた。

登美子と花江の轢死はそれから間も無く英治の知るところになった。

赤ん坊は結局誰の子なのか、分からずじまいだった。英治はどこかで父が手を回したのだと思った。赤ん坊を探さない親はいない。今では父ですら、登美子と花江の名前は出さない。


できるだけ寂しいところに墓は作った。

それでも仏を慰めるために、赤ん坊も密かに焼いて、同じ骨壷に納めた。英治は自ら望んで、骨壷を真新しい墓に納めてやった。この先誰も手を合わせに来ることもないだろう墓だ。

血の繋がっていない奇妙な3柱の仏は今頃笑っているだろうか。

英治はぞっとして、女ってやつは恐ろしいと身慄いした。もう二度と登美子と花江のことは思い出すまいと決めた。冷たい骨壷を触った両手が厭わしくて、早く手を洗いたくなった。英治は振り返らずに霊園を出た。

そのあとで、木々の梢だけが嬉しそうに震えた。

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無花果 三津凛 @mitsurin12

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