ファイル2「救急医学×傷」(3/4)

 この通路はどうやら抜け道らしく、医者や看護師や医療従事者がバタバタと行き来している。そのうちの一人が足を止め、


「ちょっと、あなた、大丈夫!?」

 雪野の顔色の悪さに心底びっくりした看護師が慌てたように駆け寄り、手を取ると雪野の脈を測り始める。雪野も慌てて片方の手でほっぺたを引っ掻いて、


「平気です! 特殊メイクです!」

 指に付着した紫色を見せる。

 は? と眉を顰める看護師に、手短に説明する。


「……防災訓練? 特殊メイクって、何よもー! 紛らわしいでしょ、早く洗ってきなさーい!」

「はい、すみません」


 本物の病院での仕事の邪魔をして、とても申し訳ない気分になる。だが、雪野はなんと、さらに奥の場所へと向かい始めている。


「ちょっと、雪野くん! どこ行くの? この先は病院だよ。用もなく、あんまり入っちゃだめだよ!」

 てか、その顔で歩き回らないでください。


 南が追い付くと、雪野はその青い顔に汗を浮かべながら振り返って言う。

「あの看板で岸本が勘違いしてここで待機していたなら――今みたいに看護師か誰かに話しかけられて、役を演じ始めたはずだ」

「え?」

「俺は今、演技をしていないから、これで終わりだけど、訓練だと思い込んでいたらどうなると思う? しかも、演技のうまさや真剣さは評価に響く」


 あ。


「つまり、本物の看護師に遭遇しても、これこそが訓練だと思い込み、演技を続行したんじゃないか? それで、看護師は急病人と誤解した」


 まさか。


 あまり想像したくないことだったが、いや、まさか……?

 雪野と目が合う。完全にだ、と。


 雪野は大声で言った。


「岸本が危ない! ERへ急ぐぞ!!」



 ER――救急救命室へ向かった二人は、廊下を走っていった先、前方に、ストレッチャーに載せられて移動中の岸本の姿を発見した。彼女の腕には点滴が打たれ、恐らくそのまま救急蘇生外傷治療室に運び込まれるところだ。南と雪野は全速力で追いかける。


「ストレッチャー、ま、待ってー!!!」


 愛長医科大学病院は高度救命救急センターの役割も担っている。重篤な特殊疾病患者を二十四時間対応で受け入れ、ドクターヘリまでをも擁する県内唯一の規模だ。


「検査結果出たか!!?」

 医師と傍らの看護師が何か叫んでいる。

「出ました。ただ――すみません!! 異常が見当たりません!」

「なんだと……!? おい、痛むか?」


 全力疾走もむなしく、目の前でばたんと扉が閉まった。

 向こう側から医師と看護師の声が聞こえてくる。


 医師は岸本の腹部を触診したのか岸本は大きく「痛い!!!」と声を張り上げた。

「触ると痛むか……ううむ……血圧は!?」

「百三十の八十五です!!」

「……なんでそんな高いんだ! 症状的に、出血しているのは明らかなのに……っ」


 ああ……まずい、これはかなりまずい! まずいことになっている! でも、どうしよう、救急蘇生外傷治療室だなんて、ぼくなんかが突入していいものか!? 本当に!?

 さすがの雪野も顔を引きつらせて一瞬躊躇う。だが、


「腹腔内で微細な出血が発生している可能性もある! だったらレントゲンに写らないのも仕方がない――ええい!! 開腹して確認だ!」


 な、な、なんだってーーーー!? 開腹!?!?!


 このままでは無用な血が流される。


 もう躊躇している場合じゃない!!

 南と雪野はほぼ同時に扉を押し開けて、


「ス、ストップストップ!! ゲホッゲホッ……」


 息を切らして咳き込みながら中へ乗り込んだ。


「こら! 部外者は入ってくるな!」


 走ったせいで、ひどく息が上がる。

 中では、妊婦が陣痛を痛がるように素早く息継ぎをする岸本の熱演が続いている。医師ははっとしたように視線を戻すと、


「く、臓器のどこかが損傷されているんだ、早く開胸して処置をしないと危ないぞ! おそらく腹の中は血だらけだ!」


「ス……ストップ!! はぁ、はぁっ、ストップ! そ……っ、その人は、患者じゃないんです!! ぜーぜーはーはー」

「まっ……待ってくださ…… はっ、はーー、はぁ」


 だめだ。走ったせいで息が切れて、しゃべれない。日ごろの運動不足を呪う。ひょろっとした雪野くんなど膝をついて、這うような形でにじり寄っている。


 医師は鬼の形相で叫んだ。

「何言ってる! いいか学生、よく見とけ。一分間に三十回を超える浅く早い呼吸で、触られたときだけ痛がる、つまり腹腔内出血だ。目は半開きだが閉じてない、つまり昏睡はしていないが、おそらくどこかから出血は続いている。ほうっておくと死の危険が高いんだ。さあ早く麻酔を――」


 だめだ。間に合わない。このままでは治療されてしまう! 南は息を思いっきり吸い込むと、岸本に向かって叫んだ。


「カーット!! カット!! 訓練を、やめてくださーいっ!!」


 南が叫ぶと、何を訳の分からないことを……と睨む医療従事者の人だかりの真ん中で、のそりと起き上がる影がある。そして汗をかき赤らんだ顔が、晴れやかな笑みを作った。


「はぁっ、はっ、はっ、あーっ、よっしゃ! 合格?! ウチ、演技うまかったでしょ!? はぁっ、自信あったんだよねー! はぁっ、はあ」


 周囲が呆気にとられるのにも気が付かないまま、


「いやあ、長かった。あんまりにも長かった! でも、看護師さんとかレスキューの人とか研修医とか、すっごいリアルで、驚いちゃった! さすがにウチ、負けたかも……! 毎年訓練やってきたんだなーって感じ。年季が違うんだね! すごい。でもさ、点滴やったり、レントゲンまで取るとは思わなかったよ」


 ケロッとした顔で笑う岸本。


 ――ああ、後が怖い。

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