ファイル4「試験対策委員会×盗まれた問題用紙」(7/8)
雪野には何か後ろ暗い事情がある。あの真面目で正義感の強そうな彼が、おそらくやっていないであろうカンニングの汚名を受け容れざるを得ないほどの、何かがある。
それを思うと、胸が苦しくなった。
雪野くん、大丈夫かな。
誰かに脅されて、なにかまずいことでもやらされていたりするのだろうか。
南には想像もつかなかったが、だが少なくとも言えることは、きっと彼は今、傷付いているに違いないということだった。
そんな雪野に追い討ちをかけるように、「君はみんなから恨まれている」なんて現実を突きつけてしまったけど……。
向けられた軽蔑の視線への怒りに任せて復讐的に伝えなかったことだけは本当に自分を褒めたい。
翌日、再度会議があった。
迫る期末試験を前に、重大な決定が下されるとのことで、普段より多くの人数が集められた。
委員長の倉田が壇上から重々しく切り出した。
「雪野映を試験対策委員会から追放することになった」
ついに来たか。思ったより早い展開に、南は暗澹たる気分になる。
倉田は残念そうにため息をついて、「副委員長の井村くんから話してもらうよ」と場所を代わる。段取りがあったのか、長身の井村はひょっこりと席を立つと、メモを片手に話し始めた。
「数々の証言・証拠品が出てきました。前に雪野映を鍵屋周辺で見かけたという証言、津山先生が研究室でインクをぶちまけたと話した日に雪野の白衣にそれらしきインクのシミがあったこと、さらに、三井先生の研究室に青酸カリが置いてあることを知った前田くんが雪野映にカマをかけたところ知っていたこと」
この僅かな間にいろいろリークがあったらしい。なんだか多すぎるような気もする。
「やはり、雪野映は研究室に忍び込んでいると見るべきだと思います」
断言する井村。そして――
「よって雪野映を追放処分としました。本人に通達する役を南くんに任命します」
「ぼ、ぼく!?」
そんな段取りはなかった。
にわかに注目が集まってくる。
えぇぇ、ぼく?!
(うああ……そ、そんな重い役……無傷では済まないぞ……)
でも、引き入れたのが自分で、橋渡し役も自分なら、引導を渡すのもこの南颯太に任せてもらえるのは、光栄というか尊重されているというか……それに、自分が伝えなければまだ雪野は在籍扱いになるのなら、もう少しだけ弁明するチャンスがあるかもしれない。それでもダメだったときは、自分は傷ついても構わないから、できるだけ雪野を傷つけずに伝えよう。
しかし、両肩にさらに重荷が載せられたことに変わりはない。
それからほどなくして解散の運びとなったが、追い越しざまに「頑張れよ、南」と肩をポンと叩かれるたび力なく微笑み返し、内心明日にしようかな……なんて思っているうちに、足はいつもの地下四階についてしまった。エレベーターの扉が閉まり、南を載せてきた箱はスーっと上に移動していく。その後は耳が狂うほどの無音だ。南は、なんとなく足音を立てないように歩く。何枚もの壁のように並んだ本棚の向こう壁際には自習用机とパソコンがそれぞれ三つだけあり、相も変わらず一番奥のデスク一つだけに蛍光灯がついていて、やはり雪野がいるようだった。
ほとんど雪野しか使うことのない、隔離されたようなこの部屋。
静寂を破ったのは、南でも雪野でもなく、ジリリリリリリリというけたたましい警報だった。
(えっ?!)
何!?
鳴り始めた非常ベルは続いている。
声を出してはならない図書館という場所だからなのか驚きのあまりか、声にならない。ブツンという大きなノイズ音がしてアナウンスが続いた――「火事です。火事です。大学本館三階、学生ホールより出火。避難してください」年配の男性の声がそう急かす。ベルの音はずっと鳴り響いている。
今度は心臓が早鐘のように暴れだした。
本館? って、この館のことじゃないか!
南は踵を返して、エレベーターのボタンを押しに走り、いや、エレベーターってこういうとき使っちゃいけないんだっけ!? 閉じ込められるんだっけ!? どうだっけ!? と、小学校時代の避難訓練の遠い記憶を手繰り寄せながら、いや、ここには心強い仲間がいるのだったと振り返る。
彼は奥からまだ出てこない。
なぜだろう。
今は一刻も早く自分の身を守るべき状況だし、雪野はもしかしたら奥に別の道があって先に出て行ったのかもしれない。でももし何かあって彼が逃げ遅れているのだとしたら――
「ゆ、ゆ、雪野くーん!!!」
南は勇気を出して大声で叫ぶと、駆け戻る。
デスクライトは点いていて、雪野もやはりまだそこにいた。
しかも、何かやっている。
机にかじりつく横姿――雪野は一心不乱にノートに何か書きつけている。
「警報だよ!! 火事だって――! 早く外に出ないと!」
何書いてるんだこんな中で!
ばかじゃないのか。
「ねえ! 雪野くん! 雪野くんってば!!」
これだけ大声で叫んでいるのに。警報も鳴りまくっているのに。もしかして耳が遠いのだろうか。だったら仕方ないと南は駆け寄り、雪野の肩を叩く。
「ねえってば!」
揺すっても、彼は振り返りもしない。
必死の形相で、ひたすらにペンを進めている。ページをめくる。読む。まとめる。目を閉じて天を仰ぎ、何かをブツブツと言う。カッと目を見開いたかと思うと、ノートに書きだす。暗記したことが間違っていないのを確かめる。そんなことを繰り返し、繰り返し。
ベルは今もうるさく鳴り響いている。
そんな中で、常同行動のごとく繰り返している雪野。
もはや、狂気的だ。
異常だ。
未来予知だなんて普通に考えたら、あり得ない。
試験問題を不正に入手して作ったと考える方が自然だ。
普通に、考えたら。
じゃあ、相手が普通の人じゃなかったら?
たとえば、そう、誰かに話しかけられても、非常ベルが鳴っていても、肩を叩かれても揺すられても、それでも集中が途切れないほど強靭な集中力の持ち主だったりしたら?
それは、才能ともいえるし、障害ともいえる。
信じられないことだけど、だからこそ、隠そうとしたのでは?
言ったところで、信じてもらえるわけがないと諦めて悟ったように。そしてできることならば、そんな異常な自分の姿を、人に見せたくなかったのかもしれない。
先ほどの非常ベルとアナウンスは誤報であり生徒によるいたずらだった、という旨のアナウンスが流れた。
あたりが静まり返る。雪野がペンを走らせる音だけが響いている。
「そっか。学校には、いたんだね。夜中も」
そんなことが、起こりえるのか?
起こりえる、と南は思った。
「ずっと集中してシケプリ作成作業をしていて、それで――朝になっちゃったんだね」
今も、聞こえてなんていないのだ。
そう。それが答えだ。
集中していて、気付いたら朝だなんて、そんな経験したことがないどころか想像さえしたことがない。
でも、この人なら。
ずば抜けた成績には、相応の代償が、あったのだとしたら。
南は狂人の勉強が終わるのを、静かに待った。
どれほど時が経っただろうか。
ここは窓もないので全然わからない。
でも、自分にはない能力を持った奇才を待つこの時間はなんの苦でもなかった。濃縮され熱のこもった一秒一秒の全てに敬意と充実したものを感じながら、影響を受けて自分も試験勉強を始めてみたりもした。ふうと息をついても、隣の怪物はまだカリカリやっているのだ。
長い長い時間が経過した。
「ふう、終わった――」
雪野は手を止め、ゆっくりと深呼吸して天井を仰ぐ。別の世界の彼方から、戻ってくるかのように、深く眠るように脱力した。
この世の物理限界まで酷使された精神と肉体が、狂いを調整し終えるまで、南はさらに待った。
ふと雪野の目が開き、視線だけが向けられる。
「ああ、いたのか。全然気付かなかった」
疲労した体はそのままに。
「うん。おつかれさま、雪野くん」
南は雪野を安心させるようににっこり微笑んで、「もう、わかったよ」と頷いた。
雪野はバツの悪そうな顔で、
「――図書館で勉強していたんだ。そしたら……」
観念するように、でもどこかほっとするように、
「そしたら?」
南に促され、逡巡ののち彼はこう言った。
「集中して、没頭して、帰るのを忘れた」
そして、項垂れるように頭を抱える。
「うん、そうなんだね」
南は頷く。
「シケプリを作成して、作成して作成して、どんどん作成して……それを、朝の開錠の音がするまで、ずーっとやってた」
やっぱりそうだった。
「俺は、またやっちまったと思って、隠れてやりすごした。一限目が始まる前に何食わぬ顔でカードを通して退室した。朝の読書でーすみたいな風に」
閉館時間を過ぎても居座ったのだ。一種の罪悪感もあり、黙っていようと思った。
「そしたら、あらぬ疑いをかけられるし。くだらない」
そんなになるまで必死になってシケプリを作っていたのに。
雪野は自虐的に笑うと、
「なんかすべてがもうどうでもよくなった。それで、一人に戻ろうとしたのに。でも……」
「雪野くんのことを、ぼくは見ていたから。ぼくなんかには手の届かない遥か遠い頂に立つ姿も、ぼくなんかには想像もつかない苦労も失敗も。だからぼくは、コピーを取ってくるし、ココアだって言われた通りに買ってくる」
雪野は頷き、ちょっと考えるように目を伏せて、そして、
「俺、誰かに恨まれていたなんて、正直、気づきもしなかった。妄想膨らませたり、証拠にもならない証拠を集めてきて、俺を追い出そうとするようなやつが、いるとかも」
はあー……と、深くて長いため息。
「人間ってめんどくさ……」
ぼやく雪野の瞳には南がたしかに映っていて。
「そうだね」
彼の苦悩が、本物ゆえの苦悩であることに、南は愛おしく抱きしめたい気持ちだった。彼の強さも、そして弱さも、すべてを知って受け止めたいと思った。光る物への興味から始まり、泥の中もがく様を敬愛し、やがて泥をも受容する。そんなふうに、眩しい朝も暗い夜も、彼を受け入れて、彼と共にあれたらと、南は願った。
雪野の潔白は、南の中では既に証明されたも同然だった。
だが、役目は全うせねばなるまい。
「改めて、一応聞かせてもらうけど」
南は委員会で出た証言と証拠を雪野にも聞かせ、一つ一つ確認する。雪野は筆箱の中身を見せてくれた。
「ああ、もらったペンライトはここにある。一人一本までしかもらえないし、その落ちていたライトは俺のじゃないね。他に購入してない証明は今は無理だけど、俺は買ってないよ」
(あれ……? そういえば)
この科目はずっと雪野くんが一位だったのに、先週……珍しく倉田委員長がトップだった気がする。たしか、それ以降すぐに挽回されたけど。
倉田委員長だって同じものを持っているはずだ。
もちろん他の人だって手に入らないというわけでもないけど。もしかして、倉田くんのだったりして。いや、本人は何も言っていなかったか。それじゃ、先輩とか、他の誰かの持ち物かな。
「それから鍵屋なんて行った覚えないし、俺を犯人にしたいやつの見間違えだと思う。証拠写真もなく、証言なんだろ。インクのシミ? これのこと?」
そう言うと雪野は白衣の裾を持ち上げる。そこには一ミリもない黒い点があった。
「これは自分のボールペン落として付いた点だよ。科学捜査してくれたらすぐ判明するんだけど。そもそも、先生だってインクをぶちまけてそのまま片付けてないわけないだろ」
ということはだいぶ無理のある言いがかりのようだ。
「あと、何? えーっと、三井先生が研究室に青酸カリ持っているって話を俺が知ってたのは、授業中先生が自分で言ってたじゃん。カマかけた? リークしたやつ、何で忘れてんだろ。頭悪いのかな。寝てたのかな?」
「えーっと、その授業、ぼくも受けているはずだよね? そんなこと言ってたっけ?」
一学部まとめて全員で同じ講義を受けているから、別日だけのこぼれ話というわけじゃない。
「言い方はシアン化カリウム、だったかな。イコール青酸カリだよね。常識だよ。知らないはずがない」
「ああ、そうだったんだ……」
知りませんでした。
それにしても、やはり不確かな証拠と証言だ。まあ、わかってはいたつもりだった。雪野を犯人にするため、寄ってたかって無理くり集めた、吹けば飛ぶような、ただの言いがかり。
いつの間にか、閉館の音楽が流れていた。
がちゃりと音を立てて後ろのドアが開き、「もう鍵閉めますよ、帰宅してくださいね」と司書が顔を出す。
「今出ます。すみません」 と南が頭を下げ、デスクライトを消す。雪野の片付けを手伝いながら、
「あれ? でも、閉館の時は鍵をかけるために今みたいに司書さんが見回りに来るよね?」
耳をつんざくような非常ベルが鳴って、肩を叩いても気が付かないなんて、司書が見回りに来ただけでは帰らないのだろうか。その疑問を察したのか、雪野は顔を赤らめて言った。
「さっきは、ちょっとノッてたから、南くんに気が付かなかっただけで、い、いつもは、ちゃんと気付くし、帰る! ああいう感じになるのは、た……たまに、だけだから!」
「う、うん……」
それでも結構すごいと思うけど……。でも、触れないことにした。
雪野は顎に手をやると、小さくこぼす。
「けど……来ない時もあるんだ。どうしてだか」
「そうなの?」
「それと、深夜に途中で気づいた時もあったんだけど、電子鍵がかかってて、出られなかった。いや、非常時のためにカバーを壊して内側から解錠できるようになってるんだけと、バレるの怖いし、バスもどうせもうないし、もういいやこのまま朝までやろうって、使わなかった」
なるほど。
「じゃあ、雪野くんがここにずっといたことを証明できればいいんだね」
「そうだな。でも、いいよ。もう」
諦めたように、雪野は首を横に振る。理由を知られたくなさそうだった。南は、雪野の能力を誇らしいとすら思えたけれど。彼の意思を尊重してそこは伏せてでも、それでも無実の証明だけはしたいと思った。
エレベーターに乗って、図書館の入り口に向かうと、閉館間際ということもあってカウンターは貸出処理でバタバタとしていた。一冊数万円もする高額な医学書を読みたいと思っても普通の学生は買うことなどできない。そのため図書館で借りようとする学生は多く、司書が忙しく貸出している。さらには閉館のために戸締りも司書が行うようだ。見回ったところにはカウンターの向こうにあるホワイトボードにマグネットをくっつけて、互いにわかるようにしているようだ。
「慌ただしいね。閉館間際に、人ごみに紛れてホワイトボードのマグネットを動かすことはできそうだなあ」
南が言うと雪野も頷く。
「そうだな」
悪意のある誰かが、見回りの司書を地下に行かせないようにしたとか?
と、カウンターに、司書と社交的に話している倉田の姿があった。
「はい、誰ももういませんでした~」
「いつもありがとうね、倉田くん」
「いえいえ~。ついでですから。はい、これお願いします」
倉田はそう言うと、貸出資料を差し出す。
誰もいませんでした?
南は急ぎ足で駆け寄って、質問する。
「倉田委員長、お疲れ様です。あの……図書館で何か手伝ってるんですか?」
すると、代わりに司書が笑顔で答えてくれる。
「地下の資料取りに行くついでに、まだ残っている人がいないか見てきてくれるのよ」
もしや、と嫌な予感が胸をざわつかせる。
後からついてきた雪野の視線も痛い。
倉田委員長が、司書に代わって見回りをしている?
これって……
南が耳打ちしようと振り向くと、二番カウンターで貸し出し手続きを終わらせたらしい北川教授と目が合った。
「おや、南くんと雪野くんだね。ペアで発表の相談かな?」
紳士的な口ひげを動かしながら微笑む教授。雪野は「違いますけど」と即答。
「それはそうと……ええと、君、倉田くんだよね」
教授はちょっと困ったように倉田に話しかけた。
「はい」
「ペンライトは返却されたかね」
「え?」
倉田は驚いて目を見開いている。ペンライト?
「君のだろう。前に来た時に落としていったと思ったけど。近田くんが届けてくれるというので渡したが、君のだと伝えるのを忘れていた。あの様子だけど君のものだと知っていそうなものだったから」
倉田は気まずそうに、
「あ……いえ、はい。受け取りました」
と言って南の方をちらと見た。
おかしい。
委員会では雪野の証拠品だと言って近田が持ってきた。なぜそこで、それは自分のものだと言わなかったのだろう。
「どうして黙ってたんですか? 倉田委員長。雪野くんが疑われているのをわかっていたはずなのに……」
倉田は黙っている。
怪しい。
倉田委員長は、何かを隠している?
もしかして……雪野を閉じ込めるように仕向けたのは倉田委員長ではないだろうか。委員会での言動は、どちらかというと雪野を擁護しているようにも見えたのだけれど。
一か八か。
「ぼくには、わかりますよ」
南は、彼が言い訳を用意する前に、わざと同情的な声で言った。
「満場一致で雪野くんのだと思われて、悔しかったんですよね……」
これは挑発だ。
予想通り――いや、予想以上に、倉田の目に怒りの色が見えた。
「失礼だよ南くん。そんなことあるわけがないだろう?」
睨まれる。
「すみません。……じゃあ、どうしてです?」
後が怖いという思いもないこともなかったが、南は引かなかった。大きく見えた倉田の背中がどこか小さくなっている気がした。
「ま、このまま雪野くんが疑われればいいかなって思ったのさ」
倉田は意地悪くそう言ってのけた。
やっぱりそうだ。
「それだけだよ」
倉田は吐き捨てるように言って嘲笑う。
南は悲しい気持ちになりながら、倉田の本音を受け入れる。
倉田委員長も、やっぱり雪野のことを恨んでいたんだ。
雪野の不利になるように仕向けて、さらには、もしかしたら、見回りでわざと雪野をスルーして、校舎に閉じ込めたのかもしれない……。
でも、これには証拠なんて何もない。言い逃れはいくらでもできる。
すると雪野が一歩前に進み出て言った。
「ふーん。それならさ」
容赦のない視線を眼鏡越しに向けて。
「その本借りたのいつ?」
「え?」
「一週間前の七月十六日の十八時から二十二時の間だよね」
「は? 何を言ってるんだい~?」
「俺が帰宅せずに残っていた日がその日だ。委員長はその日、地下四階の見回りを頼まれたんだろ。でも、あえて俺を放っておいた。俺にカンニングの噂を立たせるために」
「それは予想かい~?」
「予想じゃない。俺の記憶だ。『脳とこころのプライマリケア』シリーズは地下四階のエレベータ前の棚の二段目に置いてある。六巻が一冊移動したなあと思った記憶がある。ちょうど今君が返却しようと持っているものだ」
「でたらめだねぇ」
「いや、通り道にある本のことは全部覚えてる。動くたびにわかる」
雪野は覚悟を決めたように、「ちょっと失礼」と、後ろに並んでいる人に話しかける。
「この本は、地下四階の右から三番目の棚にありますね。返却ですよね。たしか七月一日に借りてます。返却期限過ぎてるから今後気を付けてください。ああ、延長手続き済みならすみません」
そして、そのまた後ろに並んでいる生徒の手に持った本をしげしげと眺めて言う。
「ええと、あなたの持っている本は、この階のエレベータ前の棚の一番下の左から五番目にあるものですね。これから借りるんですよね。さっきまではあった。十分くらい前に手に取った。違いますか?」
きょとんとした顔で、「あ、はい、そうです」と答える生徒。
そして、先の生徒の順番が来たのだろう、司書が「貸出期限が過ぎています。次から気を付けてください」と言うのが聞こえてきた。
雪野はふう、と一つため息。
「そんな目で見ないでくれる。傷つくんだけど」
「あ、ごめん……」
南は慌てて目を伏せた。
この人は本当に本物なんだな。と、思う。
「どうしても目に入るもの以外、あまり見ないようにしてるんだけどね。どうでもいい情報が勝手に入ってきて頭の中を陣取って、疲れるから……」
南も、その行為には思い当たるところがあった。
自分には人の顔を見ないで話す癖があるのだ。相手の、知りたくもない残酷な本心が勝手に流れ込んできて、無駄に傷付いて動けなくなってしまう。
彼にとっては、そういうことなのだろうか。
「まあ、俺の言っていることが正しいかどうかは、入退室記録を見ればわかることだ」
帰りの支度を進める司書達の方を振り向く。
貸出返却業務がちょうど終わり、最後の見回りも済んだらしい。愛長医科大学の図書館は二階、一階、地下一階、地下二階、地下三階、地下四階にも小さく細長く図書室や視聴覚室があって数が多いが、最後に一括で電子施錠するのだ。
「全エリア、もうロックしますよー? はいはい外に出てください」
パチリパチリと消灯していく司書に雪野は、
「ああ、ちょっと待ってください」
「なに?」
「見回りは、誰がどの部屋に行くか決まっていますか?」
「決まっていないよ。地下とかは倉田くんがよく見てきてくれるよね。本を借りにいくついでにって。いつもありがとうね」
「その倉田音弥くんの入退室記録って見られますか? 本人はここにいます」
「記録? 残ってはいるけど、どうして?」
理由がなければそんなことはしない、というようなバリアを感じる。雪野は単刀直入に言った。
「とある事件がありまして、その証拠になるんです」
事件という言葉に、司書は怪訝そうに眉をひそめた。あと一歩だ。
「実は俺、図書館の地下四階に閉じ込められて何度かそこで夜を――」
「もういいよ、雪野くん」
慌てたように遮る。
倉田はふうっとため息をひとつつくと、
「場所を変えよう。ここは迷惑になるからねぇ」
雪野もそのことがバレないに越したことはないと、そこで話を引っ込めて頷いた。続きが気になるらしい司書を振り切って三人、消灯された校舎を後にした。
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