ファイル2「救急医学×傷」(2/4)

 映画撮影現場さながら「カーット!!」というメガホン越しの声で、防災訓練が終了。

 その場で書ける程の量の簡単なレポートを提出して、それから後片付けだ。


「はあ~。疲れた~」

「妙な気合いで乗り切ったよな」

 一大イベント感のあった行事が終わり、やれやれと南と神木はタトゥーシールや粘土を剝がしながら、メイク落としで混雑しているだろうトイレに並ぶことにした。今回の訓練は医学生はどちらかというとエキストラで、主役はトリアージ訓練を行う研修医だ。でも、メイクと演技の熱意(成績評価が下されるので)は、主役達をも凌駕していた気がする。

 と、女子トイレと男子トイレを隔てる突き当りの壁で、ちょっとした騒ぎが起きていた。


「岸本さんがいない?」

 岸本の彼氏だという大河内が、どこかで見なかったか、尋ねて回っている。岸本恭子という女生徒がいないらしい。大河内は付き添い役だったのか、それとももう流し終えたのか、傷のメイクもなかった。

「なあ春香も、恭子をどっかで見てないか?」

 春香と呼ばれた女生徒は心配そうな顔で列を外れる。こちらはかなりの重病役で、口元から胸にかけて血糊がべったりとついていた。右手には吐血用か血袋まで持たされている気合いの入りようだ。この衣装ももちろん貸出されたものだろう。

「知らない。困ったね。こーちの彼女さんだよね? 一緒に探すよ」

「参ったな……。ああ、頼む……」


 成績評価で出席点が五十パーセントを占めるこの訓練を休む者はいないはず。でも午前の講義によると、遅刻や早退でそれぞれ二十五パーセントマイナスされるという説明があったような気がする。

「早退かな?」

 南が言うと、神木は首を横に振る。

「いや、それはないだろ。風邪引いて熱あるやつだって最後までいたぞ」

「それこそ急病人だね……」

 ここには研修医とはいえたくさんの医者がいるのだからついでに処置してもらってから帰るのがいいと思う。訓練でパンデミックを起こしてもらっても困る。


 すると女子トイレの列に並んでいる一人が名乗り出た。

「岸本さんなら、メイクを私がしましたけど」

 普段から自分自身の化粧もバッチリ美人の日下部くさかべさんだ。

「じゃあ途中までいたってことだよな?」

 大河内は縋るような顔で尋ねている。

「一応出席はしていたみたいだから、早退扱いかな? てことは、筆記を満点近く取ればなんとか留年回避だけど……かなり怖いね」

 それを聞いた大河内が、

「いや、こんなことで留年だなんて……。一緒に卒業できないのも困るし、まだ一年だぞおれら。彼女だけ学年が変わるとか絶対嫌だ。ああもう、どこ行っちまったんだよ」

 と、カッコよく決まっていた髪の毛をくしゃくしゃに掻き毟り、悲し気に呻いている。


 流し台で化粧を洗い落とし、外に出て片付けを手伝っていると、また大河内の焦った声が聞こえてきた。

「先生、待ってください待って!」

「ああもう、わかったからさっさと呼んでこんか!」

「探しているけど、どこにもいないんです! 連絡もつかないし」

 講師に何やら直談判している。

「じゃあ早退だな! しかもこれ、演技点もゼロってなってるぞ……」

「そんな! 彼女は演劇部なんです! ありえない!」

「いいからとっとと行って早く連れてこい!」


 この授業で留年生を出してしまうのは本意ではないのか、講師もハラハラした様子だった。一応気を回してくれているのを見ると、他人事ながらほっとする。

(ぼくもうっかりミスで欠席とか、やっちゃいそうで怖いし……)


 明日は我が身の非常事態を横目に、片付け仕事を進めていく。訓練で使用した担架を、愛長医科大学病院の救命救急センターに置いて片付け、来た道を戻る。それを何往復か繰り返して、

「あれ?」

 視界の端に、見覚えのあるような華奢な背中が丸まっているのが見えた。たぶん、雪野がしゃがみこんでいる。どうしたのだろう。具合でも悪いのかな。

 南が駆け寄る足音に気付いて、やはり雪野がこちらを振り向く。

「!」

 だがその顔は鬱血したような赤紫色で、具合が悪いとかのレベルじゃない。

「うわっ雪野くん? 大丈夫?」

「ん?」

 しかし雪野はきょとんとしている。

「ああ……もしかして、まだ化粧落としてないだけ? 顔色やばいよ」

 雪野は言われて初めて気づいたらしく、ずれた眼鏡の位置を直しながら、「あとで落とす」と頷いて、また地面を見ている。

「早くした方がいいよ、トイレはもう空いてきたし。ここで何してるの?」

「これ」

「なになに?」

 指さした先、大量に吐血したような跡があった。

「うわ、血がべたっと」

「いや、これは血糊だ」

 血糊?

「固まっていない。誰かが汚したんだ。チッ……誰なんだよこういうの。自分が汚したところは基本自分で片付けろって先生に言われたのに」

「なんだ、ほんとだ……ん、でも、たった今こうなったなら、血の可能性もあるんじゃない? まだ固まってないだけで」

「いや、臭いも違う」

 言われて南も鼻を近づけてみる。

「本当だ。インクみたいな臭いがする。じゃあ血糊か」

 血糊ってことは、訓練で使ったのかな?

 雪野は顎に手をやると、

「ここに何かが置いてあったな」

 と、何やら注察している。南も身を乗り出して見てみると、

「ああ、跡があるね」

 たしかに、まっすぐ一本線の形でマスキングをしたように、汚れていない綺麗な場所があった。

「ここに何かが置かれてから、血糊がついて、その後その何かがまた取り外されている。血糊を使うなんて訓練ぐらいだし、間違いなく今日の出来事だ」

 雪野は首をかしげて南の方を見る。南は少し困って、「そろそろ戻ろうよ」と促すが、雪野は視線を血糊に向け苛立ったまま動かない。仕方なく南が代わりに「流せばいいかな? ぼく水持ってくるよ」と上体を起こした。

「いいから雪野くんも早く片付け手伝った方がいいよ。今、ちょっとピリピリしてるんだから」

「ピリピリしてる?」

「岸本さんがどっか行っちゃって戻ってこないみたいで。雪野くん知らない?」

 さっきまで騒いでいたことを思い出しながら、南は続けた。

「必修単位なのに、このままじゃ留年して学年が変わっちゃうって彼氏さんも半泣きだったよ」

「ふーん……」

 そこにA4サイズほどの板の小さな立て看板を束ねて運んでいる生徒が通りかかった。

「あ!」

 雪野は彼を呼び止めた。抱えているものを下ろさせ、せっかく結ばれていた看板の束をばらして、

「これ、見ろ。血糊だ!」

 真っさおむらさきメイクのまま叫ばれると妙に気迫がある。

 “防災訓練はこちらへ”という文言と大きな矢印が書かれている看板の柄の部分に血糊が着いていた。

 いったい誰だよ片付けてないやつは、とまたぶつくさ言いながら、

「これをこの位置に――」

 割印を合わせるように看板の柄をあてがう。

 南は内心、もう誰がやったとかどうでもいいから早く片付けようよと焦りつつ、

「ほらぴったり……ん?」

「ぴったりだけど、向きが変だ」

「あれ? ほんとだ」

 これでは訓練現場とは違う方向を指してしまう。

 雪野の眼鏡の奥が光る。


 そこへ、大きな影が差しかかった。

「お前らそんなとこで何サボってるんだ」

 講師だ。眉をひそめてこちらをにらんでいる。

(ほ、ほらーーーだから早く片付けようって言ったのに!!)

 だが講師はきょろきょろを辺りを見回して、それ以上は何も言わなかった。恐らく行方不明の生徒を探しに来たのだろう。

「手に持っているのは、もしかして岸本さんの指示書ですか?」

 恐れ知らずの雪野がわざわざ問いかける。余計なことに首を突っ込むなあと冷や冷やしている南の前、講師は手に持っていた紙をほらよと渡してきた。

「岸本恭子の居場所を知ってるなら、とっとと連れてきてくれないか。単位落としたら留年だぞ。演技点もゼロだから、早退なんてしたらもう後がない」


 雪野は頷くと、指示書に書いてある受傷状況を読み上げる。


「手すりに挟まれ、腹部を強打。顔面蒼白に冷や汗、腹痛、腹膜刺激症状――腹腔内出血か……」


 続けて、演技ポイントの欄に視線を落とす。


「痛みと早い呼吸のため、話しかけられてもうまく話せない、連続で話せるのは、二語程度で、お腹を触られたときには、お腹を膨らませて力を入れ「痛い!!!」と強く反応すること。腹部の診察時には、押されても、押していた手を離した時も、どちらも痛がること……ふーむ、重症患者だな。演技はかなり大変そうだ。でも、ゼロってのはさすがにどうなんだ?」


 考え込む雪野を、講師もじっと見守っている。南は、ここは協力すべきだと判断し、

「しかも、彼女は演劇部って言ってたよ」

 と、一緒に覗き込んでみる。


「血糊は使っていないな、これだと」

「たしかに」

 お腹の中で大量出血しているとあるが、外傷は打ち身のようなメイクだけだ。


「ああでも演技はぼくも大変だったなあ。なにせ、外国人設定だからね。ハァイ! ハワユー? 雪野くんは?」

「俺はほぼ死んでたから、黒タグ確認してスルー、って目の前の流れを、ひたすら絶望的な気分でぼーっと見ているだけだった」

「ほんとご愁傷様……」

 それは想像するのもつらい。でも、患者の気持ちを理解する上で貴重な体験のような気もする。

「タグは赤か……。赤タグのやつに状況を聞いてみたいな」

「神木も赤だったよ。あ、神木ー!」

 ちょうど通りかかった神木を南が呼び止めると、雪野はマップを確認しながら神木に尋ねた。「岸本さんを最後に見たのはいつ、どこで?」

「んー、普通に、重症メイクが終わってからずっと俺の前で待ってたけど」

 神木は今はもうすっかりメイクも落ちている。

「ふむ……前? メイクが終わった順番はわかるか?」

「ああたしか、小鳥遊春香さん、岸本恭子さん、俺。レッドは特殊メイクに時間がかかるから、リハーサルは免除なんだよね。で、メイク終わり次第現場に向かうんだけど――」

「この看板のところか?」

 雪野が柄の下部分に血糊のついた小さな看板をぱっと掲げる。

「そう! そこに」


 雪野は鬼気迫る深刻な顔で言った。

「やっぱりだ。岸本の現在地がわかった。早く行かないと……大変なことになるかもしれない」

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